第6話 決意
目が覚めると、寝る前と同じ景色が広がっていた。
隣へ視線を向けると同じように目を覚ましたセラと目が合う。
昨日、俺たちは結婚した。
本来なら、夫婦として迎える初めての朝を喜ぶはずだった。
だが、そんな気分には到底なれなかった。
あの後、俺たちはセレスティア様から女神と使徒の役目についてさらに詳しい説明を受けた。そして、すぐに答えを出す必要はないと、考えるための時間を与えられた。
――いや、考える時間ではなく、覚悟を決める時間という方が正しいのかもしれない。
「……セラ」
俺はたまらず、隣にいるセラの体を抱きしめた。腕の中に感じる温もり。彼女の髪の香り。背中に回された細い腕。つい昨日まで、これからはずっとこうしていられるのだと思っていた。なのに、今はこの温もりを手放すことになるかもしれないと思うだけで、胸が締めつけられる。
「セラ、引き受けなくていい。君が女神になる必要なんてない」
「アイル……」
「きっと、ほかに方法があるはずだ。俺が世界中の人々に、もう一度セレスティア様を信仰するよう呼びかければ――」
「アイル」
はっきりと名前を呼ばれ、俺は抱きしめていた腕を緩め、セラの顔を見た。
彼女はいつもと変わらず美しかった。だが、その表情には見覚えがあった。魔王との最後の戦いを前にした時と同じ、前へ進むと決めた者の顔だった。
(……ああ。セラはもう、決めているんだな)
正直、女神の提案を聞いた時から、こうなる予感はしていた。
「だからって、どうして君が……!」
だが、分かっていても、受け入れることなどできなかった。
思わず声を荒らげてしまう。
ようやく戦いが終わった。
ようやく、セラと共に生きていけると思った。
つい寝る前まで、二人のこれからについて話していたのだ。
それなのに、なぜ俺たちが再び世界のために人生を差し出さなければならない。
「俺たちは、もう十分に戦ったじゃないか。魔王を倒して、世界を救った。これ以上、俺たちが背負う必要なんてない」
「はい。私も、そう思います」
予想していなかった言葉に、俺は息を呑んだ。
セラが俺の胸に飛び込んでくる。その身体は、小さく震えていた。
「私も、本当は女神にはなりたくありません」
その声は今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
「アイルと一生を共にしたいです。ネルフやロアリスと会って、平和になった世界をゆっくり旅したい。いつか子供ができたら、育っていくのを見届けていきたい。そんな普通の幸せを、私も望んでいます」
セラの指が、俺の服を強くつかむ。
俺は何も言えなかった。
セラだって俺と同じように、これからの人生を楽しみにしていたのだ。
それなのに、彼女は自分の望みを諦めようとしている。
「だったら――」
「ですが、知ってしまったのです」
セラは俺の言葉を遮った。
「私が断れば、この世界が滅んでしまいます」
「それは君の責任じゃない」
「そうかもしれません。けれど、私に救えるかもしれない人たちがいると知りながら見過ごすことはできません」
その言葉に、俺は何も返せなくなった。
セラは昔からそういう女性だった。身分や立場に関係なく、苦しんでいる者がいれば手を差し伸べる。自分が傷つくと分かっていても、誰かを見捨てることはできない。その優しさに、俺は惹かれた。そして今は、その優しさが彼女を過酷な運命へ進ませようとしている。
俺は、そんな彼女を止めたいと思った。
けれど、もしここで俺がセラを説得し、世界を見捨てさせたとしたら。果たして、彼女は幸せになれるのだろうか。
きっと、そうはならない。
セラは救えたはずの人々のことを、いつまでも気にかけ続けるだろう。たとえ俺と共に暮らしていても、その罪悪感に苦しめられることになる。
だからこそ、俺は何も言えなかった。
セラを守りたい。
それなのに、彼女の気持ちを尊重することと、彼女を過酷な使命から守ることが、どうしても両立しないのだ。
俺はただ、腕の中にいるセラを強く抱きしめることしかできなかった。
その日、俺たちはネルフとロアリスにも女神と使徒の話を打ち明けた。
「何だ、そのふざけた話は」
「ちょっとセラ。そんなもの絶対に引き受けちゃ駄目よ」
二人は当然セラを思いとどまらせようとした。
しかし、セラの覚悟を決めた表情とその隣にいる俺の顔を見て、すぐに察したようだった。自分がどのような表情をしていたのかは分からない。だがきっと酷い表情だったのだろう。
「俺は使徒になる」
