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第9話 新たな一歩



弁護士を介した協議の結果、ようやく和也が話し合いの席に着くことを承諾した。


場所は佐伯法律事務所の応接室。

私が席に着くと、少し遅れて和也が入ってきた。


「……ッ」


数週間ぶりに見る夫の姿は、酷いものだった。


着古したスーツはヨレヨレで、無精髭が伸び、目の下には濃い隈ができている。かつて私が「顔だけはいい」と思っていた面影は見る影もない。


和也は、私の隣に座る佐伯弁護士と、ロビーで待機している堂島くんの方を忌々しげに睨みつけると、ドカッと椅子に座った。


「……で? 話ってなんだよ。俺は離婚なんてしないからな」


開口一番、その言葉だ。

私は深く息を吐き、静かに告げた。


「佐伯先生、お願いします」


「承知しました」


佐伯先生は事務的な手つきで、テーブルの上に書類を広げた。

そこには、興信所の調査報告書、和也の借金の督促状の写し、そして私の口座からの不正引き出しの記録が並べられている。


「相原和也さん。貴方が奥様の口座から無断で150万円を引き出した件、および総額350万円にのぼる消費者金融からの借入について、証拠は全て揃っています」


「な……ッ!?」


和也の顔が瞬時に青ざめる。

隠し通せると思っていたのだろうか。


「そ、それは……違うんだ。一時的に借りただけで……」


「『ガチャ』への課金ですね」


佐伯先生が冷たく言い放つ。


「給与明細と照らし合わせましたが、貴方の生活費は破綻しています。奥様の貯金に手を付けたのは、借金の利息を払うためと、さらなる課金のためでしょう? これは夫婦間の協力義務違反どころか、背任行為に近い」


「う、うるさい! 俺はストレスが溜まってたんだよ! 美咲が仕事ばっかりで俺を構わないから! 俺だって被害者なんだ!」


バン! と机を叩いて喚く和也。


その姿を見て、私は呆れを通り越して哀れみすら感じた。

31歳にもなって、自分の借金を妻のせいにするなんて。


「……和也」


私が口を開くと、和也はすがるような目で私を見た。


「み、美咲。そうだろ? お前がもっと家にいてくれれば、俺だってこんなことしなかった。やり直そう、な? 借金だって、二人で働けば返せる額だし……」


「嫌よ」


私は即答した。


「え?」


「なんで私が、あなたの借金を返すために働かなきゃいけないの? ふざけないで」


「だ、だって夫婦だろ!?」


「夫婦としての信頼を壊したのはあなたよ。私の貯金を盗み、私を疑い、会社まで押しかけて……これ以上、あなたと一緒にいるメリットが一つでもあると思う?」


私の冷たい視線に、和也が言葉を詰まらせる。

ここで佐伯先生がトドメの一撃を放った。


「和也さん。このまま離婚に応じないのであれば、こちらは刑事告訴も辞さない構えです。横領と詐欺で被害届を出します。会社にも知られることになりますが、よろしいですか?」


「け、刑事……!? 待ってくれ、それだけは!」


会社にバレれば、和也の居場所はなくなる。

プライドだけは高い彼にとって、それは死刑宣告にも等しい。


「じゃあ、離婚届に判を押してください。条件は、使い込んだ150万円の一括返済と、慰謝料200万円です」


「む、無理だ! そんな金あるわけないだろ!」


「存じています。ですから、ご両親に来ていただきました」


「は……?」


佐伯先生が合図を送ると、応接室のドアが開き、和也の両親が青ざめた顔で入ってきた。

佐伯先生があらかじめ連絡し、全ての証拠を送っていたのだ。


「か、父さん、母さん……」


「この、馬鹿息子がッ!!」


お義父さんの怒号が響き渡り、拳が和也の頬に飛んだ。


「情けない! 嫁の貯金を盗んでガチャだと!? 恥を知れ、恥を!」


「お義父さん、お義母さん。申し訳ありませんが、私の決意は変わりません」


私が頭を下げると、お義母さんは泣き崩れながら私に謝罪した。


「美咲さん、本当にごめんなさいね……。私たちが甘やかしたせいで……。お金のことは、私たちが責任を持って肩代わりします。だからどうか、刑事告訴だけは……」


親に頭を下げさせ、借金を尻拭いさせる31歳。

和也は床にへたり込み、ただ呆然としていた。


もう、彼を守るものは何もない。


結局、その場で離婚届が記入され、公正証書が作成された。

和也の実家が私の150万円と慰謝料を立て替え払いし、和也は実家に連れ戻されて借金返済のために監視生活を送ることになったそうだ。


「もう二度と美咲さんの前に現れるな」とお義父さんに一喝され、和也は一言も発することなく、項垂れて部屋を出て行った。


最後に見せた彼の顔は、絶望そのものだったが、私の心は驚くほど静かだった。


事務所を出ると、空は突き抜けるような青空だった。

ロビーで待っていた堂島くんが、心配そうに駆け寄ってくる。


「相原、終わったか?」


「うん。……終わったよ。全部」


私は大きく伸びをした。

肩に乗っていた重い荷物が、すっかり消えてなくなったようだ。


「……お疲れ様。よく頑張ったな」


堂島くんが、ポンと私の頭に手を置いた。

その温かさに、張り詰めていた緊張が解け、自然と涙がこぼれた。


悲しい涙じゃない。これは、再出発のための涙だ。


「ありがとう、堂島くん。……私、自由になれたんだね」


「ああ。これからは、誰にも邪魔されず、お前の生きたいように生きられるんだ」


春の風が、私の髪を優しく撫でていった。


独身に戻った私。

貯金も戻ってきた。仕事もある。

そして隣には、一番信頼できる人がいる。


私の新しい人生は、今ここから始まるのだ。

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