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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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2/20

消えた春の請願書

 未分類の封筒は、昼休みの鐘が鳴っても北方棚の上に残っていた。

 勝手に読むつもりはない。けれど、紙から漏れた白い息のような沈黙が、ミリアの指先にまだまとわりついていた。

「気になるなら、正式に処理しましょう」

 背後からサビーネの声がした。彼女は鍵束だけを手にしている。

「よろしいのですか。未分類です」

「未分類だから確認するのです。封蝋が欠けている以上、配送中の破損記録も必要になります。あなたは代筆官として立ち会いなさい」

「はい」

 ミリアは北方棚の前へ戻った。

 サビーネが封筒を検め、帳簿に時刻と状態を書き込む。欠けた封蝋は、銀の狼を抱いた樅の枝。霜領フォルクレア侯爵家の紋章だった。だが差出人欄は、砂をこすりつけたようにぼやけている。

「配送魔法の焦げではありませんね」

 サビーネが眉を寄せる。

「消そうとした跡、でしょうか」

「断定は早い。本文を見ます」

 封を開くと、冷気が小部屋に流れた。紙そのものが、長く寒さの中に置かれていたように硬い。

 請願書の本文は丁寧で、拍子抜けするほど穏やかだった。

 霜領北部の村々では今季、雪解けが遅れております。例年の春市および種まきの儀について、王都より日程の再確認を賜りたく存じます。配送遅延により同趣旨の照会が重複しておりましたら、ご容赦ください。

 それだけなら、ただの照会だった。季節契約の写しを確認し、関係部署へ回せば済む。

 だがミリアの目は、本文の下にある不自然な余白で止まった。正式な請願書にしては、下半分が広すぎる。書きたかったものを、そこへ置けなかった空き方だった。

「アルトレンさん」

 サビーネが静かに促す。

 ミリアは手袋を外し、紙の端へ指を添えた。届くべき相手を探して、紙の沈黙に耳を澄ませる。

 白い霧が、余白から立ちのぼった。

 ――雪が腐らない。

 奇妙な言葉だった。けれど次の瞬間、意味が胸に刺さる。灰色に固まった雪が畑を塞ぎ、井戸の縁に氷が張り、春告げ鳥は一羽も来ない。本文の一行の下に、別の声が幾重にも押し込められていた。

 ――種をまけない。

 ――子どもの咳が止まらない。

 ――南の王都では花が咲いたと聞いた。

 ――こちらの春は、どこへ送られた。

 余白は普段、飲み込まれた感情を淡く映すだけだ。これほどはっきり、何人もの切迫を重ねて見せることは少ない。

「読めますか」

「本文より、ずっと強いです。これは日程確認ではありません。救援の要請です」

「本文にその語はありません」

「はい。だからこそ、削られています」

 言い切ってから、ミリアは自分の声の硬さに気づいた。サビーネは叱らず、請願書の余白を見下ろす。

「誰が削ったと?」

「それは、まだ」

 ミリアは紙を裏返した。裏面の配送印は、霜領の北端、中央駅、王都外門。あるはずの季節管理局の確認印だけが、押されたあとぬぐわれたように滲んでいる。

 余白の底から、短い声が浮かんだ。

 ――侯爵へ届かない。

「侯爵へ?」

 思わずつぶやくと、サビーネが顔を上げた。

「何か」

「この請願書は王都書簡庁宛です。でも余白は、フォルクレア侯爵へ届かない、と言っています。村々から侯爵家への手紙が止められているのかもしれません」

「また大きな話になりましたね」

 サビーネの声音は冷たく聞こえたが、目は紙から離れていなかった。

 その時、小部屋の扉が乱暴に開いた。

「ロシュ記録官、その未分類文書は季節管理局へ回付済みの扱いです」

 入ってきたのは、上席書記のヴァルターだった。ミリアには一瞥もくれない。

「王都の春祭り準備で照会が混んでいる。北方の遅雪程度なら、こちらで騒ぐ必要はない」

「破損封の確認中です。記録を終えるまで移管できません」

「規則を盾にして仕事を止めるな。余白係の感想で局を煩わせるつもりか」

 ミリアの肩が小さく縮む。だが、サビーネは帳簿を閉じなかった。

「感想ではありません。封蝋欠損、差出人欄の摩耗、確認印の不鮮明。三点とも記録対象です」

「君は相変わらず融通が利かないな」

「融通で消えた文書を、書簡庁は保管しません」

 ヴァルターは舌打ちを残して去っていく。扉が閉まると、ミリアはようやく息を吐いた。

「申し訳ありません。私が余白のことを」

「謝るところではありません」

 サビーネは請願書を保護紙で挟み、赤い仮登録票を付けた。

「ただし、読めたものを本文として扱うには、相応の手続きが要ります。あなたの魔法は便利な噂話ではない。責任を伴う証言です」

「……はい」

 責任。その言葉は、家で聞く命令よりずっと重かった。けれど、正しい宛先へ戻すための重さなら受け止めたいと思えた。

 サビーネは仮登録票に署名し、ミリアへ差し出した。

「明朝、北方文書の再照合をします。あなたも来なさい」

「私が、ですか」

「余白を読める代筆官は、庁内に何人もいません」

 それは褒め言葉というより、仕事の割り当てだった。だからこそ受け取れた。

「承りました」

 請願書を保管箱に戻す直前、余白がもう一度だけ白く曇った。

 ――春を返して。

 その声は誰か一人のものではなかった。北の村々から集まった、宛先を失った言葉だった。

 ミリアは保管箱の蓋に手を置いた。

「必ず、正しい場所へ届けます」

 小さな誓いに、紙の冷たさがほんの少し和らいだ気がした。

 その夜、書簡庁の外門に一通の来訪届が着いた。差出人は、霜領フォルクレア侯爵レオナール。

 用件欄にはただ一行、北方請願書について、と記されていた。

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