最終話 ずっと待っていた
和也との離婚が成立してから、3ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、街路樹の緑が鮮やかな初夏を迎えている。
私の生活は劇的に変わった。
まず、仕事。あのプロジェクトの成功が評価され、私は正式に管理職へと昇進した。
給料も上がり、自分の裁量で働けるようになったことで、以前のような無理な残業も減った。
そして何より、家に帰った時の空気が違う。
散らかった部屋にイライラすることもない。誰かの機嫌を伺う必要もない。
自分でお気に入りの家具を買い直し、好きなアロマを焚き、丁寧に淹れた紅茶を飲む。
そんな当たり前の「平穏」が、これほど幸せだとは知らなかった。
「相原、今日の夜、空いてるか?」
金曜日の夕方。
仕事を片付けていると、堂島くんがデスクにやってきた。
この3ヶ月、彼は私の生活が落ち着くまで、友人としての距離感を保って見守ってくれていた。
仕事の相談に乗ってもらったり、たまにランチに行ったり。
心地よい距離感だったけれど、今日の彼は少し様子が違った。
「うん、空いてるけど。どうかした?」
「いい店を見つけたんだ。……仕事の話じゃなくて、プライベートで誘いたい」
その真剣な眼差しに、私の心臓がトクリと跳ねた。
「……うん。行きたい」
***
連れてこられたのは、都内の夜景が一望できる高層ビルのレストランだった。
普段の居酒屋とは違う、落ち着いた大人の空間。
窓の外には、宝石箱をひっくり返したような光の海が広がっている。
「すごい……こんな素敵な場所、初めて」
「気に入ってくれたなら良かった。今日は、美咲にちゃんと話したいことがあったから」
彼が私のことを「相原」ではなく「美咲」と呼んだことに気づき、私はグラスを持つ指を少し震わせた。
食事の間、私たちは高校時代の思い出話や、最近の仕事の話で盛り上がった。
和也といた時は、会話がこんなに楽しいと感じたことはなかった。
私の話を否定せず、楽しそうに聞いてくれる。
ただそれだけのことが、こんなにも心地いいなんて。
デザートが運ばれてきた頃、堂島くんは居住まいを正し、私を真っ直ぐに見つめた。
「美咲。離婚の手続きも終わって、生活も落ち着いた今だから、言わせてほしい」
「……うん」
「俺は、高校の時からずっと、美咲のことが好きだった」
予感はしていた。でも、実際に言葉にされると、胸がいっぱいになった。
「文化祭で必死に走り回る姿も、この半年間、理不尽な状況でも歯を食いしばって仕事をやり遂げた姿も、全部見てきた。……お前が結婚したと知った時は諦めようと思ったけど、再会して、傷ついているお前を見て、もう我慢できなかった」
彼はテーブル越しに、そっと私の手に自分の手を重ねた。
大きくて、温かい手。
私が一番辛かった時、支えてくれた手。
「俺は、お前を悲しませたりしない。お前の仕事を尊重するし、辛い時は半分背負う。……もう、同級生や同僚としてじゃなくて、パートナーとして隣にいたいんだ」
「堂島くん……慶介くん」
私は彼の名前を呼んだ。
涙が滲んで、夜景が揺れる。
「私で、いいの? バツイチだし、可愛げもないし……」
「バツイチがなんだ。それは美咲が困難を乗り越えた証だろ。俺は、今の強くて優しい美咲だから好きなんだよ」
その言葉が、私の心の最後の氷を溶かしてくれた。
もう、迷う理由なんてどこにもない。
私は彼の手を握り返し、精一杯の笑顔で答えた。
「私も……慶介くんが好き。ずっと支えてくれて、ありがとう。……これからは、私が慶介くんを幸せにするね」
「はは、そこは『幸せにして』じゃないのか?」
「ううん。二人で幸せになるの」
慶介くんは嬉しそうに目を細め、愛おしそうに私の手を引いて、指先に口づけた。
「ああ、そうだな。二人で、最高に幸せになろう」
窓の外の輝きよりも、目の前の彼の笑顔の方が、ずっと眩しかった。
遠回りをしたかもしれない。
酷い裏切りにも遭った。
けれど、その全てがあったからこそ、私は今、本当の愛に辿り着けたのだと思う。
私の貯金で私の身辺調査をした元夫は、今頃借金返済に追われて地獄を見ているかもしれない。
でも、そんなことはもうどうでもいい。
私の未来には、光しか見えないのだから。
(完)




