第6話 最低の使い道
「はい? ちょっと待ってよ。私、言ったよね? 大きなプロジェクトに参加するから半年は忙しくなるって」
頭がくらくらするのを堪えながら、私は努めて冷静に問いかけた。
「うん、聞いたけど……。だけど変じゃないか。いきなりだったし、俺が反対しても聞いてくれなかったし」
和也はバツが悪そうに視線を泳がせながらも、口を尖らせて反論してくる。
「なんであなたが反対したら、その意見が全て通ると思ってるのよ。その後、話し合いをしてお互いに歩み寄ろうとか考えないの? 私たち夫婦よね? 私の意思は無視なの?」
「いや、無視してないじゃないか。この半年、好きなようにさせてたし」
「好きなようにさせてた? ……この半年、私の不倫を疑って探偵を雇って監視させていたのに?」
何が「好きなようにさせてた」だ。呆れてものが言えない。
私が必死で働いている間、こいつは家でゴロゴロしながら、私の金で私を監視していたのだ。
和也も私に痛いところを突かれて、「いや」とか「だって」とか口籠っているが、まともな反論は出てこない。
「で? 私の浮気の証拠はちゃんと揃ったんでしょうね? 150万以上も使って『何もありませんでした』は通用しないわよ」
まあ、私は本当に仕事していただけだ。そんなものあるわけがないのだが。
案の定、和也は顔を逸らすと、ボソリと言った。
「……いや、何もなかった。探偵も、美咲は仕事しているだけ、シロだって言っていた」
その言葉を聞いた瞬間、私は大袈裟なくらい深い、深いため息をついた。
怒りを通り越して、脱力感すら覚える。
「何? 私のお金で、私の浮気調査をして、何もありませんでした? ……で? お終いなの?」
ダメだ。自分で口にして、余計に腹が立ってきた。
私の150万円は、ドブに捨てられたどころか、私自身を傷つけるために使われたのだ。
すると和也は、何を思ったのか、ひきつったようなへらへら笑いを浮かべた。
「いやまあ、でも良かったじゃないか。美咲の潔白が証明されてさ。俺もこれで安心して美咲を信じられるよ」
「……は?」
「それにさ、探偵も悪いんだよ。もう少し踏み込めば何かわかるかもしれないとか、いい加減なこと言ってズルズルと調査を引き延ばしてくるし」
人のせいにするな。依頼したのはあんたでしょう。
私は無表情のまま、淡々と尋ねた。
「へえ、どれくらいの期間調査してたの?」
「うん、四ヶ月。一ヶ月30万で頼んでいたんだけど」
「じゃあ四ヶ月の期間と120万円を私の浮気調査に費やしたわけね?」
「うん、あと、美咲が出張した時の旅費とかも別途請求されたから、全部で150万近くかな?」
「はははははは」
乾いた笑いが漏れた。
もう、和也は笑って誤魔化すしか思いつかないんだろう。ちっとも面白くないけどね。
30万円あれば、何ができた?
欲しかった家具も買えた。旅行にも行けた。将来のために投資だってできた。
それを、この男は……。
今まで心のどこかに引っかかっていた「情」のようなものが、音を立てて崩れ去っていくのがわかった。
修復? 話し合い? 無理だ。
価値観が違いすぎる。いや、そもそも人間としてのレベルが違いすぎる。
「ねえ、和也」
私は笑うのをやめ、氷のように冷たい声で告げた。
「離婚しようか」
和也の動きが止まった。
「……は? ちょっと落ち着けよ。こんなことくらいで」
「こんなこと?」
「確かに俺が悪かったけどさ。だけど、美咲だって悪いんだぞ。家庭を疎かにしてさ、俺を不安にさせたんだから。お互い様だろ?」
この期に及んで「お互い様」。
私の我慢の限界は、とっくに突破していた。
「なあ、金はちゃんと返すし、謝るからさ。今回は勘弁してくれよ」
「あのさ、和也。今回の件が引き金なのは間違いないけどさ。実は前々から頭に浮かんではいたんだよね」
私は和也の目を真っ直ぐに見据えた。
「私たちさ、価値観が違うんだよ。私が我慢すればいいのかとも思っていたんだけど、いずれは破綻するよ。これ以上無駄な時間使わないで、お互いに自分の人生を行きましょうよ」
そう。遅いかもしれないけれど、遅すぎることもないだろう。
まだ31歳。私の人生はやり直せるはずだ。
私の決意が固いのが理解できたのか、和也の表情からへらへらとした笑みが消え、代わりに卑しい色が浮かんだ。
「……じゃあ、別れてもいいから、慰謝料をくれないか?」
「……はあ?」
私がなんで出す方なの? 正気で言ってるのか?
耳を疑う私に、和也は真顔で言った。
「だって、離婚したいのは美咲なんだろ? 俺は別れたくないのに、美咲の都合で別れるんだし、それくらい出してくれてもいいだろ? 手切れ金代わりにさ」
あまりの馬鹿げた言い草に、和也に対する愛情が氷点下まで落ちていくのがわかる。
ああ、こんな男と5年も一緒にいたなんて。
もう今すぐにでも別れたいけれど、最後までこいつに合わせてやるのは癪だ。
私は冷徹な微笑みを浮かべた。
「わかりました。それなら、離婚調停、裁判までいくことにしましょうか」
「え?」
「それなりのお金や時間がかかることになるでしょうけど、あなたがその気なら、私も覚悟を決めました。……とことんやりましょう」
「え? いや、別にそこまで……」
慌てて和也は何か言おうとしているが、もう手遅れだ。
和也の戯言はもうたくさん。
「じゃあ、今夜からビジネスホテルに泊まるから。今後の連絡はすべて弁護士経由にしてください。絶対に、私に直接連絡してこないでくださいね」
「おい、待てって! 美咲!」
和也が伸ばしてきた手を払いのけ、私は最低限の身の回りの物だけをまとめて、家を出た。
背後で和也が何か叫んでいたが、もう二度と振り返らなかった。
夜の街を歩きながら、私はスマホを取り出した。
震える指で発信ボタンを押す。
コール音が数回鳴り、聞き慣れた、そして今は一番聞きたい声がした。
『……はい、堂島です』
「あ、堂島くん? 夜分にごめんね、相原です」
『相原? どうした、こんな時間に』
彼の声を聞いた途端、張り詰めていた緊張が切れ、目頭が熱くなった。
「……ちょっと、助けてほしくて」
私は今、人生最大の決断をした。
そしてこれから始まる泥沼の戦いには、きっと彼の助けが必要になる。
そう予感していた。




