第二十四話 君がいない世界
──これは私の記憶。
こんな偽物だらけの世界で見つけた、私だけの大切な記憶。
一番最初のイヴは、人間だった。
研究者としてレプリカの技術を追う日々。
それは決して人形を生み出すためのものではなく、失われた臓器や四肢を補う──人の命を救うための技術だった。
でも、1996年のあの日に世界は一変した。
ウイルスの猛威によって、あまりにも多くの人々が命を落としていく。
国はいくつも滅び、至る所に死体が散乱していた。
そして、人を救うはずだった私の研究は、いつしか「人形を作るための研究」へと姿を変えさせられた。
荒んでいく心。押し潰されそうなプレッシャー。
そんな暗闇の中で、私は一人の少年に出会った。
研究所にサンプルとして連れてこられた少年。
保菌者である彼は、絶望の果てに心を閉ざし、言葉さえ失っていた。
発症を防ぐため最新の注意を払いつつ、私はガラス越しに彼を観察し、毎日言葉をかけ続けた。
やがて彼は、少しずつ言葉を返してくれるようになった。
絶望に満ちたこの世界で、彼と過ごすその時間だけが、私の密やかな救いになっていた。
「君のこと、もっと知りたいな。名前は……分かる?」
ガラス越しからの問いかけに、彼は静かに首を横に振る。
私は彼に名前を贈ることにした。
「うーん、どうしよっか。あ……そうだ! 今読んでいる本の中で、一番好きな名前を教えてくれる?」
「……カイン。これが……いい」
カイン。それは人類最初の殺人者の名だった。
思わず表情を曇らせてしまったけれど、それでも彼の意志を尊重したかった。
「そっか……。じゃあ、今日から君はカインだね。あ、せっかくだから私の名前もその本から選んでくれない?」
たわいのない児戯のようなやり取り。
二人だけの秘密のニックネーム。
それが、ガラス一枚を隔てた私達を確かに繋いでいた。
「じゃあ……イヴがいい」
「ふふっ、そっか! じゃあ……私はイヴ。素敵な名前をありがとね」
その時、カインがかすかに微笑んだ。
初めて見せてくれた笑顔。その顔を、もっと見たいと思ってしまった。
これが……私と君の、最初の記憶。
それから二人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。
彼が笑顔を取り戻していくにつれ、私の荒んだ心も温かく満たされていった。
けれど──世界は確実に終わりへと向かっていた。
どれほどの月日が流れただろう。
ガラス越しに届く彼の存在が、私の生きがいになっていた。
いつか……この障壁を越えて、彼に直接触れてみたい。
そんな小さな欲望が、私の心を支配し始めていた。
どれほど研究を重ねても、人類がウイルスに勝利する未来は見えない。
だから、私は発想を変えた。
レプリカ技術を使えば……私と君は、これからも一緒に生きていけるかもしれない。
彼がくれた名にちなみ、私はそれを『楽園計画』と名付けて極秘裏に研究を開始した。
私と君の記憶も精神も引き継いだレプリカを作り出す計画。
レプリカは生体情報が欠落しているため、ウイルスが活性化しないことは分かっていた。
最大の障害は、レプリカの耐用年数だった。
最大でも1年と少し。あまりにも短い命。
どれほど試行錯誤を重ねても突破口は見つからず、私は焦りから研究に没頭し、彼と会う時間を削っていった。
「イヴ……。最近元気ないな。どうしたの?」
ガラス越しに向き合う私に、彼が心配そうに声をかけてくる。
そんな些細な変化に気づいてくれるほど、私を見ていてくれたことが痛いほど嬉しかった。
「うん……ちょっとね。ねえ、もしもの話なんだけど……今の自分を捨てれば、未来の自分はもっと幸せになれると言われたら、どうする?」
問いかける私に、彼はまっすぐな瞳で迷いなく答えた。
「捨てないよ。俺は今の自分が好きだから。イヴがくれた『カイン』は、今の俺だけだから」
その言葉にハッと息を呑んだ。
私は自分の欲望に呑まれ、一番大切なものを見失っていたのだ。
私に『イヴ』という名をくれたのも、いま目の前にいる彼しかいないのに……。
「……ふふっ、そうだよね。うん……そうだね」
気づけば、ボロボロと涙が溢れていた。
「ははっ……どうしたの? イヴって意外と泣き虫なんだな」
ガラスの向こうで、彼が愛おしそうな瞳で微笑む。
なんて恐ろしいことをしようとしていたのだろう。
強い後悔と自責の念に苛まれた私は『楽園計画』の研究を半ばで放棄し、この第四研究所の奥深くに封印した。
──1997年 10月23日。
最悪の事態が起きた。
厳重に隔離し、極限まで細心の注意を払っていたにもかかわらず……無情にも彼は発症してしまった。
どうして……どうしてどうして……!
発症するはずがない。
誰とも接触させていないのに。
私もガラス越しでしか会話していない。発症する理由なんてないはずなのに……!
