第十七話 「不変」
花畑から地上へ出ると、すっかり雨は上がり、空には眩しいほどの快晴が広がっていた。
俺は立ち止まり、改めてイヴへ視線を向ける。
「セントラルに行くって……どうやって向かえばいいんだ?」
「方法はいくつかあるけど……まずはここから一番近いイーストシティを目指そっか」
イヴと二人、イーストシティに向けて歩みを進める。
その道中、俺はずっと気になっていた疑問を投げかけた。
「あの日……イヴはあのあと、一体何があったんだ?」
俺の問いに、イヴは過去を手繰り寄せるようにゆっくりと口を開く。
「うーん……私も、はっきりとは覚えていないんだ。前後の記憶が曖昧で……」
「あの瞬間、気がつけば私はセントラルにいた。傷があまりに酷くて、そのまま意識を失って……次に目を覚ました時は、ただ見覚えのある荒野に立っていたの」
確かに俺もそうだったが、あの時のイヴも絶望的な重傷を負っていた。
二人とも、いつ命が潰えてもおかしくないほどの深手。
俺と同じように、治療され昏睡状態だったのだろうか。
「目を覚まして、真っ先に頭に浮かんだのは君のことだった。考えるより先に、身体が無意識にあの花畑へ向かっていて……そうしたら、そこに……君がいた」
「そうだったのか……。ありがとう、イヴ。生きていてくれて」
イヴは切なさを孕んだ、静かな笑みを浮かべる。
その表情には、どこか世界そのものを憂うような儚さが漂っていた。
「そういえば……カインも『あのこと』は聞いた?」
辺りに視線を巡らせながら、イヴが唐突に話題を変える。
「ああ……イデアが姿を消したって話だろ? 聞いているよ。それと、機装のことについても」
俺たちがクラス5を破壊したあの日を境に、影を潜めたイデアたち。
そして、呼応するように次々と機能を停止していく機装。
その二つの現象が無関係であるとは、どうしても思えなかった。
「実は……私の霊装にも、同じことが起きていてね」
「今はまだ機装ほど酷くはないけど……それでも、確実に力が弱まってきているの」
「そう……なのか」
そう答えた瞬間、俺は自分の胸の奥に生まれた「安堵」にハッとした。
もしイヴの霊装が機能を失えば、彼女はもうイデアを殺さずに済む。
あの狂気に満ちた代償に苦しむ必要もなくなるのだと。
だが──そんな自分勝手な安堵は、これまでイヴが血を吐く思いで重ねてきた覚悟を踏みにじるものじゃないのか。
押し寄せる激しい罪悪感を振り払うように、俺は問いを重ねる。
「イヴ……何か心当たりはないのか?」
イヴはしばらく思案するように視線を落とし、やがて小さく首を振った。
「うーん……こればかりは、私にも分からないかな」
「私だって、何でも知っているわけじゃないんだよ?」
そう言って頬を少し膨らませ、イヴはいたずらっぽく微笑む。
その愛らしさに引きずられるように俺の口元も緩み、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。
「……カインの方は、あれからどう? 何か異変はない?」
イヴの瞳が、何かを探るように、あるいは知りたくない恐怖を確かめるように俺を見つめる。
「俺は……あの日から、力が身体の奥から湧き上がり続けているんだ。今までがむしゃらに使っていた力が、完全に肉体に馴染んでいくような……そんな感覚がある」
隠すことなく、正直に答えた。
あのクラス5との戦いを乗り越え、目覚めてからというもの、身体は恐ろしいほどに軽い。
未知の異物であったはずの力が、まるで生来の器官であったかのように馴染んでいく。
この変化が何を意味するのかは分からない。
セントラルに辿り着けば、その答えも得られるのだろうか。
けれど今の俺は、この力に感謝すらしていた。
この力があれば、今度こそイヴを守り抜くことができる。
──そう信じたかったから。
「そっか……。ついに始まったんだね……」
イヴが掠れた声で、ぽつりと呟く。
その声は、風にさらわれるように儚く中空へ消えていった。
一瞬だけ、彼女の顔に涙を耐えるような歪みが走った気がした。だが視線を戻した時には、いつもの静かな表情に戻っている。
それが俺の錯覚だったのかどうか、確かめる術はなかった。
それから広大な荒野を歩き続けると、何もない平原の只中に、寂れた廃墟がぽつんと姿を現した。
一見すればただの風化しかけた建築物だが、よく観察すれば今なお人工的に維持され、管理されている痕跡が見て取れる。
「ここは……?」
俺の疑問に、イヴが静かに答える。
「ここが……アストランの入り口だよ」
ここが入り口……?
