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楽園のイミテリス  作者: 十 名鈴
第三部
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第三十二話 決意の朝

監視者たちが恋い焦がれた、「人間」。

世界を歪ませてまで叶えようとした欲望。


それが一体どれほど甘美で素晴らしいものなのかと、考えてしまう時もあった。

レプリカに課された「一年弱」という呪われた寿命──そこから解き放たれた、本当の自由。



俺たちは知ってしまった。

口いっぱいに広がる瑞々しさ、肉体の底から静かに湧き上がる生命の鼓動。

ただ「生きる」ということが、これほどまでに愛おしく素晴らしいものなのだと。


「ふぅ……食べ過ぎちゃったね。もう苦しくて動けないよ」


イヴがお腹をさすりながら、恥ずかしそうに笑う。

並んで腰掛け、ふと視線が交差するたびに、また小さく笑い合う。

崩壊した世界というこの状況下で、胸の奥から溢れ出して止まらない幸福感。


「俺たち……本当に、人間になったんだな」


俺の呟きに、イヴが静かに頷いた。


「イヴは……最初の記憶も残ってるんだよな?」


「うん、覚えてるよ。……全部ってわけじゃないけどね。何度も作り直されているうちに、少しずつ曖昧になっちゃってるから」


「そうか……。まさか、こんな日が来るなんて思ってもいなかったな」


イヴは俺の隣にそっと寄り、体重を預けるように体を寄せてくる。

もし神様なんてものが存在するなら、この穏やかな時間を与えてくれたのもその気まぐれなのだろうか。


都合のいい奇跡なんてどこにもないと分かっていても、今だけはこの温かな奇跡に浸っていたかった。



「これから……どうする?」


俺の問いに、イヴはしばらく何かを考え込む。


「そうだね……。まずは水が必要になるかな。私たちが生きていくための水と食料」


そうだ、人間は継続的に命を維持するエネルギーを摂り続けなければ生きられない。

その事実は、先ほど一口ずつ噛み締めたリンゴの重みが痛いほど教えてくれていた。


「それに……今の私たちは、戦う力をほとんど失っているから。今まで通りにはいられない」


その言葉を聞き、俺は端末から刀を具現化させる。

かつては羽のように軽く、まるで自身の肉体の一部のように馴染んでいたはずの柄が、今は驚くほど鈍く重い。

とてもじゃないが、以前のような鋭い立ち回りは望めそうになかった。


「私の霊装も……うん、やっぱりほとんど機能しない。今はまだなんとか一部だけ使えるけれど、これもいつ使えなくなるか分からない」


手元の端末画面を見つめるイヴ。

俺たちが計画のために造られたレプリカであった以上、その強大な戦闘能力もまた、利便性のためにデザインされた一機能に過ぎなかったのだ。


もし……今この瞬間にイデアに急襲されたら──。

胸を過った焦燥を察したように、イヴが言葉を継ぐ。


「……なるべく気配を殺して、隠れながら行動しよっか。ウイルスの影響でイデアの数自体も減っているはずだけど、それでもまだ警戒は解けないから」



その後、俺たちは互いの状況を改めて確認し合った。

全身に刻まれていた無数の傷は綺麗に塞がっている。

イヴを蝕んでいた侵食もすっかり消え去り、まるで最初から存在しなかったかのように感じるらしい。


当面の目標は、水と食料の確保。

そして、身を寄せるための安全な拠点を割り出すこと。

それが、人間となった俺たちに課された最初の課題だった。


いつ変異ウイルスが形を変えて俺たちに牙を剥くかも分からない。

それでも──たとえ僅かな時間であっても、前を向いて歩みを進めなければならないのだ。


ただ、少しでも長く、イヴと一緒に生きていたいから。



外はすっかり日が落ち、深い闇が静寂を運んでくる。本格的な移動は明日からと決まった。

幸いにも小屋の中は荒らされておらず、身を休めるには十分すぎるほどの空間だった。


「え、えっと……ベッド、一つしかないね……」


イヴは視線を泳がせながら、恥ずかしそうに毛先を弄る。

過候な運命に抗っていた頃の凛々しさは消え、そこにいるのはどこにでもいる年相応の少女だった。

これまではずっと、張り詰めた心で強がり、大人びて振る舞っていたのだろうか。


「ははっ、今さら照れることないだろ? ほら」


俺は苦笑しながらイヴの手を軽く引き、一緒にベッドへ倒れ込む。


「えっ! わっ……ちょっと……っ!」


唐突な感触に小さく声を上げるイヴだったが、その表情には隠しきれない愛おしさが滲んでいた。

一人用の狭いベッドの上で、互いに向かい合って横たわる。


「はぁ……もう、カインってば相変わらず大胆だね」


イヴは呆れたように息を漏らしながらも、至近距離で俺の目を覗き込み、柔らかく微笑んだ。

