余白だけの代筆官
王都エルネストの朝は、鐘の音より先に紙の匂いで始まる。
書簡庁の東棟には、各領から届いた手紙、契約書、誓約書、季節契約の写しまでが積まれていた。封蝋を割る音、羽根ペンを洗う水音、配送魔法の小さな鈴の音。人の言葉が集まる場所なのに、そこでは沈黙のほうが重かった。
ミリア・アルトレンは、窓際のいちばん細い机に座り、白い便箋の端をそっと指でなぞった。
「また余白係か」
通りすがりの若い記録官が笑った。彼の袖口には、封印魔法の銀糸が光っている。
「文字を燃やすでも、封を守るでもない。紙の空いているところを眺めるだけなら、うちの末妹でもできる」
「末妹さまが代筆官の試験に通れば、席を譲ります」
ミリアは顔を上げずに答えた。声は小さかったが、ペン先はぶれなかった。
彼は鼻で笑って去っていく。反論を期待されたのではない。黙って傷つくところを見たかっただけだ。ミリアはそういう視線に慣れていた。男爵家の次女で、持っている魔法は余白を読むだけ。家では「嫁ぎ先に説明しにくい娘」と呼ばれ、職場では「空欄係」と呼ばれる。
けれど、紙の余白は空ではない。
書き手が飲み込んだ言葉。宛先を思って手を止めたためらい。礼儀の文句で覆い隠した怒りや、怒りの下に沈めた祈り。ミリアには、それらが薄い霧のように見えた。読めるのは形のない気配だけで、勝手に文章へ変えてはいけない。だから彼女はいつも、紙より先に人を見る。
「アルトレンさん」
受付の向こうから、灰色の外套を着た老婦人が呼ばれた。ミリアは立ち上がり、代筆用の小部屋へ案内する。
「娘へ、絶縁の手紙を書いてほしいのです」
老婦人は背筋を伸ばし、乾いた声で言った。
「あの子は仕立屋の跡を継がず、旅の楽士などと出ていきました。もう帰ってくるな、と」
「承りました。お名前と宛先を」
ミリアは言われたとおりに書き始める。『親子の縁をここに絶つ』という言葉が便箋に落ちた瞬間、右端の余白が淡く濡れた。水滴ではない。震えるような筆圧の残りが、ミリアの指先に触れる。
――寒くないか。
――針箱は持ったか。
――春祭りの青いリボンは、まだ好きか。
ミリアはペンを止めた。
「奥さま。これは本当に、帰ってくるな、とだけ伝える手紙でよろしいですか」
老婦人の眉が険しくなる。
「代筆官は、依頼人の言葉を書くのが仕事でしょう」
「はい。ですから、依頼人の言葉を間違えないように伺っています」
小部屋の外で、誰かがくすりと笑った。長引く面談は嫌われる。庁内では、早く美しく書ける者ほど評価される。余白に耳を澄ませる時間は、台帳に残らない。
老婦人は膝の上の手袋を握りしめた。
「……あの子は、寒がりでした」
「はい」
「旅芸人の宿など、薄い毛布しかないでしょう。けれど私から呼び戻せば、あの子は負けたと思う。私も、許したと言えない」
「では、こう書くのはいかがでしょう。『家業を捨てたことはまだ許していない。けれど針箱と冬外套は、あなたの部屋に置いてある。必要なら取りに来なさい』」
老婦人はすぐには答えなかった。やがて、深く息を吐く。
「……『青いリボンも』と」
「はい」
ミリアは新しい便箋を出した。今度の余白は白いままだった。空っぽなのではない。言うべきことが、本文へ移ったのだ。
署名を終えた老婦人は、戸口で振り返った。
「あなた、変な魔法ね」
「よく言われます」
「でも、助かりました」
その一言は小さかった。けれどミリアは、今日受け取るどの朱印よりも丁寧に胸へしまった。
小部屋を出ると、サビーネ・ロシュ記録官が帳簿を抱えて立っていた。銀縁の眼鏡の奥の目は厳しい。
「面談時間、規定の倍です」
「申し訳ありません」
「ただし、苦情にはならないでしょう。宛先も本文も正しくなりました」
サビーネはそれだけ言うと、老婦人の手紙に受付印を押した。公正な人だった。褒めるために規則を曲げることはないが、軽んじるために事実を削ることもない。
「昼休み前に、季節契約写しの整理を手伝ってください。北方棚の保管箱です」
「北方棚、ですか」
「霜領フォルクレア侯爵領のものが混じっています。近ごろ照会が多い」
霜領。王国の北端にある、冬の長い土地。季節契約によって春と秋を受け取るはずの領地だと、講義で習ったことがある。ミリアは頷き、古い保管箱の前へ向かった。
箱の中の書類は乾いていた。けれど一枚だけ、手袋越しにも冷たかった。正式な請願書ではない。配送中に端が擦れ、封蝋の紋も半分欠けている。表にはただ、王都書簡庁宛、とだけある。
「それは未分類です。まだ開けないで」
サビーネの声が飛ぶ。
「はい」
ミリアは手を離した。だが、便箋の余白から、ほんの一瞬だけ白い息のようなものが漏れた。
――春が、来ない。
文字ではない。誰の声とも知れない沈黙だった。
窓の外では、王都の街路樹が若葉を揺らしている。陽射しはあたたかく、花売りの籠には早咲きの薔薇が満ちていた。
それなのにミリアの指先には、北から届いた紙の冷たさだけが残っていた。