周囲には見渡す限りの荒野が広がるばかりで、アストランの影などどこにも見当たらない。
「カイン、覚えてる? 最初に街を出た時、私たちは転移させられたでしょ?」
たしか……あの時は門を潜った瞬間、旧市街へと放り出されたはずだ。
なるほど、入り口と出口で異なる空間座標が設定されているのか。
だからこそ過去百年の間、イデアにはアストランの所在地が特定されることがなかったのか。
廃墟の真前まで辿り着くと、イヴが振り向いた。
その瞳には悲哀と、胸を締め付けるほどの切なさが宿っていた。
「……カイン。この先は……地獄だよ」
その警告に、迷う余地などなかった。
恐れはある、不安だってある。
それでも俺は先に進まなくちゃならない。
覚悟はとっくに出来ていた。
イヴがいるなら、俺はどんな地獄にでも落ちる。
「ああ……行こう、イヴ」
イヴは諦念と深い哀しみを交錯させた表情で、静かに頷いた。
二人で、アストランへと繋がる扉の中へ足を踏み入れる。
次の瞬間、浮遊感と平衡感覚が掻き消えるあの独特の感覚が襲った。
だがそれも刹那のことで、すぐに確かな踏みしめ感が両足に戻ってくる。
ほんの数ヶ月離れていただけのはずなのに、酷く懐かしい空気。
目を開けると、そこに広がっていたのは──紛れもなく、俺が暮らし慣れたイーストシティの街並みだった。
俺の抱いていた予感とは裏腹に、街は以前と変わらぬ平穏を保っていた。
相変わらず活気に満ち溢れ、住人たちは外の世界で起きている異変など露知らず、ただ変わらない平和という名の微毒に浸っている。
「はは……何も変わらないな、この街は。あの店も、あの建物も……」
故郷と呼べる場所があるとするなら、こういう場所を言うのだろうか。
かつてあれほど疎ましく思っていた、危機感を欠いた平穏に、心が救われる日が来るなんて。
あの日──イヴに誘い出されたあの日から、俺の運命は回り始めた。
郷愁に浸る俺の隣で、イヴはただ無言のまま佇んでいた。
「本当に……何も……」
その時、強烈な違和感が脳裏を殴りつけた。
──何も、変わっていない……?
そんなわけがない。変わっていないはずがない。
恐ろしいほどの悪寒が背筋を駆け抜け、俺は狂ったように街中を見渡した。
なぜだ。どうして今の今まで気づかなかった!
この、反吐が出るほどの「変化の無さ」に。
「……イヴ。これは……悪い夢なんかじゃないよな?」
イヴは答えない。ただ静かに唇を噛み、俯いていた。
俺の胸を穿った、凶絶な違和感の正体。
──なぜだ。
なぜ、あの日壊滅したはずのネウロン部隊が、何事もなかったかのように街を巡回しているんだ……?
通りを行き交う兵士たちの腕には、確かにあのネウロン部隊の紋章が刻まれている。
あの日、彼らはイデアの猛威の前に、ほぼ全員が凄惨な死を遂げたはずなのに。
その瞬間、俺はこの街全体を覆い尽くす、恐るべき異常性に気づいてしまった。
「不変」という名の狂気。
思い返せば──この街で「誰かが死んだ」という噂すら、一度として耳にしたことがなかった。
隣人がそこにいるのは当たり前。
友と毎日言葉を交わすのも当たり前。
あの古い武器屋の老婆が、店主として佇み続けているのも当たり前。
そう……この街では、人が命を落とすという概念そのものが存在していないかのように世界が回っていた。
胃の底から酸っぱい胎動がせり上がってくる。
なぜ今まで気づけなかった?
