第三十話 命の鼓動
何度も、何度も夢を見ていた。
だが、夢と思っていたものは、ただの残酷な現実だった。
それも、もう終わったはずだった。
心残りが無いなんて言ったら嘘になる。
したいこと、行ってみたい場所を挙げだしたらキリがない。
だって、俺は君と……まだほんの少しの時間しか過ごしていなかったのだから。
温かい何かが、全身を優しく包み込んでいく感覚がする。
なぜだか、とても愛おしくて懐かしい。
俺はこの感覚を知っている。
誰かがずっと俺の名前を呼んでいる。
その声は──暗闇に包まれていた俺の世界を、優しく明るく照らしてくれた君の声。
どうして忘れちゃっていたんだろう。
最初の俺と、最初の君の記憶。
(カイン……)
また、愛しい声が聴こえる。
(カイン……辛かったね)
「……ああ、そうだな。ずっと辛かった。……でも、君に比べたら、こんなものなんてことないよ」
君が一人で抗い続け、耐え抜いてきた苦しみに比べたら。
(これは、私の罪。君と私のために作り上げた……二人だけの楽園のための)
(私のことは許さないで。……そして、もう思い出さないで)
なんでそんな悲しいことを言うのか、理解できなかった。
どうして? やっと……やっと君のことを思い出せそうなのに。
(いいの。だって、君の隣には──)
その優しく切ない声とともに、視界が眩い光に包まれていく。
「待ってくれ……! 君は──」
◇◇◇
「……イヴッ!」
腕を伸ばし、消えゆく声を掴み取るように目を覚ます。
「俺は……生きてる……? たしかにあの時──」
鮮明に残る記憶。
イヴと刺し違えたあの瞬間。腹を貫かれた冷たい衝撃と、俺の刃がイヴの肉体を裂いた手応えは、今も手元に生々しく焼き付いている。
「そうだ……イヴ……ッ!」
俺は弾かれたように跳ね起き、視線を横へ走らせた。
そこには──静かに横たわる、彼女の姿があった。
「イヴ……! 頼む……頼むから……ッ!」
俺は彼女の小さな体に縋りつき、壊れものを扱うように優しく抱き上げる。
死んだはずの俺が生きているなら、君だって──。
そんなすがるような祈りを胸に抱いて。
赤黒く変色していた金髪は、元の輝きを取り戻すように混ざり合い、美しい淡いオレンジ色へと変わっていた。
背中から生え出ていた異形の腕も消え去り、かつての愛おしい彼女の姿に戻っている。
「起きてくれ、イヴ……! お願いだ……ッ!」
抱きしめた体から伝わる微かな体温に、胸が壊れそうになる。
顔を埋め、ぽろぽろと涙をこぼした。
その時──冷たくなっていた俺の頬に、優しく温かな指先が触れた。
「……ふふっ。また……泣いてるの?」
静かに瞳を開いたイヴが、愛おしそうに笑みを浮かべていた。
肌には血色が宿り、先刻までの凄惨な殺し合いがまるで嘘だったかのように。
「はは……っ。……お互い様だろ」
イヴの目からも、透明な涙が溢れ落ちていた。
濁った赤に染まっていた瞳は、片方だけが澄んだ琥珀色へと戻っている。
どうして二人が生きているのか、どんな奇跡が起きたのかなんてどうでもよかった。
ただ──もう一度君に触れられた喜びと愛おしさが、胸がいっぱいになるほど溢れてくる。
俺たちは互いの存在を確かめ合うように、互いの体温を確かめるように深く抱き合った。
これが都合のいい夢などではなく、確かに君がここにいるのだと証明するために。
二人の体には過酷な戦いの傷痕が残っていたが、その全てが綺麗に塞がり、まるでずっと昔の古傷のように馴染んでいた。
ふと、イヴが自身の髪色が変わっていることに気づき、指先でくるりと毛先を弄る。
「私、髪の色……変じゃないかな?」
不安そうに上目遣いで尋ねてくる仕草があまりにも愛らしくて、俺の唇から自然と笑みが零れ出た。
「全然……。すごく綺麗だよ」
俺の言葉に、イヴは安心したように頬を染めて小さく笑う。
「……夢なんかじゃないよな?」
確かめるように呟くと、イヴは年相応の少女のような笑みを浮かべ、俺の頬をふにっと優しくつまんだ。
「ふふっ、夢じゃないよ。私も……君も、今こうして……生きてる」
その温もりに安心すると、また涙が溢れて止められなくなる。
「もう……また泣いてる。……ごめんね、あんな辛い約束させちゃって」
イヴは少し背伸びをしながら、愛おしそうに俺の頭を優しく撫でてくれた。
「もう……あんな約束はさせないでくれ」
「うん。もう、絶対に言わない」
少し前まで殺し合っていた世界が嘘のように、俺たちは顔を見合わせて笑い合った。
滅びゆくこの歪んだ世界で起こった都合のいい奇跡に、今この瞬間だけは静かに感謝した。
「でも……確かにあの時、二人とも死んでいたはずだよな?」
呟いた俺の言葉に、イヴも深く頷く。
「何があったんだろうね……。それに、これは──」
イヴは周囲へ視線を巡らせた。
セントラルが崩落していく惨状までは覚えていたが、目の前の景色はそれ以上に凄惨を極めていた。
まるで世界そのものが引き裂かれたかのような地割れが走り、奇怪なことに無数の瓦礫が俺たちを避けるように円を描いて散乱している。
そこには、偶然では説明のつかない、明らかな『意思』の介在を感じさせた。
──ぐぅ。
静寂の中、俺のお腹が派手な音を立てて鳴り響いた。
生まれて初めて味わう生理現象に、俺は驚きと強烈な恥ずかしさで固まってしまう。
