第5話 願い
「……私が、女神に?」
セラが目を見開いた。
突然の提案に、彼女は戸惑いを隠せない様子だった。
「お断りします」
俺は、考えるよりも先に声を上げていた。
先ほどまでの話を聞いて、そんなことを受け入れられるはずがない。
女神という立場がどれほど過酷なものなのかは理解した。永遠に人々の祈りへ応え続け、見知らぬ誰かを危険な世界へ送り込まなければならない苦しみには同情する。だが、だからといってセラがその重荷を背負う必要はない。
「セラは、これから俺と共に生きていくんです。ようやく戦いが終わって、二人で穏やかに暮らせるようになった。それなのに、今度は女神の使命を背負えなんて……たとえセレスティア様の頼みであっても、受け入れられません」
結婚したばかりだというのに、その幸せを手放せというのか。
そんなの冗談じゃない。
俺はセラを守るように、再び半歩前へ出た。
セレスティア様は俺の拒絶に腹を立てる様子もなく、静かに聞き続ける。
「当然の反応だと思います。私も、お二人が今日という日をどれほど待ち望んでいたのか知っていますから」
「なら、なぜ――!」
「アイル」
セラの穏やかな声が、俺の言葉を遮った。
振り返ると、セラは穏やかな笑みを浮かべながら俺の服の袖をつかんでいた。
「私のために怒ってくださっているのは分かります。とてもうれしいです」
「だったら――」
「ですが、まずはセレスティア様のお話を最後まで聞きましょう。きっと何か事情があるのですよね?」
セラは俺の隣へ並ぶと、セレスティア様をまっすぐに見つめた。
「……その通りです」
セレスティア様は申し訳なさそうにしていた。
俺は納得できなかった。
事情があるからといって、セラが犠牲になっていい理由にはならない。
「……分かった」
そう答えながらも、俺はセラの手を強く握った。
セラも俺の気持ちに応えるように、そっと握り返してくれる。
「教えてください、セレスティア様。なぜ、女神の役目を私に引き継がせようと考えたのですか?」
セレスティア様はしばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「私の神性が、失われ始めているからです」
「神性が、失われている……?」
セラは理解ができずに聞き返す。
「私と使徒も、かつてはあなた方と同じように、勇者パーティーとして世界のために戦いました」
セレスティア様は、遠い昔を思い返すように目を細めた。
「今から二千年前、私たちも仲間たちと共に魔王を討ち倒し、先代から女神と使徒の役目を引き継ぎました。それから二千年――地球の時間に換算すれば百年になります。その間、私は救いを求める祈りを受け取り、彼は地球から勇者を送り続けてきました」
「では、長く役目を続けたことで力が失われているのですか?」
「いいえ。女神や使徒の力に、決められた寿命があるわけではありません。信仰が保たれている限り、私たちはこの先も役目を続けることができます」
セレスティア様は静かに首を横へ振った。
そして、少しためらうように言葉を続けた。
「私の神性が失われ始めた原因は、あなた方にあるのです」
「俺たちが……?」
思いがけない言葉に、俺は眉をひそめた。
「誤解しないでください。お二人が意図して私から力を奪ったわけではないことは分かっています」
セレスティア様は、俺たちを落ち着かせるように続けた。
「今回の魔王は、かつてないほど強大な力を持っていました。その存在は世界中の人々を恐怖に陥れ、これまでにないほど多くの祈りを生み出したのです」
その言葉に、旅の中で目にしてきた光景が脳裏によみがえる。
魔王軍に襲われ、焼け落ちた町。
家族を失い、泣きながら助けを求める人々。
旅の中で目にしてきた光景が、脳裏によみがえる。
「ですが、歴代最強と呼ぶべき存在は魔王だけではありませんでした」
セレスティア様は、俺とセラを見つめた。
「あなた方もまた、歴代の勇者たちとは異なる歩み方をしました。目の前で苦しむ人々を決して見捨てず、救いの手を差し伸べながら旅を続けたのです。その姿を見た人々は、遠くから見守る私ではなく、自分たちを直接救ってくれたあなた方へ祈るようになりました。そして、ついには魔王を討ち倒し、その信仰をより確かなものにしたのです」
