霜領侯爵の無言の依頼
翌朝の書簡庁は、王都の春祭り準備で浮き立っていた。
外門の先では花売りの荷車が並び、桃色のリボンを掛けた招待状が束になって運び込まれてくる。だが北方文書の照合室だけは、昨日の請願書が置かれたまま、冬の底に沈んでいるように冷えていた。
「読めたものは、見えた順に。推測を混ぜないこと」
サビーネは保護手袋をミリアへ渡した。
「はい」
ミリアはうなずき、仮登録票の端を押さえる。封蝋の欠けた請願書は、夜を越してもまだ細かな霜を帯びていた。余白の声は薄くなっている。それでも、春を返して、という最後の一言だけが胸に残っていた。
扉の外で足音が止まった。
案内役の書記が名乗る前に、室内の空気が一段低くなる。入ってきた男は黒い外套をまとい、肩に溶けかけの雪を乗せていた。王都の陽気には似つかわしくない冷気と、銀の狼を抱く樅の徽章。
「レオナール・フォルクレア侯爵閣下です」
サビーネが礼を取る。ミリアも慌てて頭を下げた。
侯爵は若かった。けれど若さより先に、口数の少なさが目立つ人だった。彼は挨拶の言葉を探すでもなく、卓上の請願書へ視線を落とし、それから一通の薄い書類袋を差し出した。
「照合を」
それだけだった。
案内役の書記が困ったように笑う。
「閣下、まずは来庁のご用件を記録に」
「北方請願書について」
「それは来訪届にもございましたが」
「なら、足りる」
低い声は怒っているようにも聞こえた。だがミリアには、言葉を切り詰めなければ崩れてしまう人の沈黙に見えた。
サビーネは余計な確認を挟まず、書類袋を受け取った。中から出てきたのは、季節契約の写しだった。王都と霜領のあいだで、春気、夏陽、秋実、冬守の配分を定めた古い契約。端には季節管理局の青い確認印がある。
ちょうどその時、ヴァルター上席書記が照合室へ入ってきた。
「ロシュ記録官。侯爵閣下への回答は局から準備されている。北方の遅雪は契約上の調整範囲内だ」
レオナールはヴァルターを見なかった。
「調整範囲なら、村の井戸まで凍らない」
「気象の揺らぎをすべて王都の責にされても困ります」
「責任を問う前に、読め」
侯爵の指が、契約書の中ほどを示した。そこには、王都が春気を一時預かる場合の条件が整然と記されている。文字は欠けていない。印も正しい。少なくとも普通の目には、何もおかしなところはなかった。
「アルトレンさん」
サビーネが短く呼ぶ。
ミリアは息を整え、契約書の余白へ指を近づけた。触れる直前、紙が小さく震えた気がした。昨日の請願書のような叫びではない。もっと古く、重く、インクの底で息を殺していた沈黙だった。
行間に、白い筋が走る。
そこには一行分の空白があった。文字は消えているのではなく、最初から存在しなかったように均されている。けれど筆圧だけが、薄氷の下に閉じ込められていた。
「……春分後七日を越えて霜領の雪解けなき時、王都は預かりし春気を遅滞なく返送すること」
読み上げた瞬間、室内から音が消えた。
ヴァルターが鼻で笑う。
「そのような条文はありません。余白係の幻視で国家契約を増やされては困る」
「増やしていません」
ミリアの声は震えたが、引かなかった。
「削られた行を読んでいます。前後の文の癖が不自然です。ここだけ、文末の間隔が詰められている。消したあと、契約文を寄せて整えたのだと思います」
「思います、では記録にならない」
「では、見えたものを記録します」
ミリアはサビーネの教えを思い出し、一語ずつ続けた。
「消された行の末尾に、霜領侯爵家当主へ返送通知を発する、という控えがあります。通知の宛先は季節管理局ではありません。フォルクレア侯爵家です」
初めて、レオナールがミリアを正面から見た。
氷のような灰青の目だった。けれどそこにあったのは疑いではなく、長く凍った扉がようやく軋んだ時の痛みに似ていた。
「私の父は、その通知を待ったまま死んだ」
短い言葉だった。
誰も返事をしない。ミリアは契約書の端を握りすぎないよう、指先を浮かせた。
レオナールは懐からもう一枚、封のない便箋を取り出した。本文はない。署名もない。ただ上質な紙の中央が、迷った筆先で一度だけ押されたようにかすかにへこんでいる。
「これは?」
「依頼書にするつもりだった」
「本文が、ありません」
「書けば、局に止められる」
だから無言で持ってきたのだと、ミリアは理解した。
便箋の余白に触れる。冷たい沈黙の奥から、低く抑えた声が滲んだ。
――北へ来てほしい。
――家門文庫の原契約を読んでほしい。
――領民の春を、証拠として取り戻したい。
声にしない依頼は、声にしたどの命令より重かった。
ミリアは顔を上げた。
「私でよろしければ、照合に立ち会います」
ヴァルターがすぐに口を挟む。
「外部領地の家門文庫に、王都の代筆官を派遣する規則はない」
「承知している」
レオナールは便箋を折り、ようやく少しだけ眉を動かした。
「だから、別の資格が要る」
サビーネが厳しい目で侯爵を見る。
「閣下。それは書簡庁の職員を巻き込む話ですか」
「彼女にしか読めないなら、彼女に頼むしかない」
その言い方は不器用で、飾り気がなかった。けれど、ミリアを余白係ではなく一人の代筆官として数えている響きがあった。
王都の窓の外では、春祭りの鐘が鳴りはじめる。
照合室の卓上だけが凍えるように静かだった。ミリアは消された一行の残る契約書と、本文のない依頼書を見比べる。
正しい宛先へ届ける。
昨日の誓いは、もう保管箱の中だけでは済まないところへ来ていた。




