第二十話 滅んだほうがいい世界
──アストランから約20キロ地点。
そこには東・西・南・北の各方面へ向けた支援キャンプが設営されていた。
外部で活動する部隊への物資補給や現地調査を担い、生存率を底上げするための防衛線。
しかし今やそれらはアストランに見捨てられ、イデアという憎悪の濁流に呑み込まれるのを待つだけの存在と化していた。
本来なら前哨基地を構築し、被害を最小限に抑えつつ協力体制で敵を迎撃すべき局面。
だが、セントラルが下した決断は、冷酷かつ徹底的に合理的だった。
『役目』を終えた支援キャンプの完全な放棄。
キャンプそのものを餌としてイデアを引きつけ、群がったところへ大規模砲撃を叩き込み、数を削る。
命をただの「時間稼ぎ」として使い捨てる、残酷極まりない選択。
アストラン──否、セントラルの存続のみを最優先とし、それ以外はただの捨て駒。
なぜなら、間もなく二つの計画が完遂の時を迎えようとしていたからだ。
『アダム計画』と『イヴ計画』
特定秘匿レベル5に指定されたその計画を知る者は、セントラルの他には誰一人として存在しなかった。
部隊長も隊員たちも、何ひとつ知らぬまま「人類を守るため」という虚妄の言葉を信じ込まされ、下される命令にただ従う。
彼らの『役目』など、とうに意味を失っているというのに。
◇◇◇
「ねぇ……ルジュ」
「……どうしたの? ラババ」
旧市街キャンプの廃墟の屋上で、二人はただ静かに佇んでいた。
その視界の遥か先で、地平線が不気味に蠢いている。
死と憎悪を撒き散らす絶望の濁流。
微かに見え始めたその影は、遅く、しかし確実にアストランへと迫っていた。
「あの二人は……カインちゃんとイヴちゃんは上手くやってるかしら……」
ラババの表情には悲しみすらなく、達観した諦めと、どこか慈愛に満ちた色が宿っていた。
「うん……。あの二人なら……大丈夫」
ルジュもまた、視線の果てを見つめたまま静かに応じる。
「あたしは……イヴちゃんを恨まないわ」
「……私も」
二人は顔を見合わせ、その場にゆっくりと腰を下ろした。
迫りくる絶望に抗う気など、毛頭なかった。
抗うことすら、間違いなのかもしれない。
これは、この世界が背負うべき罪なのだから。
「あの子は……これでやっと世界を許せるのね」
「あたし達も、もう『役目』なんて必要ない。……今ごろセントラルは顔真っ赤にしてるんじゃないのかしらっ!」
ラババは冗談めかして、破れかぶれに大きく笑う。
「……ふふっ。……ざまあみろ……だね」
ルジュもまた、口元を覆うように小さく微笑んだ。
「へぇ……あんたそんな風に笑うのね。意外に可愛いところもあるじゃない」
初めて見たルジュの笑顔を、ラババはおどけて揶揄う。
「ふふっ……うるさい、ラババ」
死の足音がすぐそこまで迫っていることなど微塵も気にしていないかのように、ふたりは顔を見合わせて笑い合った。
「カインちゃん……世界は今、セントラルが描いたレールから大きく外れ始めているわ」
虚空を見上げるラババの顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「イヴちゃんを……守ってあげてね」
旧市街キャンプがイデアに呑み込まれるまで、あと5時間を切っていた。
◇◇◇
──セントラル。
俺とイヴは、秘匿レベル4へと繋がる扉へと足を踏み入れた。
何度経験しても慣れることのない、あの空間が歪むような不快な感覚。
現実と夢の狭間に落とされる錯覚に襲われるが、繋いだ手から伝わるイヴの温もりだけが、ここが現実だと繋ぎ止めてくれていた。
眩い光が収まり、ゆっくりと目を開ける。
そこに広がっていたのは、無数の装置が立ち並ぶ巨大な研究室のような空間だった。
ホログラムの男女が無数に現れては、ノイズと共に消えていく。
その残像の中には、見覚えのある顔が幾つもあった。
アサヒ、コウタ。さらにはネウロン部隊の面々や、あの隊長ジャンバの姿まで。
「イヴ……これもホログラムなのか?」
「……そうだよ」
イヴの声は、小さく震えていた。
「カイン……あのね……ううん、何でもない……」