「……祈りの対象が俺たちに向いたということですか」
俺の言葉に、セレスティア様は静かに頷いた。
「はい。特にセラ、聖女であるあなたには特に祈りが集まり始めています。それと同時に、私の神性は失われつつあります」
「ですが、私は女神様になろうなどとは……」
「分かっています。これは、あなたが望んで起こしたことではありません。信仰は、人々の心から生まれるものです。誰を信じ、誰に祈りを捧げるのか。それを、女神である私にも強制することはできないのです」
セレスティア様はそう告げた後、ためらうように目を伏せた。
セラは何も言えずにいた。
俺も同じだった。
世界を救うために戦った結果、女神の力が失われ始めている。
そんなことになるなど、考えもしなかった。
「それに、理由はこれだけではありません。正直に言って、私と私の使徒——アルも、もう限界なのです」
「神性の話ではなく、ですか?」
「はい」
セレスティア様は小さく頷いた。
「勇者を送り出さなければ、一つの世界で大勢の人々が命を落とします。しかし、その世界を救うために、何の関係もない人の人生を犠牲にしてよいのでしょうか」
彼女はそこで言葉を切った。
「私は、何度もそう考えてきました」
セレスティア様の声には、深い苦悩がにじんでいた。
「勇者として召喚された者にも、それぞれの人生があります。家族がいて、友人がいて、大切にしているものがある。それを突然奪い、命の危険がある世界へ送り出すのです」
突然異世界へ召喚され、世界を救うように言われたあの日。
俺は、確かに戸惑い、反発した。
だが、それでも俺は幸運だったのだろう。この世界で大切な仲間と出会い、セラと結ばれ、こうして生きている。
しかし、すべての勇者がそうとは限らない。異世界へ召喚されたことを最後まで恨みながら、命を落とした者だっているのかもしれない。
「……それでも、私は祈りを無視することができませんでした」
セレスティア様は静かに続ける。
「一つの世界を救うために、別の世界の誰かを犠牲にする。その選択が正しいのか、私には今でも分かりません」
その表情には、深い疲労が浮かんでいた。
「ですが…私の苦労はマシな方です。本当に苦しんでいるのはアルなのです。彼は勇者をこちらに送り届け、帰還してきた勇者を目にします。中には帰ることが叶わなかったものも大勢います。帰ってこなかった者が戦いの中で命を落としたのか、それともこちらの世界に残ることを選んだのか。彼にはその事実すら知ることができません」
送り出した者が帰ってこない。
それでも使徒は何が起きたのか分からないまま次の勇者候補を探し、再び門を開かなければならないのだ。
そんな生活を百年も続けてきたというのなら、その苦しみは想像を絶するものだろう。
「正直に申し上げれば、私はもう、この使命から解放されたいと思ってしまっているのです」
その表情には、深い罪悪感が浮かんでいた。
「申し訳ありません。同情を誘いたかったわけではないのです」
その言葉は、俺たちに向けられたものというより、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「私たちが望むのは、あなた方にとって幸せな未来ではないでしょう。ようやく戦いを終え、夫婦として歩み始めたお二人に、再び重い使命を背負わせようとしているのですから」
セレスティア様は俺たちをまっすぐに見つめた。
「ただ、知っておいてほしかったのです。この使命がどれほど過酷なものなのか。そして、なぜ私たちが後継者を求めているのか」
彼女は一度、深く息を吸った。
「そのすべてを知ったうえで、どうか世界のために力を貸していただきたいのです」
そう言って、セレスティア様は深く頭を下げた。
俺たちは、何も言えなかった。
かつて俺を異世界へ召喚し、勇者としての力を授けてくれた女神。
その彼女が、今は俺たちに頭を下げている。
世界を救ってほしいと。
自分たちの使命を引き継いでほしいと。
……だが、それは俺たちがようやく手に入れた幸せを、差し出してほしいということでもあった。




