第5話 消えた150万円
あの最悪な打ち上げの夜から数日が経ち、ようやくプロジェクトの残務処理も落ち着いた週末。
久しぶりの休日だというのに、家の中の空気は澱んでいた。
和也とは、必要最低限の会話しかしていない。
向こうもバツが悪いのか、それともまだ私が浮気していると疑っているのか、目を合わせようとしない。
(はあ……このままじゃダメよね)
洗濯機を回しながら、私はふと思った。
和也の態度は腹が立つし、許せるものじゃない。けれど、離婚という二文字を突きつけるには、まだ少し迷いがあった。
5年も連れ添った情があるし、私が歩み寄ることで修復できるなら、それが一番いいのかもしれない。
(今回のプロジェクト、ボーナスも出そうだし……和也に何かプレゼントでも買って、仲直りのきっかけにしようかな)
我ながらお人好しだと思う。
でも、昇進も決まりそうだし、心に少し余裕ができていたのかもしれない。
私は、美味しいケーキと、和也が欲しがっていたブランドの時計でも買おうと思い立ち、支度をして家を出た。
駅前の銀行のATMコーナーに立ち寄る。
夫婦の生活費を入れている共通口座ではなく、私の個人名義の口座からお金を下ろすためだ。
この口座には、私が独身時代からコツコツと貯めてきた貯金が入っている。結婚後も、万が一のためにと手を付けずに残しておいた、私のお守りのようなお金だ。
通帳を機械に入れ、記帳ボタンを押す。
ジジジ、ジジジ……と印字される音がやけに長く感じた。
「え?」
返ってきた通帳を開いた瞬間、私の思考は停止した。
『サシオビキ -500,000』
『サシオビキ -300,000』
『サシオビキ -200,000』……
ページをめくっても、めくっても、身に覚えのない引き出し記録が並んでいる。
日付はこの半年間に集中していた。
そして、最終的な残高は――
「……嘘、でしょ?」
数千円しか残っていない。
あったはずの150万円以上が、きれいさっぱり消えていた。
「なんで? どうして?」
キャッシュカードは財布に入っている。通帳と印鑑は……自宅の引き出しの奥にしまっていたはずだ。
泥棒? スキミング?
いや、引き出しはATMで行われている。暗証番号を知っている人間でなければ不可能だ。
私の誕生日や電話番号から推測できる番号。
そして、通帳の隠し場所を探れる人間。
心当たりは、世界にたった一人しかいない。
私は震える手で通帳を握りしめ、来た道を引き返した。
ケーキを買うつもりだったウキウキした気持ちは、どす黒い怒りと恐怖に塗り替えられていた。
「ただいま」
玄関を開けると、和也はリビングでスマホゲームに興じていた。
「おう、早かったな」
私の顔も見ずに言う和也。その背中に向かって、私は努めて低い声で言った。
「和也、ちょっと話があるの」
「なんだよ、今いいところなんだよ」
「いいから、こっち向いて!」
今まで出したことのない大声に、和也がビクリと肩を震わせて振り返る。
私はテーブルの上に、通帳を叩きつけた。
「これ、どういうこと?」
「あ? なんだよそれ」
「私の個人口座の通帳よ。ここ半年で150万円以上引き出されてる。犯人に心当たり、あるわよね?」
和也の視線が通帳に落ち、そして泳いだ。
明らかに動揺している。
「いや、知らないな。気のせいなんじゃないか?」
「150万も減っていて気のせいなわけないでしょう! 本当に心当たりがないなら、今すぐ警察に行くわ。不正引き出しとして被害届を出す。銀行の防犯カメラを見れば、誰が下ろしたか一発でわかるから」
私はスマホを取り出し、110番を押すフリをした。
すると、和也が慌てて立ち上がり、私の手首を掴んだ。
「ま、待てよ! 大袈裟じゃないか!」
「大袈裟? 犯罪よ? 離して」
「いや、その……俺かもしれない」
「かもしれない、じゃなくて。あなたがやったの?」
私の剣幕に押され、和也は観念したようにボソリと言った。
「……ごめん、俺がちょっと使わせてもらった」
頭の中が真っ白になった。
信じたくなかった。まさか、本当に夫が妻の貯金を盗んでいたなんて。
「はあ? なんで勝手に人のお金を使っているのよ」
「いや、夫婦のお金なんだし、別にいいじゃないか」
「何言ってるの? 夫婦のお金は共同の口座に貯めてるでしょう? この通帳のお金は、私が独身時代に貯めていた、私の貯金よ!」
「細かいこと言うなよ。結婚したら財布は一緒だろ? 結局は二人のものなんだし、別にいいじゃないか」
開き直ったようなその態度に、眩暈がした。
罪悪感のかけらもない。
「ちょっと、何言ってるのかわからないんだけど。……第一、何に使ったのよ?」
そうだ。150万円だ。
車を買ったわけでもない。家具が増えたわけでもない。
一体、この半年で何にそんな大金を使ったというのか。
「それは、その……」
和也は急に口籠り、視線をそらした。
言えないようなこと? ギャンブル? それとも……女?
「ふざけないで。使い道を言わないなら、本当に警察沙汰にするわよ。横領でも窃盗でも、訴えてやるから」
「待てよ! そんなに大袈裟にすることじゃないんだって!」
「じゃあ話しなさいよ! どういうことなのか!」
私が一歩も引く気がないのがわかったのだろう。
和也は頭を掻きむしりながら、信じられない言葉を吐き出した。
「その……探偵を雇って、その費用に使ったんだ」
「……は?」
思考が追いつかない。
タンテイ? 探偵って、あの探偵?
「え? 探偵? ……なんで?」
「いや……美咲のことを調べてもらったんだ」
「はあ、私のこと?」
「うん。その、美咲、いきなり残業や出張が多くなったじゃないか。なんで、その……不倫でもしてるんじゃないかと、心配になって」
時が止まった気がした。
私の貯金を勝手に下ろして、私の不倫調査を探偵に依頼した?
150万円もかけて?
あまりの馬鹿馬鹿しさと理不尽さに、怒りを通り越して乾いた笑いが出そうになった。
こいつは、どこまで腐っているんだろう。