だが、それ以上に目を見開いて驚いていたのはイヴだった。
「カイン……もしかして、お腹が減ったの……?」
「たぶん……? 内側から何かを欲しがっているような、妙な感覚がする……」
俺が困惑しながら答えると、イヴはさらに信じられないといった表情を浮かべた。
──と、次の瞬間。
イヴのお腹からも、全く同じ愛らしい音が鳴り響く。
「っ~~~!?」
イヴは顔を真っ赤にし、照れ隠しのように両腕を大きく振って誤魔化そうとした。
「え、えっと……! 違っ、違うの! これは気のせいだからっ!」
恥ずかしさを打ち消すように、イヴは大慌てで話題を逸らす。
「そ、そうだ! おかしいんだよ! レプリカに『食事』なんて必要ないはずなのに!」
聞き慣れない「食事」という響きに首を傾げつつも、なぜかその言葉がとても温かく、甘美なものに感じられた。
「食事……? 今の音と、関係があるのか?」
俺の問いに、イヴは照れを捨てて真面目な表情へと戻り、静かに語り始めた。
「覚えてる? レプリカの寿命は1年しかないって話……。レプリカはね、外部からエネルギーを補給する必要がない構造なの」
理解が追いついていない俺の顔を見て、イヴは言葉を補う。
「……充電された電池で動く人形、みたいなものかな。ごめんね、嫌な例えだけど」
「いや……なんとなく分かった。補充ができないから、使い切ったら終わり……ってことか」
「うん。だから……今の私たちに起きていることは、レプリカとしてはあり得ないことなの。これじゃまるで──『人間』だよ」
「俺たちが……人間……?」
イヴは静かに頷いた。
「私もオリジナルの記憶でしか知らないけれど……人間はエネルギーが減ると空腹を感じて、それを補うために『食事』をするの」
俺たちは、セントラルによって製造された精巧なレプリカだったはずだ。
そんな奇跡が、本当にあり得るのだろうか。
だが……目を覚ましてからずっと感じていた。
体の中から、かつてあった異能の力が抜け落ち、代わりに重みのある「生」の感覚が宿っているのを。
「君も気づいているんでしょ……? 力が入らないことに。ほら……」
イヴは自身の端末を操作し、その画面を俺に見せた。
【霊装適合率︰7%】
俺はその数値に目を疑った。
かつて90%を超える適合率を誇り、人智を超えた戦力を叩き出していたイヴの数値が、見る影もなくなっていた。
これでは……ただの普通の少女と変わりない。
「まさか……」
「……うん。私たち、人間になったんだよ。ううん……『人間に戻された』と言った方が正しいのかな」
イヴから告げられた衝撃の事実。
信じがたいはずなのに、腹の底から湧き上がる空腹感という生命の鼓動が、それが真実だと突きつけてくる。
「そんな……一体なにが起きているんだ──」
その時だった。
無惨に積み重なる瓦礫を押し退け、一体のイデアが姿を現した。
クラス3以上の巨体。今の力を失った俺たちでは、抗う術すらない絶望的な脅威。
「くそっ……! イヴ、下がれ!」
俺たちは互いを庇い合うように身を寄せ合った──その時。
イデアが歪な悲鳴を上げ、その場で激しくのたうち回り始めた。
装甲の隙間からどす黒い油を撒き散らし、内部から腐食していくように脆く崩れ去っていく。
その異常事態を目撃した瞬間、イヴの顔から一気に血の気が引いた。
「嘘……そんな……っ!」
イヴは俺の手を強く引き、崩壊するイデアから命からがら距離を取る。
額に冷や汗を浮かべ、唇を震わせながら呟いた。
「……レプリカウイルス……」
その名を知っている。セントラルの記憶で見た、かつて人類を滅亡へと追い詰めた最悪の厄災。
「なんで……どうして……! また世界が……っ!」
オリジナルの記憶を持つイヴにとって、それは過去の悲劇ではなく、現実の恐怖だった。
「それに……機械の体がどうして発症するの……!?」
人類はウイルスから逃れるために機械化したはずだ。
だとしたら、なぜ──。恐ろしい推測が頭を駆け巡る。
イヴは青ざめた顔のまま、震える指で端末を叩いた。
「使えるか分からない……! でも、今はこれしかないから……っ!」
『モードD アサナシア』
機械音声とともに無機質な光が走り、漆黒と純白の二丁の剣が現れる。
切り裂いた対象を管理下に置き、その現象を拡散させる能力を持つ霊装。
イヴが黒の剣を振るうと、刃が空間を切り裂き、その波動が俺とイヴの身体を通り抜けていった。
「イヴ……! 一体何を──」
「……あ……」
イヴは端末の数値を見て、信じられないといったように目を見開いた。
「ウイルスが……変異してる。私たちも……確かに感染しているのに、発症していない……」
イヴは悲しげに、けれどどこか救われたような、複雑な笑みを浮かべた。
「これじゃ……あの時と完全に逆……」
その呟きを聞いた瞬間、俺の胸の奥で恐ろしい警鐘が鳴り響いた。
この惨状すらも、世界にとっては更なる「終わりの始まり」に過ぎないのだと。
俺とイヴが人間へと変化した理由。
それがまさか──世界を破滅させてまで叶えようとした、一人の少女のあまりにも切ない願いの結末だとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。
そして、死に絶えゆく世界の中で。
俺とイヴの物語もまた、静かに終わりを告げようとしていた。




