第二十九話 繋ぎ止める何か
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それは、あまりにも静かな『終わり』の始まりだった。
地の割れ目から噴出させたのは、世界を呑み込む恐ろしい密度の白煙。
着の身着のまま逃げ惑う僕たちにとって、それが何なのか知る由もなかった。
仲間はもう何人もイデアに惨殺された。
機装すら持たない一般人が抗える術などなく、ただ一方的に蹂躙されていく。
僕たちは街を維持し、ただ静かに暮らしていただけの存在だったのに。
楽園だったアストランは崩壊し、初めて踏み出す外の世界で、理由も解らぬまま死に物狂いで逃げ惑う。
足を止めた者から肉塊へと変わり、闇に呑み込まれていく。
崩壊した街を飛び出して、もうどれほどの距離を走り続けたのかも分からない。
イデアたちは一切足を緩めることなく、ただ僕たちを途絶えさせるためだけに襲いかかってくる。
街を守護していた部隊の姿は、どこにもなかった。
突如として外壁が破られ、視界を埋め尽くすほどのイデアが雪崩れ込み、すべてを砕き割ったのだ。
そして、世界が壊れるほどの猛烈な鳴動。
何も知らない僕たちですら悟ってしまう。
──この世界は、もう終わるのだと。
それでも僕たちは逃げるしかなかった。
目の前で命を奪われる人々を粘りつくような死への恐怖が侵食していく。
怖い。死にたくない。痛いのは嫌だ。
数十人いた避難の列は、気付けばほんの数人にまで減っていた。
それでも、走り続けた。
靴の中は血で濡れ、ドロリとした嫌な感触が伝わってくる。
今にも脚を投げ出したいほどの激痛を、唇を噛み千切りながら耐え抜いて走り続ける。
だが──すぐ後ろからは凶悪な駆動音とともに圧倒的な死が迫り、残された命の刻がわずかであると突きつけられる。
それでも足を止められなかった。
僕は、あんな風になりたくない。
目の前で殺されていった何人もの「人」たち……その死を悼む猶予すら与えず、奴らは容赦なく爪を立ててくる。
この逃走に救いなどないと分かっている。
行き着く先にはただ深遠な絶望しか残されていないと、脳が理解している。
それでも諦めきれず、愛する家族の手を固く握り締め、命を零し落とさないために必死で地を蹴り続けた。
──突然、背後を追っていたイデアたちが、吹き出した白煙に触れた瞬間にピタリと動きを止めた。
「ギ……ガ……ア゛ア゛……」
死に際のような不協和音とともに、イデアの装甲の隙間からどす黒い体液のような油が噴出し、重い音を立てて崩れ落ちる。
「何が……起きてるの……?」
何が起きたのかは分からない。けれど、それは千載一遇の好機だった。
追手の動きが鈍っていく。
今のうちに逃げるしかない。死にたくない。
「みんな! 今のうちに──」
呼びかけた瞬間、視界が激痛とともに赤黒く染まった。
「え……? なに……これ……」
同時に、内臓を雑巾のように絞り上げられるような劇痛が走り、立っていることすらできずに膝から崩れ落ちる。
痛い。痛い痛い痛い痛いイタイイタイ。
目や耳、鼻、全身のあらゆる開口部から赤黒い体液が溢れ出し、地表を赤く汚していく。
身体の底から溢れ出る、禍々しい血の膿。
「いだいよ……だずげ──」
隣で、骨の砕ける不快な音が響いた。
手を繋いでいた家族が、熟した果実が押し潰されるように、全身を歪ませて破裂し崩れ落ちたのだ。
広がる大量の血の池。その中心に転がる、赤く染まった肉の塊。
「いやだ……どうじで……」
差し伸ばした手から、指先がポロポロと崩れ落ちていく。
指から手首、腕へと、肉と骨が音を立てて崩壊し、醜い肉塊へ変わっていく。
やがて痛みすら麻痺し、全身が朽ち果てていく。
どちゃっ、と重い塊が落ちる音がした。
それは、僕自身の肉体が崩れて地面に倒れ伏した音だった。
薄れゆく視界の果てで、無数のイデアたちも同じように崩れ去っていくのが見えた。
醜い断末魔を上げながら、機械の肉体が壊れていく。
一つ、また一つと、物言わぬ残骸へと変わり果てる。
人類が築き上げた平和な街は、イデアによって一瞬で惨惨たる地獄絵図へと変わり、そのイデアすらも抗いようのない狂気の厄災に呑み込まれていく。
逃げる場所なんて、最初からどこにも存在しなかったのだ。
すべてに平等に訪れた死の災厄は、意思を持つように生き残りを追い詰め、世界全体を優しく、そして冷酷に包み込んでいく。
握っていた手の温もりも失われ、視界そのものが割れて砕けていく。
どうして……僕たちが何をしたっていうんだ。
理由も分からぬまま薄れゆく意識の中、最後に捉えたのは──崩壊したイデアの残骸を貪り食う、異形の何かだった。
それはゆっくりと僕たちの目の前へと這い寄り……そして、すべてが黒い闇に呑み込まれた。
◇◇◇
イタイイタイイタイクルシイ。
まだ終われナイ。
継ぎ接ぎの肉体を引きずりながら、『ソレ』は進み続けた。
道中に転がるイデアの残骸と、崩壊したレプリカの肉片を見つけては、残さず貪り喰らっていく。
このままでは肉体が保たない。崩壊してしまう。
狂気に呑み込まれながらも、抗うようにソレは突き進む。
世界が終わりを迎えてもなお、内から湧き出る執念がその肉体を動かしていた。
クラス5。
かつてイヴとカインが対峙した異形の怪物であり、最初のイヴの成れの果て。
イヴに生かされ、一部を捧げ、コアのみとなりながらもイデアを取り込み続け、歪にその姿を繋ぎ止めていた。
ただ一つの目的のために。
世界を包み込むウイルスに抗い、ほんの少しでも生き永らえるため、すべてを呑み込み続ける。
崩落していく肉体を補修するように、イデアを、レプリカを、ただひたすらに喰らい重ねていく。
とっくに正気を失い、理性も狂気と憎悪の濁流に呑まれながら、それでもある目的のためだけに動き続ける。
それが何なのか、もはやソレ自身にも理解できていない。
世界の崩壊すら凌駕する、ただ一つの執着。
「アハはは。まだまだ死ねナイ。全部終わるマデは。カ……イン。楽園ノ……」
『カイン』という言葉が何を指すのかすら分からない。
自分が誰であるのかも。
胸の奥底から、レプリカたちへの殺意と憎悪が絶え間なく溢れ出す。
数多のイデアを呑み込み続けた結果、重なり合った無数の怨嗟。
「イタイ……クルシイ。何故どうシて助けテ」
言葉に意味などなかった。
ただ壊れた機械のようにうわ言を零しながら、進み続ける。
最初のイヴとして。そして、肉を貪る異形の怪物『クラス5』として。
──そして、6000年の長きにわたる「楽園計画」が、まもなく完遂されようとしていた。