整った美しい顔立ち。ただ──片方の瞳だけは、元には戻らず赤い色彩を宿したままだった。


「目……元に戻らなかったな」


イヴの柔らかい頬に指先を添え、愛おしく撫でながら見つめる。


「いいの……。これは私が背負い続けなきゃいけない、罪の痕だから」


「半分……俺にも背負わせてくれ」


俺の言葉に、イヴの目から一筋の透明な雫が零れ落ちる。


「……ありがとう、カイン」


もう、絶対にイヴ一人に重荷を背負わせたりはしない。

これから訪れる苦しみも、喜びも、全てを隣で分かち合って生きていくんだ。

心地よい疲労感に包まれ、俺たちは吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。




その夜──俺は夢を見た。


暗闇の底で、ひたすらに何かを謝り続けている少女の夢。

姿形はイヴに瓜二つなのに、醸し出す雰囲気はどこか決定的に異なっていた。


(ごめんなさい……っ)


(ごめんなさい……。それでも……っ)


少女の華奢な体が、どろりとした漆黒の闇に呑み込まれていく。

必死に手を伸ばし、駆け寄ろうとしても、縮まらない無限の距離。


(二人の……楽園のために──)





──差し込む穏やかな木漏れ日で、目が覚めた。

胸の奥に、不気味な夢の残滓がくすぶっている。

内容は記憶の靄の向こうに消えてしまったが、ひどく重く、大切な何かだったような気がしてならない。



「ふぁあ……っ……うおっ!?」


大きく伸びをしながら体を起こした瞬間、鈍い衝撃が頭部に走る。


「〜〜〜っ! いったぁ……!」


どうやらイヴが間近で俺の寝顔を覗き込んでいたらしく、不意に動いたおでこが直撃したらしい。

イヴは目をうるうると濡らし、両手で鼻頭を押さえながらぷくっと頬を膨らませていた。


「いたた……。もう、急に起き上がられたら避けられないよ……」


「はは、人の寝顔なんて無防備に覗き込むからだろ」


俺が苦笑しながら頭を撫でてやると、イヴは不満そうにしながらも、嬉しそうに目を細めた。


「はいこれ、お腹減ってるでしょ? まだリンゴしかないけど」


差し出された赤い果実に、迷わずかじりつく。

シャクッ、と溢れ出す瑞々しい果汁。

冷えた寝起きの身体に、甘美な潤いがじわじわと浸透していく。

昨日あれほど食べたはずなのに、一口ごとに新鮮な感動が胸を満たした。


二人で果実を分け合いながら、これからの行動について言葉を交わす。



「まずは、今の世界の現状を把握しておきたいな」


「うん……ウイルスのことも、イデアのことも。それに……まだ『クラス5』……最初の私が残っているはずだから」


その名を聞き、俺は思わず息を呑む。


「クラス5か……。あのレプリカウイルスに呑まれて消滅した、なんて可能性はないのか?」


俺の問いに、イヴは静かに首を横に振った。


「……それはないと思う。きっと世界のどこかで、今も生きているはず。ただ……以前ほどの力は残っていないと思うけど」


「あの時、私が存在をほとんど消滅させかけているし……仮にウイルスに耐えていたとしても、相当なダメージを負っているはずだから」



クラス5──最初のイヴ。


狂気とレプリカへの憎悪に精神を飲まれた、悲しい人間。

数多のイデアを取り込み、融合した末に生まれた死の怪物。


そもそも、彼女の本当の目的は何なのだろうか。

憎悪の対象であったアストランもセントラルも崩壊した今、一体何を求め、何のために生き永らえているというのか。


「クラス5の目的は、一体何なんだろうな……。憎んでいたレプリカの街も滅びた今、これ以上何を望むんだろうな」


胸の奥で渦巻く疑念をそのまま口に吐き出す。

イヴはしばらく瞳を落とし、思考を巡らせた後に言葉を落とした。


「……ごめんね、こればかりは私にも分からないや。でも……きっと、私たちの存在と無関係じゃないと思うんだ」


「クラス5……彼女はきっと、私たちに会いに来る」



俺は──いや、俺たちは、まだ世界の真実を何も知らないのだ。

クラス5の真意も、俺たちが生かされ「人間」へと姿を変えた理由も。

それらが一本の糸で繋がっているのだと、確信めいた予感が胸を突く。


だが……今の俺には、クラス5に対する憎しみや怒りは欠片も残っていなかった。

彼女もまた、苦痛の果てに狂っていった「最初のイヴ」なのだから。


叶うのなら──救いたい、と切に思う。



「そうだな……。行こう、イヴ」


差し出した俺の手を、イヴが温かな温もりとともに強く握り返す。


二人で手を繋いで立ち上がる。



今の俺たちなら、どれほど過酷な運命が待ち受けていようと乗り越えていける──不思議と、そんな気がしていた。

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