第十九話 真実の先
約百年の平穏を築き上げていたアストランに、過去に類を見ない厄災が訪れようとしていた。
クラス5が破壊されたあの日から姿を消していたイデアが、底知れぬ大群と化し、最後の楽園目掛け侵攻していた。
部隊長の端末が、異常なまでの警告音をけたたましく響かせる。
イデアの群れがアストランに到着するまでの時間は、現在の侵攻速度から逆算すると今より約3日。
幸いなことにイデアの歩みは遅く、アストランでは部隊長と各部隊の副官数名による作戦会議が緊急裏に開かれていた。
端末の通信機能を使い、冷たい仮想空間にて言葉を交わす部隊長と副官達。
「現在、イデアは各地区の約30キロ手前からアストランに向けて侵攻中です。我々に残されている猶予は約72時間。セントラルからの情報では、イデアの総数は10万体近くに上るとのことです」
一人の副官の男が冷汗を拭いながら、震える声を抑えて情報を整理していく。
「各支援キャンプから届いた情報では、群れを構成するイデアは、その殆どがクラス1と2で構成されているとのこと」
その場にいる全員は、あまりの絶望と途方もなさに支配され、すでに心は折れかかっていた。
「10万体……。こんなもの……我々の『役目』には記載されていない……」
「今回の事態は、おそらくセントラルでさえも予測出来なかった異常事態です。それでも……我々が戦わねば全てが呑み込まれてしまいます」
副官は、自身の拳から血がにじみ出るほど強く握りしめ、喉の奥から絞り出すように言葉を紡いでいく。
「……戦いましょう。人類のために」
その時、一人の大男がゆっくりと重い腰を上げ、すべてを嘲笑うかのように吐き捨てる。
その大男は、かつてのクラス5との戦いで凄惨に散ったはずのネウロン部隊長ジャンバだった。
「……はっ! 俺は勝手にやらせてもらうぜ」
ジャンバは、寄り添う副官の女性とともに冷めきった仮想空間から退出しようとする。
その異常な態度を見た他部隊の隊長や幹部たちが、焦りと怒りを混ぜ合わせた声をあげる。
「ジャンバ! こんな時にまで何を言う! 今我々が結束しなければアストランは──」
その言葉を、ジャンバは鼻で笑って遮った。
「まだ分かんねぇのか? お前ら。もう……楽園は終わんだよ」
その冷淡な言葉を最後に、ジャンバは姿を消した。
世界は今、セントラルが思い描く完璧な理想から、ゆっくりと、しかし確実に歯車を狂わせ、訪れることがなかったはずの崩壊へと足を踏み入れていた。
ジャンバを除いた幹部達の会議は、その後も約2時間続き――そして、一つの結論にたどり着く。
それは、大型兵器の使用による大規模砲撃だった。
アストランでは、大型兵器の使用は原則として禁忌とされている。
第一に、イデアに対しては機装以外での決定的な効果が期待できないこと。
そして第二に、そのすさまじい爆発音や衝撃が、さらなる無数のイデアを恐ろしいほど引き寄せてしまうからだ。
機装が完成して以降、それは一度たりとも使われたことがなかった。
だが今回の非常事態は、もはや「イデアを呼び寄せる」などと言っている余裕すらない。
効果が薄かろうとも、クラス1だけでも焼き払うにはそれを使うしかなかった。
作戦会議から一時間後。
アストランの各方面には簡素な前哨基地が急突貫で設営され、部隊長と隊員数十名が配置されていた。
そしてその傍らには、長らく埃を被っていた旧時代の忌まわしい遺産――大型兵器が不気味に佇んでいる。
誰もが、心の底では冷徹な真実を理解していた。
間もなく、このアストランは滅び去る。
それでも、部隊の者たちは逃げ出すことなど許されず、ただ死地へと立たされるしかなかった。
たとえ一縷の望みすらなかろうと。
イデアの群れは、かつての人類の足跡を泥に還すように蠢き、着実にアストランへと迫ってくる。
そして、その牙はもうすぐ各方面のキャンプへと届こうとしていた。
旧市街キャンプを含む全ての支援キャンプは、今やアストランおよびセントラルに見捨てられたことを意味していた。