泣き出しそうな顔で何かを言いかけ、イヴはすぐさま言葉を呑み込んだ。
その表情の意味を、俺は汲み取ることができなかった。
だが──これからさらなる地獄を孕んでいることだけは、嫌というほど理解できた。
空間を引き裂くように、あの冷徹な機械音声が響き渡る。
『個体名カイン及びイヴの接続を確認。特定秘匿レベル4の情報開示を開始します』
声が止むと同時に、研究室の奥から二人の男女がゆっくりと歩み寄ってきた。
輪郭に荒いノイズが走り、それが単なる映像だと理解する。だが、俺の胸の奥でドス黒い何かが激しく渦巻き始めた。
歩み寄ってきたのは、アサヒとコウタだった。
二人は俺たちの目の前で足を止め、語り始める。
その声は彼ら自身のものではなく、感情を削ぎ落とした中年男性のような無機質な響きを帯びていた。
そして、脳の奥底で必死に否定しようとしていた最悪の予測を、その言葉が容赦なく打ち砕いた。
『アストランの住人は、全てレプリカにより構成される。故に人口は建造時から現在に至るまで不変である』
『レプリカには、それぞれ“役目”が与えられる』
『全ての行動は役目に基づき、これを放棄することを禁ずる』
レプリカ……? 役目……?
頭が狂いそうだった。あのイーストシティで目撃した悪夢が、冷徹な現実となって脳裏に叩きつけられる。
だとしたら……これが事実なら……。
俺たちはただの精巧な人形……?
アサヒとコウタの口が無機質に動き続ける。
『レプリカは損傷の都度回収され、再補充される』
『二つの計画の遂行と同時に、すべてのレプリカは破棄される予定である』
『記憶、友人、恋人等の概念は、製造時に基礎情報としてインストールされる』
『耐久年数は約1年。超過時は回収の後、再配備され役目を引き継ぐ』
『機密保護のため、“楽園のイミテリス"と呼称。閲覧許可はレベル4に設定』
「は……はは……っ! 役目……? インストール……? なんだよ……なんなんだよそれッ!!」
俺はその場に崩れ落ち、頭を抱え込んだ。
今まで信じてきた全てが偽物……?
友達と笑い合った時間も、理不尽に怒られた記憶も……全部、あらかじめプログラムされたデータに過ぎなかったというのか……?
アサヒやコウタが親友だったのも、ラババやルジュ、アルヴァルが存在していたのも……ただそういう『役目』を与えられていただけなのか……?
崩壊していく。
信じてきた世界が、音を立てて足元から瓦解していく。
偽物の世界を守るために。
何度も作り直される人形を守るために──俺は本物の人間を、イデアを殺し続けてきたというのか。
込み上げる吐き気と嗚咽を抑えきれず、固めたはずの覚悟が無残に瓦解していく。
「……カイン」
イヴが、背中から俺を静かに抱きしめてくれた。
「……イヴも……それも『役目』……なのか……?」
口にしてから、己の醜さに絶望した。
そんなことが言いたかったわけじゃない。
本当は、ただ──。
イヴは咎めることもなく、穏やかな声で囁いた。
「うん……そうなのかもしれないね。でも……この世界の全てが偽物だったとしても、私は君と生きていきたい」
「どうしようもなく……君が大好きなんだ。これだけは……絶対に偽物なんかじゃないって、分かるから」
包み込むような温もりが背中から伝わってくる。
荒み切り、押し潰されそうだった心が、じんわりと解けていく。
偽りだらけのこの世界で、イヴの体温だけが唯一の真実だと告げていた。
そうだ。俺たちは約束したんだ。
あの約束は、誰かに与えられたプログラムなんかじゃない。
初めから決まっていた未来なんかじゃない。俺たちの、二人だけのものだ。
「はは……俺、情けないところばっかり見せてるな……」
自虐的に笑う俺に、イヴは抱きしめたまま小さく笑った。
「大丈夫だよ、私がそばで支えるから。ふふっ……だって君は、泣き虫だからね」
「はははっ……違いないや」
俺は地面を蹴り、ゆっくりと立ち上がった。
まだ止まるわけにはいかない。
この先に、俺が生まれた意味があるはずだ。
俺には『役目』が与えられていなかった。
俺が知らなかっただけなのか?
