第二十一話 もしまた会えたら
地平線を覆い尽くす、蠢く影の群れ。
そこにはもはや意思すらなく、ただ全てを呑み込まんと進み続ける絶望の波浪。
突如として現れた約10万のイデアは、アストランを嘲笑うかのように包囲していた。
対するアストランの戦力は、訓練兵を含めても1000名弱。
あまりにも残酷で、圧倒的な戦力差だった。
──アストランは崩壊する。
避けようのない死の予感に、兵士たちの心は等しく恐怖に支配されていた。
大型兵器を前に配置につく兵の顔に、希望や使命感といった光は微塵もない。ただただ底知れぬ絶望に染まっている。
抗うことなど無意味だと理解しながらも、心を縛り付ける何かが逃げることすら許さなかった。
「隊長、配備完了いたしました。……間もなくです」
副官に呼ばれ、男は静かに視線を向けた。
ジャンバが管轄するイースト地区を除くすべての地区が、支援キャンプを『餌』とする作戦の準備を終えていた。
「……支援キャンプにイデアが到達次第、一斉砲火を叩き込め。それがセントラルからの指令だ」
視線の遥か先には、支援キャンプが設営された廃墟群が沈黙している。
旧時代の大型兵器に容赦なく砲弾が装填され、獲物が濁流に呑み込まれるその瞬間を待っていた。
そして今──死の濁流が、支援キャンプの眼前まで迫っていた。
◇◇◇
──旧市街キャンプ。
「すっごいわね……絶景じゃないの」
廃墟の屋上から見下ろす景色は、不気味な足音を響かせるイデアに埋め尽くされていた。
ラババは虚無感を抱えたまま、ただ屋上の縁に腰掛け、迫り来る終焉を眺めていた。
その隣にはルジュもまた静かに腰を下ろし、二人で等しく訪れる死を待っている。
イデアの群れは、わずか500メートル手前にまで肉薄していた。
無数の赤いコアが暗闇で不気味に明滅し、まるで群れ全体が一つの蠢く巨大な生命体のように錯覚させる。
「きっと他のキャンプも同じ状況かしらね。ん……? あらぁ?」
群れを見渡していたラババの視界の先で、突如として巨大な爆炎と土煙が巻き上がった。
鼓膜を破らんばかりの轟音。
イデアの群れに穿たれた巨大な風穴から、破砕された装甲の欠片が空へと舞い散る。
「ははッ! んだよ、ちゃんと動くんじゃねぇか!」
衝撃波と共に背後から響いた粗暴な声に、ラババは振り返った。
そこに立っていたのは、巨躯を誇る大男──狂気的な笑みを浮かべた男だった。
「あら……ジャンバちゃんじゃない。てっきりあたし達を囮にするのかと思ってたわん」
本来であれば、このような場所にいるはずのない人物。
ネウロン部隊隊長、ジャンバ。
「けっ……胸糞悪い奴に会っちまった。オカマ野郎がこんなところで何してやがる」
ジャンバは吐き捨てるように言い放つと、屋上の縁に仁王立ちし、舞い上がる土煙の先を睨みつけた。
穿たれた風穴は、再び黒い濁流によってゆっくりと埋め戻されていく。
「何だっていいじゃないの。ゆっくり終わりが来るのを待ってただけよん」
ラババの言葉に、ジャンバは苛立ちを露わにして大きく舌打ちすると、手元の端末を乱暴に操作した。
「おいッ! 二発目もぶち込んでやれ!」
通信が切れた瞬間、再び轟音が空間を揺らし、イデアの群れの中心で爆炎が弾けた。
旧時代の大型兵器による砲撃。
地響きと共にクラス1のイデアが砕け散り、黒いオイルが大地を不気味に染め上げていく。
だが、ジャンバはその戦果に忌々しげに顔を顰めた。
「チッ……やっぱりクラス1の一部しか削れねぇか……。おい! オカマ野郎!」
ジャンバはラババを力任せに振り返らせる。
「もう諦めましたってか? ……らしくねぇなぁ! どうせ消えるんなら、最後くらい派手にやらかそうぜ!」
ラババはプイッと首を振り、おどけたように拗ねてみせる。
「仕方ないでしょ、これがあたし達の背負うべき『罪』なんだから。……ほんっと、あんたは変わらないわね」
額にピキピキと血管を浮かべながらも、ジャンバはその名を怒号のように叩きつけた。
「ラババ! 罪だかなんだ知らねぇがな、運命を受け入れることと何もしねぇことは同じじゃねぇんだよッ!」
予想もしなかった言葉に、ラババは一瞬呆気にとられ──やがて弾けたように大声で笑い出した。
「うふふっ……あははっ! まさかあんたの口からそんな言葉を聞くなんてねぇ! はぁ……仕方ないわねっ。最後に……もう少しだけ抗ってみようかしら。『人類のために』ってやつね」
