第三十三話 刹那の幸せ
アストラン跡を出発して約2時間。
小屋を後にした俺たちは、イヴの記憶だけを頼りに歩みを進めていた。
今目指している場所は、アストランから南西に20キロほどの距離にある湖。
水源が豊富な場所であれば、水も食料も同時に手に入る可能性が一番高い──それがイヴの考えだった。
小屋に植えてあったリンゴは端末に収納したものの、残りには不安が残る。
幸いなことに、変異ウイルスは依然として発症の兆候を見せていない。
やはりイヴの推論通り、人間となった俺たちに牙を剥くことはないようだ。
「結構歩いたな……。イヴ、大丈夫か?」
俺の心配に、イヴは柔らかい笑顔を返してくる。
「大丈夫だよ。段々と人間の体の感覚にも慣れてきたしね」
現在の俺たちに、かつてのような超常的な膂力はない。
あくまでも一般人に毛が生えた程度の力しかないのだと、全身を覆う疲労が物語っていた。
最初こそ身体能力の激変に息が切れ、大きな戸惑いに苛まれたが、今は少しずつ人間としての身体の使い方を掴み始めている。
湖へと向かう道中、幸いにもイデアと遭遇することはなかった。
所々に黒い水たまりを作って崩壊した残骸と、レプリカであろう肉塊のようなものが視界に入る程度だ。
レプリカは一体どれくらい生き残っているのだろうか。
いくらウイルスが蔓延したとはいえ、数万人が一瞬で絶滅したとは思いにくい。
どこかで身を潜め、イデアの脅威から逃れているのだろうか。
だが、それもきっと時間の問題に過ぎないはずだ。
イヴは、イデアやレプリカの残骸を見つけるたび、胸元で手を合わせ「ごめんね」と静かに呟いていた。
俺は何も言えず、ただその痛々しい背中を見守るしかできなかった。
「ふぅ……、少し休憩しよっか」
しばらく歩き続けた頃、木陰を見つけたイヴが腰を下ろす。
額にはうっすらと汗が滲み、人間の体がいかに脆く儚いかを突きつけてくるようだった。
俺はイヴの隣に腰掛け、問いかけた。
「そういえば、霊装の様子はどうなんだ?」
俺の問いを受け、イヴは端末を操作して表示された画面をじっと見つめる。
「うーん……全部が使えないってわけじゃないけど、ここまで適合率が下がってると、起動するだけでもかなり危険だと思う」
画面の中の数値は、先日と変わらず『7%』を示したままだ。
これもおそらく、俺たちが人間になった影響なのだろう。
「モードDとBなら、今はまだ大丈夫だと思う。それでも……普通の武器と変わらないレベルだけどね」
モードDとB。
俺の脳裏に、あの黒と白の剣型霊装と、二丁拳銃型の霊装が思い浮かぶ。
たしかに他の霊装は規格外に大きく、威力も派手で、今の俺たちのような普通の人間が扱える代物ではない。
もし無理に使おうとすれば、侵食どころか肉体そのものが崩壊しかねないのは明白だった。
「カインの刀はどう?」
イヴの問いかけに、俺は端末から刀を取り出し、その感触を確かめる。
ずっしりとした重みが手に伝わってきた。
元々適合率という概念が存在しない武器のため、刀自体に異常は見受けられない。
問題があるとすれば、それを振るう俺自身の肉体が、以前のキレを失っている点だ。
「前のような無茶は効かないかな……。でも、この刀自体に問題はないと思う」
俺の言葉を聞くと、イヴは立ち上がり、周囲を警戒するようにゆっくりと歩き始めた。
まるで気配を探るように周囲を見渡した後、くるりと振り返る。
「……うん、周辺は安全そうだね。……カイン、構えて!」
そう言うと、イヴは迷わず端末を操作した。
『モードB ネロ&ピュール』
手元に具現化する二丁拳銃型の霊装。
「今私たちがどこまで戦えるのか……お互いに把握しておかないと、ねっ!」
イヴが霊装を携え、一気に地を蹴る。
かつてのような圧倒的な速度はなく、十分に目で追える動きだ。
なるほど、模擬戦ということか。
俺は即座に刀を抜き放ち、イヴの放つ手数を弾き返していく。
筋力こそ落ちているものの、体に染み付いた戦闘経験が、最適な軌道を描いて肉体を駆動させる。
俺は刀の峰で薙ぎ払うように振り抜いた。
「すごいねカインっ! でも、ちょーっと甘いかな!」
イヴは刀の側面を軽やかに蹴り上げると、しなやかに体を捻り、勢いそのままに俺の腹部へ鋭い蹴りを放つ。
着弾の瞬間に威力を殺し、チョンと足先で触れるだけでニッと笑うイヴ。
「やっぱり経験が多い私の方が、まだ少しだけ有利かな?」
俺も笑みを返し、負けじと強がりを口にしながら踏み込む。
「ははっ! まだまだこれからだ!」
──それからしばらく、俺たちは互いの手応えを確かめるように打ち合いを重ねた。
イヴの身のこなしは、俺の想像を遥かに凌駕していた。
絶大な力を失ってもなお、積み重ねられた戦闘経験と天性の勘によって、かえって研ぎ澄まされているようにさえ映る。