◇◇◇
──セントラル内部。
俺は真実を知るために、イヴと共にセントラルの奥底へと進んでいた。
秘匿レベル2までの情報には、どこか肩透かしを喰らうような気配すらあった。
ホログラムの街がジジジと不快なノイズを立てて剥がれ落ち、景色が再びあの冷たい無の空間へと戻る。
それと同時に、目の前にピンク色の、あまりにも場違いで可愛らしい扉が現れた。
何の変哲もないただの扉にしか見えないが、この凍てついた純白の空間においては、逆に狂おしいほどの異質な空気を放っていた。
「先に進めってことか……。ん……? これは一体……」
古びた扉の表面には、冷たい文字が浮かび上がっていた。
俺にはその記号の意味が直感的には分からなかった。
ただ、そこに刻まれた『名前』を見た瞬間、心臓がドクンと嫌な音を立てて激しく脈打ち、息が詰まる。
『アダム計画 進捗率84%』
『イヴ計画 進捗率94%』
「イヴ計画……?」
イヴの名前が冠された計画、そしてその底知れぬ進捗率。
無関係なわけがない。それに、『アダム計画』という文字。
初めて聞くはずの名前なのに、脳の奥底が熱を持ち、嫌な予感がざわめき出す。
アダム計画と書かれたそれが、まぎれもなく「自分自身」のことなのだと、理屈ではなく本能が理解してしまっていた。
「……イヴ。この計画は一体……」
俺の震える問いかけに、イヴはただ静かに、すべてを諦めたような声で答える。
「……これは私。私はもうすぐ……完成されようとしてる」
「そして、カイン。……君も」
イヴは何かを必死に押し殺すような、深い悲哀に満ちた表情を浮かべている。
俺はもう、これ以上深く詮索しようとは思わなかった。
この扉の先に進み続ければ、どれほど目を背けたくても、嫌でもすべての真実を知ることになるからだ。
「その答えも、全てこの先にあるんだな……」
イヴは、小さく「うん」とだけ呟いた。
その時、空間を引き裂くように、再びあの冷徹な機械音声が響き渡る。
『特定秘匿レベル2の閲覧を確認。個体名カイン及びイヴのレベル3へのアクセスを許可』
声が収まると同時に、目の前の扉からカチリと重い鍵が外れる音がした。
全身の覚悟とは裏腹に、体が恐怖で細かく震え出す。
それは隣に立つイヴも同じだったようで、繋いだ手が微かに冷たくなっていた。
イヴ計画とアダム計画。
その二つの不気味な単語が、頭の中で何度も何度も反芻する。
いつか脳裏に焼き付いた、あの記憶の断片も無関係なはずがない。
巨大な水槽のようなものの内側で、ガラスを叩きながら何かを叫ぶ――自分の姿。
最悪の想像が頭の中を駆け巡り、俺はそれを塗り潰すように強く目を瞑った。
進むしかない。
今はただ、この足で前へ進むしかないんだ。
俺達は、互いの恐怖と不安を打ち消し合うように固く手を結び、ゆっくりと扉に手をかけた。
再びあの、内臓がひっくり返るような気味の悪い感覚に襲われ、世界が強烈な光に覆われる。
やがて、しびれるような感覚と共に体に現実が戻っていく。
光が引き、そこに広がっていたのは――小さな、狭い部屋だった。
子どもの部屋だろうか?
薄ピンク色の愛らしい壁紙、あちこちに不気味なほど整然とぬいぐるみが散りばめられている。
あまりにも狭い、少女のための子ども部屋。
おそらく、この部屋の主は幼い子供だったのだろう。
「ここは……何だ? なんだか、気味が悪いな。ん……?」
部屋の隅々まで見渡して、俺はひとつの異様なことに気づく。
ほんのわずかな、しかし決定的な違和感。
――窓がない。
小さな小窓すら一つもなく、四方はただ薄ピンクの壁に囲まれていて、外の光が差し込む隙間がどこにもなかった。
あまりにもありふれた子ども部屋の様子が、まるで何かを閉じ込めるための「牢獄」のように、ひそやかに牙を剥いていた。
「ここは……私の部屋」
イヴは、その小さな部屋をうつろな目でひとしきり見渡したあと、消え入りそうな声でそう零した。
ここが……イヴの部屋?