死をただ受容していたラババの瞳に、かすかな熱が宿る。
絶望の渦中にあっても牙を剥き続けるジャンバの不屈の狂気が、どうしようもなく羨ましく感じてしまったから。
ジャンバは口角を凶悪に釣り上げた。
「そうだ……『人類のために』なぁ! どうせ全部無に帰るんだ、終わり方くらい自分で決めさせろッ!」
雄叫びを上げると同時に、ジャンバは屋上から飛び降り、単身イデアの群れへと突撃を開始した。
それを合図に、周囲の廃墟群からネウロン部隊が雪崩を打って姿を現す。
その中には訓練兵の姿もあり、機装すら持たぬ兵士たちが、ただの剣や銃器を掲げて駆け出していく。
勝算など万に一つもない、死の突撃。
無謀で無意味なその愚行は、しかし彼らが最期まで捨てなかったプライドの証だった。
ただ怯えて滅びを待つくらいなら、希望の象徴たるネウロン部隊として勇猛に果てる。
与えられた『役目』など、とうに脳裏から消え去っていた。
ただジャンバの誇り高き狂気に身を委ねて。
「ラババさん。我々ネウロン部隊は……いえ、ジャンバ隊長は、最初からキャンプを囮にする気などありませんよ」
背後から、副官の女性が静かに声をかけた。
「セントラルの作戦は、キャンプを餌にし大規模砲撃で数を減らす手筈でした。……でも、隊長は言ったんです」
副官は、ジャンバが吐き捨てた言葉を愛おしそうに思い返す。
『けっ……! 気に食わねぇなぁ。クソ食らえだ』
「私たちは最後まで『人類のために』戦います。どうせ散るのなら、誇り高くありたいですから」
副官の笑みは深く穏やかで、その瞳は奇妙なほどの幸福感に満ち満ちていた。
『人類のために』という呪縛を背負わされた男と、その背中に心を捧げた部下たち。
その歪で美しい狂信こそが、彼らの心を繋ぎ止め、最期の充足を与えていた。
「うふふっ……本当におバカさんたちね。でも……悪くないわ。あたし達もお供させてもらうわね」
ラババが笑い声を上げると、旧市街キャンプの生存者たちが次々と姿を現した。
冷え切っていた胸の底に、最後の火が点る。
非戦闘員であるルジュやアルヴァルもまた、歪んだ鉄パイプや不器用な武器を握りしめていた。
「さぁ、あんたたちッ! 最後の大祭りよん! もし……またどこかで会えたら、もう一度お友達になりましょ!」
歓声にも似た咆哮が空を突く。
あのルジュでさえも、小さな身体をいっぱいに伸ばし、声を張り上げていた。
「さぁ……行くわよッッ!」
濁流へと一斉に雪崩れ込む。
そこに恐怖や不安の色は一切なかった。
迫り来る死の舞踏へ、彼らは跳ねるような足取りで飛び込んでいく。
先行したネウロン部隊の背中は、すでに濃密な土煙と黒い油のなかに姿を消していた。
戦場は、砲撃が巻き上げた土煙と血煙に包まれ、混沌の極みと化す。
誰がどこで倒れたのかも分からない。
隣にいるのがイデアなのか、仲間なのかすら判別できない。
己が生きているのか死んでいるのかの境目すら溶けていく。
飛び散る黒い油、引きちぎられる機械と肉片。
感覚が磨耗し、消滅していく中でも──誰一人として足を止める者はいなかった。
だが……どれほど気高く抗おうとも、彼らの抵抗はあまりに巨大な絶望の前には児戯に等しかった。
不屈の決意も、かけがえのない友も、積み重ねた思い出も、すべてが無慈悲に磨り潰され、溶けて消えていく。
ネウロン部隊の反応は、すでにそのほとんどが消失していた。
そして──ここにも二人。
「うふふっ……ルジュ……あんたの身体……ほんっとに軽いわ……ね」
ラババの胸の中で、ルジュは静かに横たわっていた。
苦痛も執着もすべて削ぎ落とされた、どこまでも穏やかな寝顔。
爆炎の煤と赤黒い液体に塗れながら、ただ静寂の眠りについている。
その小さな体躯は腰から下が酷く損壊し、まるで赤子のように小さくなっていた。
「カインちゃん……イヴちゃん……。幸せに……ならないと……許さない……わよ」
ラババは残された唯一の腕で、小さくなったルジュを強く抱きしめ、静かに微笑んだ。
痛みすら、もう感じない。
ただ、残された二人の未来に幸せが訪れることだけを祈り、ゆっくりと瞼を閉じる。
その表情はどこまでも温かく、慈愛に満ちていた。
やがて──旧市街キャンプ、そしてネウロン部隊は、押し寄せた絶望の濁流の中に深く沈み、永遠に姿を消した。




