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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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一季限りの仮婚約

「別の資格」と言われて、最初に声を荒げたのはヴァルター上席書記だった。

「侯爵閣下。まさか、当庁の職員を私用の名目で領地へ連れ出すおつもりですか」

「私用ではない。家門文庫の閲覧資格だ」

 レオナールは卓上の契約写しから目を離さない。無口な人の言葉は少ない分、逃げ道を持たなかった。

「フォルクレアの原契約は、当主と家族、または当主が家に迎えると誓った者しか扉に触れられない。外部の書記を入れれば封印が閉じる」

 サビーネがすぐにミリアの前へ半歩出た。

「つまり、アルトレンさんに婚約者を名乗らせると?」

 その言葉が室内に落ちた瞬間、ミリアの指先まで熱くなった。婚約。家で何度も、父が都合のよい縁談の値札のように口にした言葉。けれど今、レオナールの灰青の目には値踏みの色がなかった。

「一季限りでいい。北の春分帳が開くまでの仮の契約にする」

「婚約を契約書のように扱う方へ、職員を渡すわけにはいきません」

 サビーネの声は鋭い。ミリアは胸の奥で、守られていると知った。同時に、昨日請願書の余白から聞いた声が蘇る。春を返して。あの叫びは、上席書記の承認印を待ってはくれない。

 レオナールはミリアへ向き直り、深く頭を下げた。侯爵が代筆官に向ける礼としては、あまりに低かった。

「利用する形になる。だから断っていい。断っても、あなたが読んだ消された一行は私が守る」

 ミリアはその言葉の余白を見た。紙ではない、人の沈黙にも読み取れる癖がある。そこにあったのは、都合のよい約束ではなく、断られる覚悟だった。

「条件を、書面にしてください」

 自分の声が思ったより落ち着いていた。

「アルトレンさん」

 サビーネが呼ぶ。

「まだ承諾ではありません。代筆官として、宛先と本文を確かめたいだけです」

 ミリアはまっすぐレオナールを見た。

「期間は一季。目的はフォルクレア家門文庫にある季節契約原本の照合。私の身分と職務記録は書簡庁に残すこと。北領で得た証言は、私の筆名で記録できること。婚約の解消は、原本照合後、私の意思でも行えること」

 言いながら、手が震えていることに気づいた。けれど止めなかった。誰かに決められる前に、自分の条件を文章にする。そんな単純なことが、これほど怖いとは思わなかった。

 レオナールは一つずつうなずいた。

「加える。滞在中の安全と報酬は侯爵家が負う。あなたの家から異議が出ても、本人の署名を優先する」

 ヴァルターが唇を歪めた。

「男爵家の令嬢が侯爵家の仮婚約者とは、王都の噂好きが喜びますな。余白係には過ぎた舞台でしょう」

 ミリアの肩が小さく跳ねる。だがレオナールの声が、低く遮った。

「彼女の役目を余白係と呼ぶなら、あなた方はその余白に隠された国家契約を見落としたことになる」

 照合室が静まり返った。

 サビーネは短く息を吐き、記録用の青紙を取り出した。

「では、私が立会人になります。これは恋文ではなく、閲覧資格と派遣保護を兼ねた期限付き誓約書です。情に流された一文は削ります」

「助かる」

「礼は、彼女を無事に帰してから聞きます」

 ペン先が青紙に触れる。サビーネの筆は速く、正確だった。レオナールが述べ、ミリアが言葉を足し、余計な曖昧さはその場で線を引かれた。婚約者という甘い響きは、条項に分けられると驚くほど実務的になる。

 それでも、署名欄に並んだ二つの名を見たとき、ミリアの胸は不意に鳴った。

 ミリア・アルトレン。

 レオナール・フォルクレア。

 これまで自分の名は、家の指示書か庁内の末席表にだけ小さく置かれていた。いまは違う。北の春を取り戻すための書面に、本人の意思として置かれている。

「最後に確認します」

 サビーネがペンを置いた。

「アルトレンさん。これは命令ではありません。あなたが望まないなら、私がここで破棄します」

 ミリアは青紙の余白へ指を滑らせた。そこにはまだ、誰の本音も染みていない。空白のまま、彼女の返事を待っている。

 怖くないわけではなかった。北領は遠い。家に知られれば父は怒る。王都の局が黙っているとも思えない。

 けれど、消された一行を読んだ自分が、その先を読まずに閉じることはできなかった。

「望みます」

 ミリアはペンを取った。

「私は代筆官として、正しい宛先までこの依頼を届けます」

 署名を終えると、窓の外で春祭りの鐘が二度鳴った。王都の空は明るいのに、卓上の青紙には北の冷気が薄く降りている。

 レオナールはその紙を両手で受け取り、ミリアへ向けて言った。

「フォルクレア領まで、道中の駅舎を三つ越える。雪が深い」

「手紙が届かない道ですね」

「ああ。だから、見てほしい」

 彼の言葉はまた短かった。けれど今度は、依頼書の余白を読まなくても意味がわかった。

 ミリアは自分の署名をもう一度見下ろす。

 一季限りの仮婚約。仮の名で結ばれたその書面は、彼女が初めて、自分の宛先を自分で選んだ証でもあった。

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