それとも、こうして真実に抗うこと自体が俺の役目なのか?
葛藤する俺たちを見つめ、ホログラムのアサヒとコウタが、口を裂けんばかりに歪めて拍手を始めた。
ただの映像であるはずなのに、背筋が凍りつくほど不気味だった。
イデアにも、あのクラス5にすら感じたことのない異質な恐怖が心を支配する。
『おめでとう。ここまでは予定通りだ。この先に君の望む答えがある』
二人の重なった声が、気味の悪い不協和音となって響く。
『個体名カイン。君は完璧だ。これまで以上に唯一無二の完璧だ。完成の瞬間が楽しみでならない』
二人は歪んだ笑みを浮かべたまま、イヴへと視線を向けた。
『そして、TYPE:E No.0024 “イヴ”。お前が何を足掻こうと世界は変わらない。奴とどんな取引を交わしたかは知らないが、我々は人類の未来のために計画を遂行するのみ。それでは……完成の刻に会おう』
ブツンッ、とノイズを残してホログラムが掻き消える。
それと同時に、壁面に数値が浮かび上がった。
『アダム計画 進捗率94%』
『イヴ計画 進捗率98%』
文字はそのまま霧のように消散していった。
最初に見た時よりも、確実に100%へと近づいている。
そして……扉を潜るたび、俺の身体にも異変が起きていた。
力が、弱まっている。
あのクラス5との死闘以来、体の奥底から溢れ続けていた異様な力が、少しずつ溶けて消えていく感覚。
だが、恐怖や不安は不思議と無かった。
まるで身体がそれを当然のこととして受け入れているかのように。
イヴには黙っていた。
彼女のことだ、きっと気づいている。それでも意地を張って言葉にできなかった。
俺は嫌な考えを振り払うように、イヴに問いかける。
「さっきあいつが言っていた『取引』って……何のことなんだ?」
セントラルの意思ではなく、イヴ自身の独断。
彼女が裏で何かを進めているのは間違いなかった。
「……カイン。あの戦いの日の約束、覚えてる?」
イヴは答えず、静かに話題を逸らした。
「……ああ。『私を殺して』ってやつだろ。酷い約束だよ」
果たされずに済んだはずの約束。
イヴは霊装に呑まれることなく、こうして俺の隣に帰ってきてくれたのだから。
「ふふっ……そノ約束……覚えていテね」
微かに笑うイヴ。
その言葉に、一瞬だけ息が止まるほどの恐ろしい違和感を覚えた。
だが、次の瞬間にはいつものイヴに戻っており、俺はそれを胸の奥に押し殺した。
そんなわけがない、あるわけがないのだから。
「はは……その約束だけは、絶対守りたくないな」
「……ふふっ、そうだね」
その言葉の裏にある本当の意味も、一瞬の違和感の正体も、俺には解らないままだった。
俺たちは固く手を繋ぎ直し、最後の扉へと足を踏み出す。
セントラルに侵入してから、どれほどの時間が経ったのかすら解らない。
時間という概念が歪められたような空間が、感覚を徐々に狂わせていく。
数時間しか経っていない気もするし、何日も彷徨っている気もする。
だが、今はただ進むしかない。
この偽りだらけの世界で、生まれた意味を知る為に。
二人の身体が、眩い光に呑み込まれていく。
「──こんな世界滅べばいいのに」
光の中で、イヴが何かを呟いた気がした。
だがその声も、眩量する光の中に静かに溶けて消えた。
──アストラン崩壊まで、あと4日。