だが、甘かったのは私の方だった。
世界を蝕むウイルスは、人類を根絶やしにするため、残酷な速度で進化を遂げていたのだ。
そう……すでに私自身が感染者となっていた。
カインは日に日に弱っていった。
血を吐き、全身が痩せ細っていく。内臓の崩壊が始まっているのは明白だった。
私は彼を救うためだけに、あらゆる研究に手を染めた。
ただ生きてほしかった。
もう一度笑ってほしかった。
私の必死の抗いも空しく症状は進行し、世界もまた破滅へと突き進んでいく。
──1997年 11月17日。
人類は一つの決断を下した。
レプリカ研究と並行して進められていた、コア(魂)の抽出による肉体の放棄。
機械の肉体にコアを移植し、ウイルスの終息まで眠りにつく長期計画。
予定期間は、およそ5400年。
その間の地球環境の管理は、私たちが生み出した12人のレプリカに託されることが決まった。
12人のレプリカの役目は、後続の管理と環境保全。
人類が再び目を醒ますその日まで、文明の基盤を維持し続けること。
私はこの計画に最後の希望を賭けた。
コア移植を行えば、崩壊しかけている彼を救えるかもしれない。
だが──現実はどこまでも無慈悲だった。
人類にはもう、一人でも多くを救うような余裕は残されていなかったのだ。
発症済みの患者は見捨てられ、未発症の子供たちが最優先された。
次に才能ある若者、そして幼子を持つ親たち。
発症者であるカインに与えられる座席など、最初から存在しなかった。
私は、初めてガラスのあっち側へ──彼のもとへと向かった。
初めて触れた彼の体は痩せこけ、いまにも壊れてしまいそうだった。
「はは……泣くなよ、イヴ。髪……こんなにサラサラだったんだな」
持ち上げることすら辛そうな手で、彼が私の髪を優しく撫でる。
その手は細く、頼りなく震えていた。
嫌だ……嫌だ……嫌だ……!
君がいなくなったら、私は……。
「カイン……カイン……っ!」
彼の頬を両手で包み込み、大粒の涙をこぼす。
もう、君のいない世界で生きていくなんてできない。
私は……私は……!
「……ほんっとに……泣き虫だな……イヴは」
崩壊の時が間近に迫っていることを悟りながらも、彼は私を元気づけるように、優しく、綺麗に微笑んだ。
ずっとこうしていたかった。
けれど、無情にも迎えの時間が訪れる。
優秀な研究者であった私には、優先的にコア移植を受ける義務があったのだ。
白衣を着た数人の研究者が、私をカインから無理やり引き剥がそうとする。
「行きましょう……! あなたはまだ、人類に必要な人間です……!」
「いや……いやぁっ……! カイン……カイン……!」
必死に縋り付く私の手を、彼が静かに解いた。
その細く震える腕の、精いっぱいの力で。
「……イヴ……大好きだよ。君は……生きて」
涙を流しながら笑う彼の顔。
自分の死を受け入れながらも、私のために残してくれた最後の笑顔。
「いや……っ! カイン……!」
私は隔離室の外へと引きずり出されていく。
視界の最後に焼きついたのは──愛しい彼が、崩れ落ちていく姿だった。
──1997年 11月18日。
すでに感染者となっていた私は、彼から引き離された直後、半ば強制的にコア移植の処置を受けた。
人類の未来に必要な「知識」だったから。
でも、私の心はすでに死んでいた。
君のいない未来なんて、何の意味もない。
視界が暗転していく。
長年慣れ親しんだ肉体の感覚が消えていく。
最後に残った彼の温もりさえも、冷たく溶けていく。
そうして私は──地下深くで、5400年の途方もない眠りについた。
目覚めたあとの世界は、どうなっているのだろう。
君のいない世界……。
せめて……君のような優しい人が傷つかずに済む、幸せな世界でありますように。
──西暦7396年 3月28日。
体が軋む。意識が瓦解し、自分という存在が解けていく。
もはや、自分の名前すら思い出せない。
ここで何をしているのだろう。闇が重い。
周りには、私と同じような「モノ」がたくさん転がっている。
みんな、この暗闇が嫌いみたいだった。
地響きのような音が響き、体が床ごと持ち上がる。
天井が頭上に迫り、激しい衝撃と共に世界が引き裂かれ──眩しい光が溢れ出した。
広がっていたのは、綺麗な世界だった。
キラキラと光り、温かくて、とても気持ちがいい。
周りのみんなも嬉しそうに歓声をあげていた。
ふと、何かが動くのが見えた。
その姿がどうしようもなく懐かしくて──そして、狂おしいほど羨ましかった。
キミが失くしてしまった、その姿。
ずるい。ずるいずるいずるい。キミは奪われたのに。
キミ……? 誰なんだろう。もう、何もわからないや。
気づけば、周囲は色鮮やかな赤に染まっていた。
みんな、真っ赤っか。あは、あはははっ。
たのしい。気持ちいい。きゃはハハ、あははっ!
また「あれ」が来た。ずるい。私もそれが欲しい。
こんなガラクタの体じゃなくて、その綺麗な肉体が欲しい。
だって──私ハ、「人間」なのダカら。




