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楽園のイミテリス  作者: 十 名鈴
第三部
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第三十一話 「美味しい」という名の幸福

約6000年前、地球は突如として死のウイルスに包まれ、九割近くの人類が死に絶えた。


人々は機械の肉体に魂を移植し、長き眠りにつくことで死を免れる。

そして、人類の代替品として生み出された模造品──レプリカ。


彼らに残された役目は、世界の管理。

いつか再び目覚める創造主のために。


しかし、レプリカたちは決められたレールから外れ、自らが「人間」になる道を望む。


少年と少女の運命を歪ませ、世界の理すらも歪めてまで。

歪められた世界が、自浄作用のごとく突き付ける答え──それは「人類の滅亡」。



その裏に隠されていたのは、一人の少女の悲痛な願いと、歪んだ愛情だった。






◇◇◇






崩壊したセントラルを、イヴとともに歩いていく。

全てが瓦礫に埋もれ、所々にはレプリカと思われる肉塊と、黒い液体に沈むイデアの残骸。


例のウイルスの影響だろうか。

俺たち以外に、生物の気配は感じない。



「カイン……私を責めないの……?」


ふと、イヴが静かに口を開く。

声を微かに震わせ、俯いたままだ。


「……ああ。きっと……俺でもそうしたと思う」



このアストランの惨状を招いたのは、きっとイヴなのだろう。どこかで薄々勘づいていた。

監視者が残した最期の言葉と、狂気と憎悪に呑まれていたイヴの姿。それらが全てを物語っている。



記憶を残されたまま何度も作り直され、処分され、感情すらプログラムされ、愛する人が死ぬと分かっている計画を強要される苦痛。


その怒りと憎しみを責める権利なんて、俺にはない。

俺だって……きっと同じ過ちを犯したはずだ。

たとえその愛情が、あらかじめ仕組まれた偽物だったとしても。



それに……これで良かったのかもしれない。

レプリカという歪みきった凄惨なシステムは、ここで終わりにするべきだと思ってしまったから。

俺の答えに、イヴはただ一言、「ありがとう」と小さく零した。




崩壊したアストランを、あてもなく二人で歩いていく。


「それにしても……人間か。本当に俺たちが……人間になっているのか?」


未だ拭いきれない半信半疑を込め、イヴに尋ねる。


「うん……間違いない……と思う。ウイルスが発症していないのも、きっと私たちが人間になったから」


イヴは頷き、自身の推論をゆっくりと紡いでいく。


「6000年前のウイルスは、人間のみに発症したでしょ? だから機械化した人類やレプリカは平気だった」


「でも、今回のウイルスは変異してるんだよな?」


俺の問いかけに、イヴが静かに頷く。


「そうだね……ウイルスは進化したんだと思う。前回滅ぼしきれなかった人間を滅ぼすために、今回は『完全な人間以外』に発症するように」



完全な人間以外、か……。

イデアやレプリカといった存在のことだろう。

だが、だとしても人間が発症しない理由が分からなかった。


俺の疑問を察したように、イヴが話を続けた。


「前回のパンデミックで『完全な人間』は一人残らず絶滅しているはずなんだよ。だから、今回進化する時にその特性を捨てて、毒性を強めたんじゃないかな……?」


「なるほどな……。もう存在しない人間に割り当てる無駄な機能を削ぎ落とし、イデアやレプリカに特化したってことか……?」


「そういうことだと思うよ。どうして私たちが人間になれたのか……それだけは分からないけれど、今は奇跡に感謝しないとね」



少し思案したあと、イヴは柔らかく微笑む。

直後、彼女はお腹をさすりながら辺りを見回した。



「それにしても……お腹が減ったね……。アストランの外まで行ってみよっか」


アストランの建物は大きく崩落し、地面には深々と地割れが走る。

至る所に撒き散らされた赤い血痕。

道は瓦礫に埋め尽くされ、まともな足場すら見当たらない。


かつて軽々と動いていたはずの肉体が、まるで鉛のように重い。

一歩を踏み出すという行為が、これほど苦しいものだとは知らなかった。


「っ……ハァ……っ。俺ってこんなに体力無かったか……?」


冷たい風が肺を満たすたび、胸の奥を刺すような激痛。

崩れた瓦礫をわずかに乗り越えるだけで膝が笑い、足の裏を鈍い痺れが襲う。


かつての自分たちなら、この程度の障害などひと跳びで超えられたはずだ。

しかし今の身体には、跳ね上がる脚力も、風を切る軽やかさもない。

泥と灰に塗れた地面を踏みしめ、重力に逆らうだけで息が絶え絶えになる。



これが──「人間」になるということなのか。



「カイン……大丈夫……?」


背後からの声に振り返ると、イヴが肩を大きく揺らして息を整えていた。