「アイル?!」
セラが驚きの声を上げる。
「当然だ。セラだけに、こんな使命を背負わせるつもりはない」
「ですが、アイルまで引き受ける必要はありません。アイルはネルフとロアリスがいるこの世界で暮らしてください。使徒には別の方を選んでいただくことも――」
「駄目だ」
俺はセラの言葉を遮った。
「君が女神になるのに、俺だけ何も背負わず、穏やかに暮らしていけると思うのか?」
「それは……」
「それに、俺たちはこれからもずっと一緒だと約束しただろ」
そう口にしながら、胸の奥が締めつけられる。使徒になれば、俺は地球へ戻らなければならない。
セレスティア様の話によれば、女神と使徒が会えるのはこの世界の時間で百年に一度。地球の時間に換算すれば、五年に一度だけらしい。二つの世界では時間の流れが大きく異なり、百年に一度のある日にだけ時間が重なる。そのわずかな間に限って、女神と使徒は同じ場所で会うことができるらしい。
同じ使命を背負うことはできても同じ場所で生きることはできない。
それでも、セラだけにこの苦しみを背負わせるよりはよかった。
「離れ離れになったとしても、君が背負うものを俺も一緒に背負いたい。俺はそのために使徒になる」
「……アイル」
セラは悲しげに目を伏せた。
「……二人とも、本気なんだな」
ネルフが低い声で尋ねる。
「あぁ」
「……はい」
俺とセラが答えると、ネルフは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……馬鹿野郎どもが」
その言葉には、いつものような荒々しさがなかった。
俺たちが何も言えずにいると、今度はロアリスが口を開いた。
「アタシは…認めないわよ」
彼女はうつむいたまま、拳を強く握りしめていた。
その声はかすかに震えている。
「なんで、アンタたちばっかり……!」
顔を上げた彼女の目には、涙が浮かんでいた。
ネルフもロアリスも、俺たちにとって大切な仲間だ。
共に死線をくぐり抜け、苦しい時には支え合ってきた。
だからそんな二人を悲しませたくはなかった。
だが、俺たちがどんな決断を下そうとも、誰かが傷つくことになる。
その現実が、何よりもつらかった。
決意を固めたその日の夜、俺たちはまた夢を見た。
「セレスティア様…」
俺とセラはまたしても辺り一面が真っ白の果てしない空間にいた。
「お二人とも…。大変、申し訳ございません」
セレスティア様は深く頭を下げた。
「セラの優しさにつけ込み、このような過酷な役目を引き受けていただく形になってしまいました。とても女神と呼べるような行いでは無いと重々承知しております」
「……俺は、納得していません」
率直にそう告げた。セレスティア様は顔を上げ、黙って俺の言葉を待っていた。
「でも、セラが決めたのなら俺はそれを尊重します。そして、そんなセラを俺は永遠に支えて見せます」
隣に立つセラの手を握る。
セラもまた、俺の手を強く握り返してくれた。
「……あなたは、本当に勇者なのですね」
セレスティア様は、まぶしいものを見るように目を細めた。
だが、俺は別に褒められたいわけではない。
勇者だからでも、世界を救うためでもない。
ただ、愛する女性の力になりたい。
それだけだった。
「ですが、一つ条件があります」
俺がそう続けると、セレスティア様は表情を引き締めた。
「セレスティア様が本当に限界を迎えるその時まで、俺たちを引き離さないでください」
「アイル……?」
セラが驚いたように俺を見る。
だが、俺はセレスティア様から目を逸らさなかった。
「俺たちはまだやり残したことが多くあります。――俺たちに、自由に生きる猶予を下さい」
セレスティア様は、俺から目をそらさなかった。
「本当の限界が訪れるその時まで、女神として耐えてください」
セレスティア様は、すぐには答えなかった。
静まり返った白い空間に、長い沈黙が流れる。
彼女は目を閉じ、自らの胸元へ手を当てた。
これまで二千年もの間、女神として使命を果たしてきた人だ。限界が近づいていることも、俺たちには想像もできないほどの苦しみを抱えていることも分かっている。
それでも、俺は願わずにはいられなかった。セラと共に生きる時間が、少しでも長く続くように。
やがて、セレスティア様がゆっくりと目を開いた。
「……分かりました。その願い、女神として聞き届けましょう。……十年です。十年の間、あなた方が夫婦として共に生きる時間をお約束します。その間は、私と使徒が使命を果たしてみせましょう」




