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第7話 泥沼の攻防



家を飛び出した私が向かったのは、駅前の深夜営業のカフェだった。


電話を受けて駆けつけてくれた堂島くんは、私の話を聞き終えると、怒りで震える手でテーブルを叩きそうになるのを必死に堪えていた。


「……信じられないな。妻の貯金を勝手に使い込んで、しかも自分への慰謝料を要求するだって?」


「笑っちゃうでしょ? 150万もかけて私のことを調べて、何も出なかったのがよっぽど悔しかったみたい」


私は自嘲気味に笑ったけれど、堂島くんは真剣な眼差しを崩さなかった。


「笑い事じゃないぞ、相原。それは経済的DVだし、立派な横領だ。……よく今まで耐えたな」


その言葉に、張り詰めていた気が緩み、涙が溢れてきた。


私のこれまでの5年間は、無駄だったのかもしれない。でも、こうして怒ってくれる人がいることが、今の私には救いだった。


「弁護士を紹介する。俺の大学時代の先輩で、離婚問題に強い人がいるんだ。明日の朝一番で連絡を取ろう」


「ありがとう……でも、弁護士費用とか、今は手持ちが……」


「費用は出世払いでいいし、最悪、俺が立て替える。そんなことより、今は自分の身を守ることを考えろ。あいつは何をしてくるかわからないぞ」


堂島くんの懸念は的中した。

私がビジネスホテルに身を寄せた翌日から、和也による常軌を逸した「反撃」が始まったのだ。


まず、私のスマホにはLINEの通知が鳴り止まないほど届いた。


最初は『帰ってこい』『飯はどうするんだ』といった命令口調だったが、私が既読無視を決め込むと、次第に内容は狂気を帯びてきた。


『弁護士なんて大袈裟なことするな』


『夫婦のことは夫婦で話し合うべきだ』


『お前が帰ってこないなら、会社に行くぞ』


『職場にバラされたくなかったら金を持って帰ってこい』


脅迫まがいのメッセージに恐怖を感じたが、堂島くんと弁護士の指示通り、全てスクリーンショットを撮って証拠として保存した。


さらに数日後、実家の母から慌てた様子で電話がかかってきた。


『美咲! あんた、男を作って駆け落ちしたって本当なの!?』


「はあ? 何言ってるの、お母さん」


『だって和也くんから電話があって……あんたが会社の男と不倫して、150万円を持ち逃げして家を出たって泣きついてきたのよ!』


開いた口が塞がらない。

事実をあべこべに捏造して、私の親にまで嘘を吹き込んだのだ。自分を被害者に仕立て上げるために。


「お母さん、よく聞いて。逆よ。和也が私の貯金を150万勝手に使ったの。使い道は私の浮気調査。で、シロだったのに逆ギレして慰謝料よこせって言ってきたから、私が逃げたの」


『えっ……? じゃあ、不倫っていうのは?』


「和也の妄想よ。証拠もあるわ。通帳の記録も、和也からの脅迫LINEも全部弁護士に提出済みだから」


私が淡々と事情を説明すると、電話の向こうで母が絶句し、やがて猛烈な怒りを露わにした。


『あの子……! よくもぬけぬけと嘘を! お父さんにも伝えて、向こうのご両親に抗議してやるわ!』


「ありがとう。でも、今は弁護士さんに任せてるから、お母さんたちは余計な接触はしないで。巻き込まれると面倒だから」


実家の誤解は解けたが、和也の暴走は止まらない。


弁護士から和也に受任通知が届くと、和也は弁護士に対して「妻は騙されている」「不倫相手の男に洗脳されている」と主張し、離婚を断固拒否したのだ。


そして、あろうことか和也は、私の会社の前で待ち伏せまでするようになった。


「美咲! おい、美咲!」


退社時刻、ロビーに響き渡る大声。

警備員に止められながらも、和也が私に向かって叫んでいる。


「話を聞けよ! 俺たちはまだ夫婦だろ! その男か? そいつにそそのかされてるんだろ!」


和也が指差した先には、私をガードするように立っていた堂島くんがいた。

堂島くんは眉一つ動かさず、冷徹な視線で和也を見下ろした。


「……相原さんの夫君ですね。彼女への接触は弁護士を通すように通達されているはずですが」


「うるせえ! お前だろ、美咲をたぶらかした間男は!」


「名誉毀損で訴えますよ。……行こう、相原さん」


堂島くんは私の背中を支え、騒ぐ和也を警備員に任せてタクシーに乗せてくれた。


タクシーの中で、私は震えが止まらなかった。

恥ずかしさと、情けなさと、恐怖。


「ごめん……ごめんなさい、堂島くん。私のせいで、あんなこと言われて」


「気にするな。負け犬の遠吠えだ」


堂島くんは私の震える手を、そっと自分の手で包み込んだ。

大きくて、温かい手。


「それに……あながち間違いでもない」


「え?」


「いや、なんでもない。……とにかく、これで決定的だ。ストーカー行為として接近禁止命令も申し立てられる。あいつは墓穴を掘ったんだ」


堂島くんの横顔は頼もしかったけれど、その瞳の奥には、和也に対する冷ややかな怒りの炎が燃えているのが見えた。


そう、和也は知らなかったのだ。

自分が騒げば騒ぐほど、証拠が積み上がり、逃げ場を失っていくことを。


そして、彼が必死に隠そうとしていた「本当の秘密」が、もうすぐ白日の下に晒されることを。

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