木枯らしに揺れる、淡いオレンジ色へと変化した髪。

頬は赤く染まり、乾いた唇から荒い呼気が漏れ出す。


「ああ……大丈夫だ。イヴこそ、足……痛まないか?」


「ううん、平気だよ。ただ、なんだか……全身が重たい気がする……それと、すごくお腹がキリキリしてるかな」



『疲労』と『空腹』。

初めて感じるその生理現象を、今の俺たちは身をもって体験している。

人間という存在が、これほど脆く過酷な肉体を抱えて生きているなんて。


だが──これこそが「生きている」という証なのかもしれない。



「少し休もっか。……ほら、あそこはまだ大丈夫そう」


イヴが指さす先に、ぽつりと佇む小さな小屋。

アストランの外れにあったそれは、運良くイデアの襲撃を免れ奇跡的に原型を留めていた。

傍らには、鮮やかな赤い果実を実らせた樹木が数本。


かつて霊装を固く握りしめていたイヴの手から、今は戦う者の力強さが消え失せ、普通の少女のそれとあまり変わらない。

そっと手を握り返すと、彼女は弱々しく、けれどどこか嬉しそうに微笑む。


人間となった代償として突きつけられた、生々しい「生の重み」。


滅びゆく世界の中、俺たちの「人間」としての最初の一歩が、確かにここから刻まれ始めた。




小屋の中に足を踏み入れても、荒らされた形跡は見当たらない。

元の住人が何もできぬまま、全てを置き去りにして逃げ出したのだろうか。

イヴは室内を探りながら、落胆の色を浮かべる。


「食べ物なんて……あるわけないよね。レプリカには必要ないから……」



直後、イヴが何かを思い出したように表情を硬直させた。


「いや……たしか外に生えてたものって、まさか──」


弾かれたように小屋を飛び出していくイヴ。


「あ……! おい、どうしたんだよイヴ!」


慌てて後を追うと、外で彼女のはしゃいだ声が響く。



「見て! カイン! これ──『りんご』だよ!」


鮮やかな赤を宿した果実を両手に抱え、イヴが駆け寄ってくる。


「りんご……? それは一体……」


聞き慣れぬ単語の響きに、思わず問い返す。


「食べ物だよ! えっと……エネルギーが補給できるってこと!」


イヴの言葉を頭で反芻する。こんな丸い物体が……?

困惑とは裏腹に、『りんご』を凝視した瞬間、腹が小さく鳴り、ゴクリと喉が鳴った。


「ほら……カイン。私の中に残ってるオリジナルの記憶の通りなら……」



──かぷっ。


イヴの小さな口が、赤い皮を破る。

シャクッ、と溢れ出る小気味よい咀嚼音。

一瞬で辺りを満たす爽やかな香り。



「〜〜〜〜っ! これが……『人間』なんだね……」


果実の表面に、ポタリと落ちる透明な雫。

イヴの瞳からあふれ出す涙。しかし、その唇には確かな笑みが浮かんでいる。

果実を支える指先は歓喜に震えていた。

そこに悲しみや苦痛の色がないことを悟る。


「君も……食べてみて……っ!」


イヴから手渡された『りんご』。

手のひらに伝わるのは、驚くほどずっしりとした、命そのものの重み。


期待と不安の眼差しを受け止めながら、彼女に倣って真っ赤な果実へと歯を立てる。



駆け巡る、甘美で瑞々しい果汁。

溢れ出す潤いが渇いた喉を侵食し、冷え切っていた身体の隅々まで温かな血が巡り始める。

これを表す言葉なんて浮かばない。


突如として視界が滲み、溢れ出る涙を止められなくなる。



「ははっ……何だよこれ……。すごいな……人間は」


歪む視界のまま、何度も、何度も果実にかじりつく。

咀嚼を重ねるたびに溢れ出す温かな歓喜。


今、この瞬間に自分が「人間」として命を紡いでいるのだという強烈な実感。



「なんて……なんて……言えばいいんだろ……」


こぼれ落ちる感情を受け止める言葉が見つからず、ただ涙とともに果実を噛み締める。

これまでの過去のどこを探しても、この感覚を形容する言葉など存在しなかったのだから。


「カイン……それはね、『美味しい』って言うんだよ」


イヴが震える指先で自らの涙を拭い、愛おしそうに目を細める。


「美味しい……そっか。うん……美味しい……」



初めて耳にする響きが、乾ききった心へじわりと浸透していく。

美味しい。そして──胸の奥から溢れ出す、言葉にできないほど愛おしい幸福感。



「うん……美味しいね……カイン……っ!」



視界を濡らしたまま顔を見合わせ、ぼろぼろと涙を零して笑い合う。

この涙の本当の意味など解らない。

けれど……途途もない時間をかけて待ち望んだ瞬間が、まさに今なのだと解る。



ずっとこうしたかったんだな俺は。



大切な存在──イヴと同じ時間をかみしめ、一緒に生きたかったんだな。




お腹が苦しくなるまで果実を口に運び、泣き、笑い、肩を寄せ合う。



人間になって初めて触れたのは──『美味しい』という名の、温かな幸福だった。




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