これならば、もしクラス2や3程度のイデアに遭遇したとしても、二人で連携すれば切り抜けられるかもしれない。
「はぁ……はぁ……。ぷはぁ……! 疲れたぁ!」
イヴは霊装の具現化を解くと、そのまま草の上に丸く座り込んだ。
「ふぅ……。ははっ、イヴ強すぎだろ」
俺も肩で息を吐きながら、イヴの隣に腰を下ろす。
「えへへっ、カインもあんなに動けるなんてすごいよ。私、びっくりしちゃった」
二人で息を整えながら、端末から取り出したリンゴをかじり合う。
乾いた喉と疲れた身体に、甘美な瑞々しさが浸透していった。
この刀を作り上げてくれた鍛冶師のアルヴァルには、心から感謝しなければならない。
彼らは今、どうしているのだろうか。
……いや、考えるまでもなく、答えは分かっている。
俺たちはその罪も残さず背負って生きると、そう決めたのだから。
俺は胸の影を払うように、話題を変えた。
「湖までは、あとどれくらいなんだ?」
「今で半分ってところかな。湖に着いたら……真っ先に水浴びしたいな」
イヴが汗ばんだ胸元をパタパタと指ではためかせる。
一瞬見えそうになった肌に、俺は慌てて視線を横へと逸らした。
「へぇ〜……。覗いちゃダメだよ?」
俺の反応に気づいたイヴは、悪戯っ子のような笑みを浮かべ、覗き込むように顔を近づけてくる。
「の、覗かないって……!」
「ふふっ、冗談だよ。さぁ、そろそろ行こっか!」
差し出されるイヴの温かな手。
俺は照れくささを隠すように顔を背けつつも、その手をしっかりと握り返して立ち上がった。
世界は今もなお、凄惨な滅びへと向かっているというのに──胸の奥には、確かな幸福が満ちていた。
こんな穏やかな日々が訪れるなんて、想像すらしていなかったのだから。
頭上に広がる空には雲一つなく、静まり返った廃墟群すらも、どこか美しく映る。
世界がこれほど鮮やかだったなんて、今まで知る由もなかった。
前を歩くイヴは足取りも軽く、少女のような無邪気な笑みを浮かべて振り返る。
俺はその眩しい表情から、目を離すことができずにいた。
「ほらほら、置いてっちゃうよ? ……あれ?」
突然、イヴが足を止め、自分の顔にそっと手を当てる。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
心配になって駆け寄る俺に、イヴは首を横に振り、いつものように愛らしく笑ってみせた。
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと鼻血が出ちゃっただけ!」
そう言って指先で血を拭う彼女に──俺の胸の奥で、冷たい嫌な予感が渦を巻く。
ただの運動によるのぼせか、心配のしすぎなのかもしれない。
それでも、心臓を直接掴まれたかのような小さな、けれど消えない違和感が、静かに胸を蝕んでいった。
◇◇◇
──セントラル跡。
ふたりが旅立ってから、しばらくの時が流れた頃。
崩壊したセントラルの瓦礫の山で、ズルリと歪な影が蠢いた。
崩れ落ちた鉄骨と瓦礫の隙間から、赤く染まった「何か」を拾い上げ、貪るように体内へと取り込んでいく異形。
監視者やレプリカたちの無残な残骸を貪り食っては補修し、それでも先端からボロボロと肉が崩れ落ちていく。
「アァ……あと少シ……。アト少しで……ヤっと、終ワル……」
その異形──『クラス5』は、変異したレプリカウイルスに全身を苛まれ、絶えず崩壊を起こしながらも、執念だけで肉体を繋ぎ止めていた。
もはやこの肉体を動かしているのが誰の意志なのかすら、分からない。
数多のイデアやレプリカから呑み込んだ無数の憎悪と悲哀の濁流。その底から湧き上がる、たった一つの激しい執念だけが、彼女を駆動させていた。
「カ……イン……。私ハ……俺は……我々ハ……誰……? ふふ……アハハは……」
自らの口から漏れ出た『カイン』という名が、何を意味しているのかすら知る術はない。
クラス5は崩落していく身体を引きずり、半壊した一つの装置の前へと辿り着いた。
かつて楽園計画を統括していた、管理用端末。
瓦礫に埋もれたメインモニターからは、バチバチと不気味な火花が散っている。
すでにシステムとしての機能を失いかけた画面に、ただ一行、鮮明に焼き付いている文字列があった。
『楽園計画 TYPE:E ── 完了』
クラス5はその冷たい表示を、まるで愛しい恋人の頬を撫でるかのように、愛おしそうにそっと擦った。
「ふふ……アハハハハ……ッ! 会イに……行クよ……。それデ……全部、終ワリ……」
裂けた口から漏れ出す、狂気の笑み。
引き裂かれた喉から響くその声は、歓喜か、それとも絶望の叫びか。
全身から黒い泥のような血を滴らせながら、異形の怪物はゆっくりと歩み出す。
「楽園」の先で──すべてを終わらせるために。




