第十八話 崩壊の序曲
セントラルへと続く転移門は、各地区に密かに配置されている。
一般兵士にはアクセス権すら与えられず、部隊長クラスであっても許可なく立ち入ることは叶わない。
今、俺はイヴと共にその門の前に立っていた。
「ここから行けるんだな……。ラババから聞いたけど、イヴはセントラルのすべてに自由に出入りできるんだろ?」
かつてラババが語っていた言葉。
イヴは秘匿レベルに関係なく、あらゆる施設へのアクセス権を持っているのだと。
俺の問いかけに、イヴはどこか思案するように視線を落とし、静かに口を開く。
「以前まではね。……でも、今は違う。あの日の戦いの後から、私のアクセス権は凍結されているみたい」
「じゃあ、どうやってセントラルに入るんだ?」
「いきなり最深部には行けないけれど……私とカインが揃っていれば、外殻から順番に進むことはできるから」
「俺たちが揃っていれば……? どういうことだ?」
「ただ……そう決まっているんだよ」
理由は分からない。
だが、最深部へと至る近道は許されていないということか。
この歪んだ世界は、つくづく俺たちに安易な道を渡すつもりはないらしい。
だが、その言葉にどこか胸を撫でおろす自分がいた。
この先へ進めば、すべての真実が明らかになる。
ドクン、と胸の奥で心臓が大きく跳ね、激しい鼓動を打ち始める。
怖くないと言えば嘘になる。
自分が一体何者なのか。
都合の良い「選ばれた英雄」なんて甘い答えが待っているはずもない。
だが今の俺には、恐怖よりも深く黒い感情が渦巻いていた。
この世界を歪め、イヴを苦しめ続けてきたセントラルに対する激しい憤怒。
俺はイヴと視線を交わす。
「行こう、イヴ。俺たち二人のために」
「うん……行こう、カイン」
意を決し、二人で門の境界線を踏み越える。
その瞬間、どこからともなく無機質で冷淡な声が響き渡った。
『個体名カイン、及びイヴの認証を開始。──認証完了。特定秘匿レベル1へのアクセスを許可』
声が収まる間もなく、視界が途方もない白に染まりあがる。
空間が歪み、全身の感覚が一瞬にして剥ぎ取られていく。
握り締めたイヴの手から伝わる微かな体温だけが、ここが現実なのだと繋ぎ止めてくれていた。
やがて光が引き、世界は不気味なほどの無音に包まれる。
「……着いたよ、カイン」
ゆっくりと瞼を開ける。
そこは──果てしなく広がる、純白の空白地帯だった。
天地の境目すら曖昧な空間に、無数の古びた書物が重力を無視して揺蕩っている。
この世の終わりか、あるいは始まりか。
気が狂いそうになるほどの異様な無の空間。
再び、あの無機質なシステム音声が空間を揺らした。
『個体名カイン、及び個体名イヴの接続を確認。特定秘匿レベル1の情報開示を開始』
音声の消失と同時に、宙に漂っていた一冊の古書が静かに滑り落ち、俺の目の前に留まった。
隣に立つイヴは、何かを必死に耐え忍ぶような、切なく悲痛な表情を浮かべている。
彼女は俺の瞳をじっと見つめ、搾り出すように言葉を紡いだ。
「カイン……。ここで君は、世界のこと……そして、自分自身のことを知らなくちゃいけない。でも……最後まで知ってしまった時、君は……」
言葉を途切れさせ、胸を痛めるように俯くイヴ。
俺は眼前で揺れる本にそっと手を伸ばし、彼女を安心させるように優しく微笑みかけた。
「覚悟なら、とっくに決まっているさ。……旅行、二人で行く約束だろ?」
「ふふっ……そうだね。うん、約束だもん」
俺の言葉に一瞬だけ悲しげな影を落としたイヴだったが、すぐに愛おしそうな笑みを返してくれた。
この中に……俺の求める答えがある。
手にした古書を、ゆっくりと開く。
