第十六話 「人間」
世界を呪った事はある?
自分がこの世界に生を受けた意味を、正しく理解している者など存在しない。
何が「人間」を形作るのか。
心か? 肉体か? 記憶か?
それとも、その全てだろうか。
君の持つその記憶が、本当に正しいと誰が証明出来るというのだろう。
その記憶も、肉体も、誰かを愛おしく思う心でさえ──最初からそうあるようにデザインされた偽物だったとしたら。
私は世界を許さない。
君を彩る全てを、私の生きる全てを奪った世界を。
本物なんてどこにもない。全てが作り物の世界。
──こんな世界、滅んでしまえばいい。
◇◇◇
柔らかな光が降り注ぐ花畑の中、俺たちは互いを確かめ合うように抱きしめ合い、再会の涙を流した。
あれほど俺の心を暗く蝕んでいた不安や孤独が、嘘のように霧散していく。
イヴの温もりと存在そのものが、乾ききった俺の心を満たしていく。
「探したよ……。たくさん、色んなところをさ」
「ごめんね……。それと……ありがとう、カイン」
安堵から一気に全身の力が抜け、膝から崩れ落ちるように座り込んでしまった。
寝る間も惜しんで歩き続けた身体は、限界を超えて悲鳴を上げていたようだった。
「大丈夫……?」
イヴが俺の隣にそっと腰掛け、壊れ物を扱うような瞳で見つめてくる。
「はは……安心して、急に力が抜けちゃっただけだよ」
イヴはふふっと愛おしそうに笑うと、俺の肩へ吸い寄せられるように頭を預けてきた。
聞きたいことは山ほどある。
けれど、今はただこの温もりに浸っていたかった。
静寂に満たされた花畑で、まるで世界に二人きりになったような錯覚。彼女の存在だけが、俺に生きる意味を与えてくれていた。
「カイン……全部終わったら、うんと遠い所まで行ってみない?」
「遠い所……?」
イヴは大きく頷くと、まるで無邪気な子どものように語り始める。
「そう、遠いところ。大昔はね『旅行』って言って、見たこともない景色を探しに行っていたらしいの。氷で出来た果てしない大地とか、どこまでも澄んだ青い海とか」
「いつか……二人で見に行きたいな……」
そう語るイヴの横顔は、まだ見ぬ情景を思い描くように、儚く切なく揺れていた。
「ああ……必ず行こう。約束だ」
「約束……。うん、そうだね。新しい約束」
二人で小さく笑い合い、小指を絡める。
イヴの顔からいつもの凛々しさは消え、年相応の少女のような眩しい笑顔が咲いていた。
その愛おしさに胸が締め付けられ、俺は目すら逸らせずにいた。
けれど──その無邪気な笑顔が、一瞬だけ翳ったのを俺は見逃さなかった。
花畑に重苦しい静寂が満ちていく。覚悟を決めたように、イヴが静かに口を開いた。
「カイン……私ね、君に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
俺の目を真っ直ぐに見つめ返すイヴ。
その瞳の奥には、懺悔、慈しみ、そして激しい怒りが混ざり合った複雑な感情の嵐が渦巻いていた。
こみ上げる何かを必死に押し殺すように強く唇を噛み締め、彼女は言葉を紡ぐ。
「あのクラス5との戦いで生き残れたら、話そうって決めてた。それが……たとえ君を酷く傷つけることになったとしても」
今まで隠していたのは、俺に気遣ってのことだろう。
イヴはどこまでも優しい。どんな極限状態でも俺を優先し、自分の痛みは全て後回しにしてしまう。
「もういいんだ、イヴ。俺にも君の重荷を背負わせてほしい」
俺の言葉に、イヴの頬を一滴の涙が伝った。
ずっと、たった一人で耐えてきたのだろうか。
でも、もう大丈夫だ。これからは俺が君を支え、守る番だから。
「ありがとう……。……私の霊装の代償、覚えている?」
静かに、削り出すような声でイヴが問う。
代償……。忘れるはずがない。霊装を発動するたび、狂乱せんばかりの侵食に身を悶えさせていたイヴの姿が脳裏に焼き付いている。確か……誰かの声が聞こえると言っていたはずだ。
「ああ、覚えているよ」
「その声はね……私にいつも囁きかけてくるの。『助けて』『人殺し』って」
「霊装の力を引き出せば引き出すほど、その絶叫は頭の中で濃く、強く響き渡るの……」
「カイン……私たちが殺し続けてきたイデアはね……」
言葉が途切れ、風の音すら消え去る。
「……人間なんだ」
世界が急速に色を失っていく感覚。
イヴが口にした真実はあまりにも重く、酷惨だった。
一人の少女が抱え続けるには、あまりにも残酷すぎる事実。
ドクン、と胸の奥で心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「イデアが……人間……?」
掠れた声が漏れ出る。
彼女はこの凄惨な事実を知りながら、人類を守るために同胞を殺し、破滅の淵で一人耐え続けていたというのか。
イヴが頑なに「人類のために」と言わなかった本当の理由。まさか、そんな絶望が隠されていたなんて。
「そう……正確には、人間『だった』もの……かな」
「人間だったもの……?」
たしかに、イデアの禍々しい姿はとても人間には見えない。
意思疎通など不可能で、人間を見れば見境なく襲い掛かる異形のバケモノ。全身を機械に覆われ、原型すら留めていない。
特にあのクラス5の異形さは、正気の沙汰とは思えない悪夢そのものだった。
「この真実を知っているのは、私とセントラルだけ」
……待て。嫌な汗が背中を伝う。
イデアが人間だったとすれば、頭をよぎる最悪の推測。
イデアは個体によってサイズも脅威度も大きく異なる。
そして……あのクラス1のサイズは……まるで、まるで……。
「……イヴ。クラス1のイデアは……っ」
「──うん。人間の子どもだったものだよ」
非情な回答は、俺の最悪の予感を容赦なく撃ち抜いた。
そんな……嘘だろ……。
俺が修行だと、成長を噛み締めながら無数に叩き潰してきたあのクラス1が……?