どう見ても、それはかつて幼い少女が暮らしていたはずの痕跡だった。
逃げ場のない小さな部屋に、再びあの声が冷たく響く。
『個体名カイン及びイヴの接続を確認。特定秘匿レベル3の情報開示を開始します』
部屋の片隅に置かれていた一冊の絵本が、ふわりと宙に浮き上がり、俺とイヴの目の前で静かに静止する。
ページがパラパラと自動で捲られていく。
だがその中は、外装の幼さからは信じられないほど、おびただしい数の文字が狂ったように羅列されていた。
文字の一つ一つが絵本から実体を持つように溢れ出し、部屋の天井を不気味に埋め尽くしていく。
それと同時に、どこかあどけない小さな子供が朗読するような声で、秘匿レベル3の真実が語られ始めた。
語られたのは、イデアの正体がまぎれもない「人間」であるという事実だった。
イデアの真実。
イヴの口からあらかじめ聞いてはいたが、改めてそれを冷酷な声で突きつけられると、胸糞が悪くて胃の底から酸いものが込み上げてくる。
さらに、幼い少女の声は止まらない。
『クラス1は、15歳未満の子ども』
『クラス2は、成人済みの大人』
『クラス3は、子を持つ母親』
『クラス4は、子を持つ父親』
『クラス5は、い……ザザー……ザ……』
最後のクラス5のところで激しいノイズが走り聞き取れなかったが、それ以外の恐ろしい事実は、気持ちが悪いほどに理解させられてしまった。
残酷すぎる真実と、対照的なほど無機質で幼い少女の声による朗読。
決して混ざり合うはずのない二つの要素が、あまりにも悍ましく、背筋が凍るほどの恐怖を煽ってくる。
幼い声は、休む間もなく容赦なく畳み掛ける。
『機装の適合率』
『それはコアと使用者の生体情報の一致率』
『そして、その適合率は初めから決定されている』
『イデアのコアは、人間の生体情報の塊』
『その人間のDNAから構成された』
『いわゆる魂と言われるもの』
『さらに……ザー……ザザー……』
またしても激しいノイズがかき消し、音声は途切れる。
おそらく、今聞き取れた範囲が、この秘匿レベル3に許された情報のすべてなのだろう。
あまりの悍ましさに、胃液が逆流しそうな眩暈に襲われる。
イデアのクラス分けの真実、そして機装やコアの隠された構造。
そのすべてがあまりにも人間の理解の範疇を超えていた。
全身から冷や汗が噴き出し、震えが止まらない。
このおぞましい事実を元からすべて知っていたはずのイヴは、ただ静かにうつむいたまま、その小さな体を小刻みに震わせていた。
『特定秘匿レベル3の閲覧を確認。個体名カイン及びイヴのレベル4へのアクセス許可』
幼い少女の語り口調だったそれは、不自然なほどスムーズに、元通りの無機質な機械音声へと戻った。
そして、目の前で宙に浮いていた絵本の最終ページに、あの文字が再び浮かび上がる。
『アダム計画 進捗率89%』
『イヴ計画 進捗率97%』
俺達がその数字を凝視した瞬間、絵本は音もなく霧散するように消え去った。
「クソッ……! なんなんだ、お前らはッ!」
「一体何がしたいんだ……何を見せたいって言うんだよッ!」
セントラルに対する激しい怒りと憤怒が、もう抑えきれずに喉の奥から弾け飛ぶ。
セントラルがひた隠しにしてきた醜悪な真実、そして俺とイヴに何をさせるつもりなのか。
そのすべての理不尽さに、頭がおかしくなりそうなほどの怒りが沸き上がっていた。
「カイン……」
イヴは、ただ小さく俺の名前を零し、痛々しいほど切ない瞳でこちらを見つめていた。
「……ごめん。こんなところで取り乱しても、どうしようもないのに」
俺は情けなさに歯を噛み締めながら、イヴに謝罪の言葉を落とす。
「イヴは……全部最初から知っていて、ずっと一人で戦ってきたんだな」
「……本当に、強いんだな、イヴは……」
その俺の絞り出すような言葉に、イヴは首を横に振って、かすかに微笑んだ。
「ううん……強くなんてない。ただ……必死だっただけだよ」
そう言って見せたのは、消えてしまいそうなほど儚い、作り物の笑顔だった。
強がっていることなど痛いほど分かった。
俺には、その震える彼女にこれ以上かけてやる言葉が見つからなかった。
「もうすぐだよ、カイン」
差し出された俺の手を握り返すように、イヴが静かにそう告げる。
「……ああ、行こう、イヴ」
そして俺たちは、言い知らぬ恐怖を振り切るように、次の扉へとゆっくりと足を踏み入れた。
その先に、これまでのすべてを塗り替えるような、さらなる奈落の地獄が待っているとも知らずに。
──アストラン崩壊まで、あと5日。