少し思考を巡らせれば、異常だと分かったはずなのに。
いや……以前の俺なら、そんな疑問を抱く思考回路すら存在していなかったのかもしれない。
こうして一度街の外へ出て、イヴと共に戻ってきたからこそ、この歪みに気づけた。
「……カイン」
イヴがぽつりと俺の名を呼び、そっと手を重ねてくる。
彼女の体温と確かな感触に、崩れかけた意識がどうにか繋ぎ止められた。
この悪夢のような違和感すら、これから始まる地獄の前調に過ぎないのだと、魂が警鐘を鳴らしていた。
「……ありがとう、イヴ。……もう大丈夫だ」
深く息を吐き出し、乱れた心を必死に整える。
こんな場所で立ち止まるわけにはいかない。
この異常の正体を知るためにも、俺たちは進まなければならないのだから。
イヴに導かれるように、静まり返った街を進む。
一度不協和音に気づいてしまえば、視界に映るすべての風景が気味の悪い偽物に思えた。
街の住人たちは気づいていないのだろうか?
この「不変」という名の底なしの恐怖に。
「……カイン、こっちだよ。この先に、セントラルへの転移門があるから」
俺を引っ張るイヴの背中を見つめる。
イヴは……きっと、この狂気すらも最初から知っていたのだろう。
それなのに、何も知らない俺に惨酷な現実を悟らせないよう、必死に笑ってみせていたのだろうか。
どれほどの重荷を、たった一人で背負い続けてきたんだ。
俺は少しでも、彼女の苦痛を分かち合えているのだろうか。
イヴにこれほどの絶望を強いるこの歪んだ世界を、俺は許すことができなかった。
その時、前方を歩いていた俺の視界に、見覚えのある二つの影が飛び込んできた。
まさか……そんなはずはない。
そんなことが、起こってたまるか。
全滅したはずのネウロン部隊を見た時、脳裏をよぎった最悪の推測が現実となって目の前に突きつけられる。
「あれは……アサヒと……コウタ……?」
間違えるはずもない。
かつて戦友であり、この手で墓標を立てたはずの、アサヒとコウタの姿だった。
あの凄惨な雨の中、伸ばした手が届かず、俺の指の隙間から零れ落ちていった大切な友たち。
あの日、肉体の原型すら留めずに命を落としたはずの二人が、以前となんら変わらぬ笑顔で談笑しながら歩いている。
俺は真偽を確かめる思考すら失い、ただ友の名を叫びながら足を踏み出そうとした。
「アサヒ! コウタ──っ!」
だがその瞬間、イヴが俺の手を強く引き止めた。
「イヴ……ッ! あそこにアサヒとコウタがいるんだぞ……っ! 二人が……!」
イヴは俺の手を離そうとはしなかった。
今にも泣き崩れそうな、胸が裂けるような表情のまま、ただ俺の手を強く握りしめ、見つめ返してくる。
「ッ……イヴ。……どうして……!」
「君が……苦しむから」
震える声で、絞り出すようにイヴが応える。
その哀痛に満ちた瞳に、熱していた俺の頭が急速に冷えていく。
荒い呼吸を整え、必死に自分を取り戻す。
そうだ……今はセントラルを目指すのが先だ。
落ち着け……落ち着くんだ、俺。
セントラルへ辿り着けば、この都市の狂気も、アサヒとコウタの謎も、すべてが明らかになるはずだ。
「ふぅ……ごめん、イヴ。……先へ進もう」
二人の友に背を向け、俺はイヴと共にセントラルへの道筋を歩み直す。
俺はまだ、何も知らなかった。
この先に待ち受けているものが、「地獄」などという生ぬるい言葉では収まらないほどの惨禍であることを。
これが、ただの静かな序章に過ぎないということを。
そして──俺とイヴに隠された真実が、どれほど残酷で、純粋ゆえの狂気と悪意に満ちていたのかを。
──アストラン崩壊まで、残り6日と8時間。