そこに刻まれていたのは、見たこともない複雑な未知の言語だった。
だが不思議なことに、その記号の羅列が流れるように脳内へ意味を結んでいく。
「これは……」
記されていたのは、あまりにも当たり前の事実ばかりだった。
アストランの成り立ち、機装の基本構造、そしてイデアに関する極めて基礎的な知見。
軍に属する者であれば、訓練兵の講義で叩き込まれるような上べだけの知識。
狂った世界の表面をなぞるだけの単純な情報。
「カインが期待外れって顔をするのも無理はないよ。ここは秘匿レベル1……軍に所属すれば誰でも閲覧できる情報だから」
「どんな恐ろしい真実があるかと思ったが……秘匿レベル1なら、こんなものか」
正直、肩透かしを喰らった気分だった。
だがただ一つ、異質な異物感を放つ点があった。すべてのページに、異常なほど大量の黒塗りが施されているのだ。
「イヴ、この塗りつぶされている項目は一体何なんだ?」
「それは……秘匿レベル2以上の情報だよ」
なるほど……あの機械音声は『秘匿レベル1のアクセス許可』と言っていた。
今の俺には、レベル2以上の階層を紐解く権限がないということか。
「どうすれば、秘匿レベル2へ引き上げられる?」
イヴは俺の手から優しく本を取り上げると、パタンと静かな音を立てて閉じた。
そして、深い影を宿した瞳で俺を見つめる。
「大丈夫……これが『トリガー』だから」
イヴの発した言葉の意味を思考する猶予すら与えられず、即座に「それ」は訪れた。
『特定秘匿レベル1の閲覧を確認。個体名カイン、及びイヴのレベル2へのアクセスを許可』
再び響き渡る、あの冷徹な機械音声。
イヴの言葉の意味を理解する。
秘匿レベルを順々に踏破しなければ、最深部へは辿り着けない構造になっているのだ。
このセントラルというシステムが、俺たちに何をさせようとしているのかは分からない。
いいだろう、どんな意図があろうと今はそれに乗ってやるまでだ。
音声が完全に霧散すると、何も存在しなかった真っ白な空間の真ん中に、唐突にポツンと一枚の扉が現れた。
ごくありふれた、どこにでもある木の扉。
だからこそ、純白の虚無の中に立つその姿は、狂おしいほどの異物感を放っていた。
「この先が……秘匿レベル2か」
扉へと足を踏み出す前に、俺は胸の奥に燻り続けていた問いをイヴへ投げかけた。
こんなにも悲惨で歪んだ世界の真実を知りながら、なぜ彼女は戦い続けてこられたのか。
「……イヴ。こんな歪んだ世界で……それほどの痛みを背負ってまで、お前が戦い続けてきた理由は何なんだ?」
イヴは一瞬目を見開き、そして……今まで俺に見せてくれたどんな笑みよりも美しく、けれど儚い笑顔を浮かべた。
「私の理由は……これまでも、これからもずっと一つだけだよ。……ただ、君と生きていきたい。そのためなら……私はなんだってする」
そう答えた彼女の瞳の奥に、一瞬だけ激しい悲哀と凶絶な憎悪が交錯したのを、俺は見逃さなかった。
だがそれも刹那のことで、イヴは照れ隠しをするように悪戯っぽく微笑んで見せる。
「さあ、行こうカイン。怖いなら……また手、繋ぐ?」
「ははっ……それじゃあ、遠慮なく甘えさせてもらうよ」
押し寄せる不安を払いのけるように軽口を叩き、俺はイヴの小さな手を強く握りしめた。
二人で静かに扉を開け放つ。
再び世界が強烈な白光に包まれ、身体の感覚が消失していく。
やがて、解き放たれた感覚と共に目を開ける。
そこに広がっていたのは、先ほどの真っ白な虚無とは対極にある、凄惨なほどの異質さだった。
「……街……?」
そこには、見たこともない街並みが広がっていた。
建造物も、行き交う住人たちの姿も、アストランのそれとは決定的に異なっている。
