番外編:すべてを失った男の末路
「おい相原! またミスか! 何度言ったらわかるんだ!」
上司の怒号がオフィスに響き渡る。
かつての俺なら、「へいへい、すみませんね」と心の中で毒づきながら適当に聞き流していただろう。だが今の俺には、そんな余裕すらない。
「すみません……すぐにやり直します……」
消え入るような声で謝ると、周囲からクスクスと忍び笑いが漏れた。
以前はそれなりに仲の良かった同僚たちも、今では誰も俺に話しかけようとしない。
それどころか、俺が近くを通るだけで、汚い物を見るような目を向けてくる。
原因はわかっている。
離婚騒動の際、美咲の弁護士が会社に乗り込んできたこと。
そして、俺が美咲の貯金を勝手に使い込み、消費者金融に多額の借金を作っていたことが、どこからか社内に漏れてしまったのだ。
「あいつ、奥さんの金でガチャ回してたんだってよ」
「信じられない。その上、奥さんの不倫を疑って探偵まで雇ってたらしいぜ。自分が真っ黒のくせに」
「最低だな。顔が良いだけのクズじゃん」
給湯室や喫煙所から聞こえてくる陰口。
否定したくても、すべて事実なのだからどうしようもない。
仕事の評価はガタ落ち。ボーナスはカット。
それどころか、今の会社に居続けること自体が地獄だった。
だが、辞めるわけにはいかない。
俺には、親が立て替えた350万円の返済がある。
午後7時。定時を過ぎると同時に、俺は会社を飛び出す。
向かうのは、自宅ではない。実家近くにある深夜営業の物流倉庫だ。
「ほら、手が止まってるぞ! さっさと運べ!」
実家に戻ってからの俺の生活は、一言で言えば「奴隷」だった。
スマホは親に没収され、位置情報が常に監視される安物のガラケーを持たされた。
給料はすべて親が管理し、俺に渡されるのは一日数百円の昼食代のみ。
当然、大好きだったゲームのガチャなんて一回も回せない。
それどころか、ログインボーナスを受け取ることさえ許されない。
「……くそっ、なんで俺がこんな目に……」
重い荷物を運びながら、何度も悪態をつく。
だが、そのたびに脳裏に浮かぶのは、最後に見た美咲の冷え切った瞳だ。
あいつがいれば。
あいつが黙って家事をやって、俺に金を貢いでくれていれば、こんなことにはならなかったのに。
そう、全部美咲が悪いんだ。あいつが可愛げなく仕事に打ち込んだりするから……。
「……痛っ!」
疲れから足元をふらつかせ、荷物の角に足をぶつける。
激痛に耐えながら、ふと倉庫の隅に捨てられていた週刊誌に目が止まった。
そこには、ビジネス誌の特集記事が載っていた。
『注目の若手女性管理職、相原美咲氏に聞く。次世代のリーダーシップとは』
写真の中の美咲は、俺が見たこともないような自信に満ちた、輝くような笑顔を浮かべていた。
そしてその隣には、これまた見たこともないような高級そうなスーツを着こなした堂島が、誇らしげに彼女の肩を抱いている。
二人の薬指には、お揃いの指輪が光っていた。
「……ああ……あああああ!!」
俺は地面に膝をつき、声を上げて泣いた。
美咲はもう、俺の知らない世界へ行ってしまった。
俺が「ATM」として見下し、適当に扱っていた女は、今や俺の手の届かない場所で、最高の幸せを掴んでいる。
俺に残されたのは、終わりの見えない借金返済と、冷え切った家族の視線。
そして、二度と回すことのできない、空っぽのスマホ画面だけ。
「美咲……美咲……! 悪かった、俺が悪かったから……!」
深夜の倉庫に、俺の惨めな叫びが空虚に響いた。
だが、その声が彼女に届くことは、二度とない。




