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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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16/20

氷橋を渡る声

 夜明け前、北の峡谷は青い硝子の底に沈んでいた。

 両岸をつなぐ氷橋は、川が幾晩も息をひそめて作った細い道だった。厚く見える場所ほど内側に水を抱き、白く曇った場所ほど古い。猟師たちは松明を消し、靴底に布を巻いて、足音を殺している。

 ミリアは渡橋台帳を胸に抱えたまま、氷橋の入口に立った。

 台帳の余白には、過去にここを渡った者たちの注意が薄く残っている。急ぐな。並ぶな。荷を揺らすな。その中で、何度も書きかけて消された一文があった。

「音を、切らさないで」

 読み上げると、案内役の老猟師が頷いた。

「昔の渡り方だ。黙って渡ると、ひびの音を聞き逃す。一定の声を出していれば、氷が返す響きで薄い場所がわかる」

 レオナールは油紙に包まれた筒を外套の内側へ収めた。初代契約の原本、配送停止状の控え、そして公開筆記の証人簿。王室季節監査へ届けば、王都の検査印だけでは封じられない証拠になる。

「私が持つ」

 当然のように言った彼に、ミリアは一歩近づいた。

「領主だからですか」

「領主だからでもある。だが、これはフォルクレア家が王都へ預けた春の原本だ。戻す責任は、私が負う」

 止めたい言葉が喉まで上がった。危険だから。あなたに何かあれば。そんな言葉は、彼を責任から遠ざけるだけだとわかっていた。

 だからミリアは台帳を開いた。

「では、私は渡橋記録を取ります。足を置く場所、氷の音、あなたの声。ひとつも欠かしません」

 レオナールの表情がわずかにほどける。

「君の記録なら、戻る目印になる」


 最初の十歩は、老猟師が先導した。

 彼は低く数を唱え、氷に杖を置く。こん、こん、という乾いた音が峡谷へ沈み、少し遅れて、下から細い返事が戻ってきた。

 レオナールが続く。長身をかがめ、筒を守るように片手を胸に添えている。ミリアは岸で羽根ペンを握り、声を張った。

「一歩目、白濁なし。二歩目、右に古いひび。三歩目、音は高い」

 彼は振り返らない。ただ、彼女の声に合わせて歩く。

 氷橋の半ばで、峡谷の奥から風が吹いた。雪煙が薄い布のように走り、足元の境目を消す。老猟師が身を伏せ、杖で左を示した。

 その瞬間、レオナールの足元で低い音が鳴った。

 みしり、ではない。もっと深い、紙を内側から裂くような音だった。

 ミリアの指先が凍る。台帳の余白がざわめいた。過去の誰かが書けなかった恐怖が、白い頁いっぱいに広がる。

「侯爵様、止まらないでください」

 自分の声が震えたことに気づき、ミリアは唇を噛んだ。止まれば重みが一点に沈む。急げば氷が割れる。声だけは、まっすぐ届けなければならない。

「レオナール様。私の声の間だけ、同じ速さで」

 初めて名で呼ぶと、彼の肩がわずかに動いた。

「聞こえている」

 短い返事だった。けれど、その声は氷の上を渡って、ミリアの胸に確かに届いた。

「四歩。五歩。右へ半足。そこで息を吐いて」

 彼は従った。領主の命令ではなく、彼女の読みを信じて。氷の下で水が鳴り、白い亀裂が靴先を追う。ミリアは台帳に線を引き、余白に残る古い声と、目の前の彼の足音を重ねた。

「七歩。八歩。あと三歩で青い氷です。そこからは固い」

 老猟師が先に青い帯へたどり着き、振り返る。レオナールも最後の一歩を置いた。乾いた高音が返る。

 対岸から、安堵の息が上がった。

 ミリアはそこで初めて、自分が息を止めていたと知った。


 原本は、対岸の監査役へ引き渡された。王室季節監査の銀印が受領札に押されるまで、レオナールは筒から手を離さなかったという。

 帰りは荷を持たず、彼だけが老猟師と戻ってきた。朝の光が峡谷へ差し込み始め、氷橋はもう薄く水を含んでいる。

「戻りは危険です」

 ミリアが言うと、彼は対岸でほんの少し口元を上げた。

「君が記録した道だ」

 それだけで、彼はまた歩き出した。

 今度はミリアの声だけではなかった。岸に集まった領民たちが、彼女の数に合わせて低く唱和する。一歩、二歩。右へ半足。息を吐いて。誰かの声が途切れそうになると、別の誰かが継いだ。

 止められたはずの便。封じられたはずの手紙。王都の印では消せなかった声が、氷橋の上で一本の道になっていく。

 レオナールがこちらの岸へ着いたとき、ミリアは台帳を抱えたまま駆け寄った。貴族の礼も、仮婚約者としての距離も、そのときだけは思い出せなかった。

「無事で、よかった」

 それ以上の言葉は出なかった。

 レオナールは濡れた手袋を外し、冷えた指でミリアの手を包んだ。

「君の声があったから戻れた」

「私だけではありません。皆さんの声です」

「それでも、最初に私を呼んだのは君だ」

 レオナールの灰色の瞳には、雪明かりではない熱が宿っていた。ミリアは胸の奥がほどけていくのを感じた。これは契約を守れた安堵だけではない。領主を信じた記録官の誇りだけでもない。

 この人に生きて戻ってほしかった。

 この人の声を、これからもいちばん近くで聞きたいと思った。

 そう気づいた途端、頬が朝の寒さとは違う熱を持った。

「レオナール様」

「ミリア」

 彼は、いつものように多くを語らなかった。ただ彼女の名を、白い息に乗せて丁寧に置いた。その一語が、どんな誓約文よりもまっすぐ胸へ届く。

 氷橋の向こうで、監査役の鐘が三度鳴った。原本受領の合図だった。領民たちから歓声が上がり、峡谷の雪を震わせる。


 昼過ぎ、フォルクレア城へ受領札が届いた。

 銀印は本物で、原本の到着は確かに記されていた。これで再調印の場は開かれる。奪われた春を、正式に北へ戻す道ができたのだ。

 けれどミリアは、受領札の余白に指を置いたまま眉をひそめた。

 余白が、白すぎる。

 喜びも、急ぎも、監査役の安堵も、そこにはほとんど残っていなかった。まるで誰かが、次に書かれるはずの言葉まで先に拭い取ろうとしているようだった。

 レオナールが隣に立つ。

「何を読んだ」

「まだ、はっきりとは。ただ……原本を届けたことで、相手も最後の手段を選ぶかもしれません」

 彼は受領札を見下ろし、ミリアの手をそっと支えた。

「ならば、次も共に読む」

「はい。今度は、白くされた余白まで」

 窓の外では、雪解け祭の灯がまだ消えずに残っていた。氷橋を渡った声は、もう一枚の紙へ、次の春へと届こうとしている。

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