一気に血の気が引き、胃の底から酸っぱい液体が押し寄せてくる。
俺は……俺は何百もの子どもたちを殺し、それを手柄だと笑っていたというのか……?
「イデアのほとんどは錯乱状態にあるの。だから……人間を襲ってしまう」
「特にクラス1は子どもだから……錯乱が一番酷いの。被害が大きくなるのも、そのせい……」
「……私は数え切れないほど……殺してきたよ……」
イヴの声が激しく震える。強く握り締められた拳からは、血が滲み出ていた。
この地獄を、誰にも頼れず一人で背負ってきたのか……。
想像を絶する絶望に、胸が潰されそうになる。
イヴが霊装を使うたびに狂いそうになっていた理由。
そして……機装や霊装がイデアのコアから作られているのだとすれば。
俺たちは、人間の肉体から作られた武器で、人間を殺し続けていたのか。
「……ラババや、キャンプのみんなには──」
喉が固まり、声が途切れる。
『お前たちは同胞を殺しているんだ』とでも突きつける気か?
『人殺しの手助けをご苦労様』とでも笑う気か?
くそっ……俺はどこまで愚かなんだ。
イヴがこの事実を告白するのに、どれほどの血を吐くような覚悟が必要だったかとも知らずに。
愚かな問いを口にしようとした自分を、殺したいほどの後悔が襲う。
「……彼らに言っても無駄だよ。……そういう『役目』を与えられているから」
イヴは全てを諦めたような、虚無を孕んだ声で呟いた。
「役目……? それって一体……」
だが、イヴはその問いには答えなかった。
「カイン。私と一緒にセントラルに行ってほしい。そこに行けば……全てが分かるから」
「君のことも……そして、私のことも」
すがりつくような、けれど消えてしまいそうな瞳で俺を見つめるイヴ。
「……分かった。俺は知りたい。自分自身のことも、この歪んだ世界のことも……イヴのことも」
「……ありがとう、カイン」
泣き出しそうな笑顔で、イヴが微かに微笑む。
きっと、彼女はまだ底知れない闇を抱えている。
それが何なのかは分からない。けれど、彼女にこんな悲しい顔をさせるこの世界を、俺は絶対に許さない。知らなきゃいけないんだ、全てを。
「正直に言うとね……私、君に会うつもりはなかったの。会ってしまえば……もう君はこの残酷な世界から逃げられない。私と君の行く先には……きっと……」
言葉を詰まらせ、イヴは肩を激しく震わせる。
溢れ出る涙が、ぽつり、ぽつりと草葉を濡らしていく。
「それでもね……今、君にこうして会えて……私の心は幸せでいっぱいなの」
涙に濡れた顔を上げたイヴの表情は、息をのむほど美しく、そして痛々しいほど切なかった。
「……大好きだよ、カイン」
頬を伝う涙もそのままに、彼女は愛おしそうに俺の頬へ手を伸び伸ばす。
……俺はなんて果報者だろう。
こんなにも深く愛され、必要とされている。
イヴの存在そのものが、絶望の淵で俺に光を与えてくれる。
「前に言ってくれたよな? 何があっても側にいるって。今度は俺が誓うよ」
「これからどんな地獄が待っていようと、俺は絶対にイヴの側を離れない」
イヴの涙を指で優しく拭う。
「うん……ありがとう……カイン」
「さあ、行こう。俺たちの未来のために」
差し出した俺の手を、イヴは愛おしそうにしっかりと握り返した。
次にここへ戻ってくる時は、全てを終わらせた時だ。
セントラル──イヴが生まれ、全てが始まった場所。
そこへ行けば、世界に隠された真実も、俺たちの存在理由も明かされる。
全てを終わらせて、もう一度ここへ来よう。そして……果てしない世界の向こうへ旅に出るんだ。
二人で誓いを胸に刻み込み、約束の花畑を後にする。
静かに吹き抜ける風が、まるで二人の背中を未来へと押し出すように優しく揺れていた。
◇◇◇
同時刻。アストランからおよそ200キロ離れた、巨大な廃墟の奥深く。
四つのエリアに分断されたその中心に、牙を剥くように聳え立つ巨大構造物。
枯れた蔦に蝕まれ、朽ち果てたコンクリートは永い年月の放置を物語っている。
とうの昔に死に絶えたはずのその場所で、埃を被った古い装置が不気味な起動音を立てて稼働していた。
その足元には、今にも崩落しそうな異形の機械が、しがみつくように身体を預けている。
『──旧第四研究所アストランの位置を確認』
青白いモニターに地図が映し出され、アストランの座標を示す赤い光が不吉に明滅した。
「ミ……見ツケタ……。ここガ……『出来損ないどもの楽園』カ……。ア……あハハ……はふフハハは!」
不快な金属ノイズを撒き散らしながら、その『何か』は引きずり、這いずるように進み始める。
無数の機械パーツを不格好に繋ぎ合わせた狂気の肉体。
一歩進むたび、無理やり接合されたパーツがギギギと嫌な音を立ててポロポロと剥げ落ちていく。
それでも──純粋な憎悪だけを燃料にするように、その異形は着実にアストランへと這い寄っていた。
──アストラン崩壊まで、残り6日と13時間。




