第3話 ワンオペの限界と優しさ
和也の反対を押し切ってプロジェクトに参加してから、3ヶ月が過ぎようとしていた。
予想はしていたけれど、業務量は尋常ではなかった。
日中はクライアントとの折衝、夕方からは社内ミーティング、そして夜は資料作成。終電帰りも珍しくない日々が続いている。
けれど、私を一番苦しめているのは仕事の量ではなかった。
家に帰った瞬間に目に入ってくる、荒れ果てたリビングだ。
「……ただいま」
深夜1時。重い体を引きずって帰宅すると、玄関には和也の靴が脱ぎ散らかされている。
リビングに入れば、テーブルの上には飲みかけのペットボトル、食べたままのコンビニ弁当の容器、そして脱ぎ捨てられた靴下。
ソファでは和也が大口を開けて寝ていた。テレビはつけっぱなしだ。
「はあ……」
ため息しか出ない。
プロジェクトが始まってから、和也は示し合わせたかのように家事をしなくなった。
以前は渋々ながらもやっていた風呂掃除やゴミ出しさえ、完全に放棄している。
「ちょっと、和也。起きてよ」
ソファで寝ている夫の肩を揺する。
「ん……なんだよ、うるせえな」
「うるさいじゃないわよ。食べたものは片付けてって言ったでしょ。それに、なんで洗濯物が溜まったままなの? 今日、和也休みだったよね?」
「あー、疲れてたんだよ。ていうか、気づいたなら美咲がやればいいだろ」
和也は不機嫌そうに寝返りを打つ。
「はあ? 私だって今帰ってきたのよ。掃除はお互い仕事しているんだし、手の空いた方がやる約束でしょう?」
「だから、俺は疲れてるんだって。お前が好きでやってる仕事のせいで家の中がギスギスしてるんだぞ。少しは反省しろよ」
「な……!」
言葉が出なかった。
部屋を汚しているのは主に和也だ。私は寝に帰るだけの生活なのだから。
それなのに、私が仕事を頑張っていることが「悪」であるかのようにすり替えてくる。
これは多分、嫌がらせだ。私が音を上げて「仕事辞めます」と言うのを待っているのだ。
(誰が負けるもんですか)
私は怒りを飲み込み、無言で散らかったゴミをゴミ袋に突っ込んだ。
こんな男と言い争う時間さえ惜しい。明日も早いのだ。
***
翌日の夜22時。
オフィスには私一人だけが残っていた。
和也との冷戦状態と睡眠不足が祟り、集中力が切れかけている。モニターの文字が霞んで見えた。
「……ダメだ、全然進まない」
眉間を揉んでいると、ふいに温かい缶コーヒーが頬に触れた。
「うわっ!?」
「根詰めすぎだぞ、相原」
驚いて振り返ると、そこには堂島くんが立っていた。
ネクタイを少し緩め、手にはコンビニの袋を持っている。
「堂島くん……どうしてここに?」
「下の階で打ち合わせがあったんだ。明かりが見えたから、まだやってるのかなと思って」
彼は近くの椅子を引き寄せ、私のデスクの横に座った。
コンビニ袋からサンドイッチと栄養ドリンクを取り出し、デスクに置く。
「夕飯、まだだろ? 顔色が最悪だ」
「……ありがとう。実は、ちょっと限界かも」
張り詰めていた糸が緩んだのか、つい弱音が漏れてしまった。
和也には絶対に言えない言葉。でも、彼になら言える気がした。
「プロジェクトの方か?」
「ううん、仕事は楽しいの。やりがいもあるし。でも……」
言葉を濁すと、彼は深く追求せずに、ただ静かにコーヒーのプルタブを開けた。
「家のことか」
図星を突かれ、私は黙って頷くことしかできなかった。
「……まあ、詳しいことは聞かないけどさ。お前が無理して笑ってることくらい、見てればわかるよ」
「え?」
「高校の時と同じだ。実行委員の時も、全部自分で背負い込んで、誰にも頼らずにパンク寸前になってたろ。あの時と同じ顔をしてる」
彼は私の目をまっすぐに見つめた。
その瞳には、呆れではなく、深い心配の色が浮かんでいた。
「俺は部外者だし、家庭のことに口出しする権利はない。でも、これだけは言わせてくれ。……お前が倒れたら、俺が困る。このプロジェクトにはお前が必要なんだ」
それは、ビジネスパートナーとしての言葉のようでいて、それ以上の温かさを孕んでいた。
「お前が必要だ」。
和也からは一度も聞けなかった言葉。
「……そうね。倒れるわけにはいかないわね」
サンドイッチを一口食べると、涙が出そうなほど美味しかった。
空っぽの胃に、そして乾いた心に、彼の優しさが染み渡っていく。
「食べ終わったら帰れよ。送ってくから」
「えっ、悪いよ。電車あるし」
「こんな時間に女性一人で帰せるか。ついでだ、ついで」
彼はぶっきらぼうに言いながらも、私が食べ終わるのを辛抱強く待っていてくれた。
横顔を見ながら、ふと思う。
もし、私が選んだ相手が和也じゃなくて、彼のような人だったら。
そんな「もしも」が頭をよぎり、私は慌ててそれを打ち消した。
まだ、私は既婚者だ。
それに、このプロジェクトが終われば、また元の生活に戻るのだから。
けれど、この夜の缶コーヒーの温かさは、冷え切った私の心の唯一の拠り所として、深く刻み込まれることになった。