「イヴ……ここは一体……」
「ここは……かつての世界。イデアもアストランも存在しなかった、6000年前の世界を再現したホログラムだよ」
ホログラム──そう呼ぶには、目の前の光景は生々しすぎた。
行き交う人々の息遣いや皮膚の体温すら感じられそうなほどリアルな世界。
見上げるほどにそびえ立つ高層建築群、見たこともない装飾の服を着て急ぎ足で通り過ぎていく群衆。
初めて見る光景のはずなのに、なぜか胸が締め付けられるような激しい郷愁と痛みが走る。
その時、世界全体にバリバリと激しいノイズが奔り、空間を切り裂くように声が響いた。
『個体名カイン、及びイヴの接続を確認。特定秘匿レベル2の情報開示を開始』
ノイズはさらに凄まじさを増し、まるで空がガラスのように罅割れていく。
歪んだ頭上から、ハラハラと一つの物体が落ちてきた。
──1冊の、スケッチブックのような冊子。
それは地面に落ちることなく宙に留まり、パラパラと自動でページを捲り始めた。
そこに描かれていたのは、幼い子供が描いたような稚拙な落書きの数々。文字と呼べるものは存在しない。
ページが高速で捲れていくのと同調するように、俺の脳内へ膨大な濁流となって情報が流れ込んできた。
イデアの定義、機装の構造、霊装の起源、そしてアストランの真実──。
脳を直接揺さぶる情報群。これが秘匿レベル2。
だが……情報量は増えたものの、核心を突くような真実はまだ隠されたままだった。
「これがレベル2の情報か……。思ったほどの大した情報じゃなかったな」
「……そうだね。レベル2までは、部隊長クラスに開示されている情報と大差ないから」
問題は……この先か。
隣に立つイヴの様子が明らかに異様だった。
顔には出さないように努めているが、繋いだ手が微かに震えている。必死に強がっているのが伝わってきた。
「イヴ……大丈夫か──」
声をかけようとしたその瞬間、視界が完璧な「漆黒」に塗り潰された。
バチンっ!と不快な断絶音が響き、完全な闇が空間を支配する。
だがそれもほんの一瞬のことで、次の瞬間には何事もなかったかのようにホログラムの街並みが戻っていた。
「……さっきのは何だったんだ? これもシステムの意味があるのか?」
イヴはわずかに沈黙し、俺には届かないほどの消え入りそうな声で「……ごめんね」と呟いた。
そして、何事もなかったかのように顔を上げる。
「……大丈夫だよ。ただの、一瞬のシステム障害だと思う」
俺はその一瞬の断絶に拭いきれない狂気的な違和感を抱いたが、気のせいだと自分に言い聞かせてしまった。
俺はまだ、何も気づいていなかったのだ。
その「一瞬の闇」に込められていた意味を。
イヴが胸の底に押し殺した、涙と罪悪感の重さを──。
◇◇◇
──同時刻、アストラン。
突如として、セントラルを除くアストラン全域に不快な赤色灯と警報音が鳴り響いた。
都市が建設されて以来、ただの一度も鳴ったことのないその警報は、終わりの始まりを告げる警鐘だった。
『異常事態発生。アストランより東西南北・各約30キロ地点にて、未知のイデア群を確認。イデア群はアストランを目標とし進行中──』
けたたましい警報と共に、各部隊長の端末へ絶望的なデータが転送される。
確認されたイデアの総数──およそ、10万。
表示された赤点の群れは、四方の都市から30キロの距離にまで迫っていた。
その進行ルートが交差する地点は……紛れもなく、アストランの中心。
百年もの間、一度たりとも侵攻を許さなかった最後の楽園。
その絶対の平穏が、音を立てて崩れ落ちようとしていた。
──アストラン崩壊まで、残り6日と5時間。




