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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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17/20

白紙に戻された契約

 王都へ戻る馬車の窓から、ミリアは薄い雲の向こうを見上げていた。

 北から運ばれた初代契約の原本は、王室季節監査の封印庫に納められた。再調印の場は三日後、王立書庫の大契約室と決まった。そこには王都側、北領側、書簡庁、監査院の代表が集まり、古い季節配分を正式に戻す。

 言葉にすれば、それだけの手続きだった。

 けれどミリアは、受領札の白すぎる余白を忘れられなかった。氷橋の上で読んだ恐怖よりも、もっと冷たいもの。誰かがまだ書かれていない未来まで、あらかじめ消そうとしている感触だ。

「眠れなかったのか」

 向かいの席で、レオナールが低く尋ねた。外套の袖口には、氷橋で濡れた跡がまだ淡く残っている。

「少しだけです。書類が白くなる夢を見ました」

「夢で終わらせたいな」

「はい」

 そう答えながらも、ミリアは膝の上の写し帳を抱きしめた。証拠の原本は監査院にある。領民の証言も、配送停止状も、公開筆記の記録もある。すべての宛先は、ようやくひとつの契約室へ向かっていた。

 だからこそ、最後に狙われるのはそこだ。


 再調印の日、大契約室には春を呼ぶための青銀の燭台が並べられていた。

 中央の長卓には、初代契約の原本、改められた季節配分書、各領の署名簿が置かれている。窓の外では、王都の庭木が不自然なほど早く芽吹いていた。北で奪われた春が、ここに偏っている証だった。

 ミリアは北領側の証人席に座り、羽根ペンを整えた。隣にはレオナールがいる。彼はいつも通り口数が少ないが、その沈黙はもう拒絶ではない。必要な言葉を、必要な時まで守っている沈黙だと、ミリアにはわかる。

 反対側の席に、ユーリス・ヴァルトが現れた。

 季節管理局長の礼装は乱れひとつなく、手袋の白さだけが妙に目立った。彼はミリアに視線を向け、うっすらと笑う。

「余白読みの令嬢。今日であなたの役目も終わりですね」

「終わらせるために来ました。正しい形で」

「正しい、ですか。紙に残ったものを信じすぎると、紙が沈黙した時に困りますよ」

 その言葉に、ミリアの指が止まった。

 監査官が銀の槌を鳴らし、再調印の手順を読み上げる。まず初代契約の確認。次に改ざん箇所の抹消宣言。最後に、新しい配分書へ王都と北領が署名する。

 監査官が封印を解いた。

 原本の羊皮紙が、長卓の上で静かに広げられる。初代侯爵の署名、王都大書記の印、季節の流れを示す古い文言。ミリアには、その余白に重なる多くの手の震えまで読めた。

 失うな。分け合え。北の種を眠らせるな。

 胸の奥が熱くなる。

「原本、確認」

 監査官が告げた瞬間だった。

 天井に吊るされた契約灯が、ひとつずつ白く弾けた。


 音はなかった。

 ただ、部屋中の紙から色が抜けた。

 原本の文字が薄れ、署名簿の名がほどけ、配送記録の写しが雪をかぶったように白くなる。インクが乾く前に戻ったのではない。書かれた事実そのものが、紙の奥へ押し込まれていく。

「封鎖を!」

 レオナールが立ち上がる。兵が扉へ走ったが、錠前の封印線まで白く消えていた。

 書記官たちが悲鳴を上げ、監査官が原本を押さえる。ミリアも卓へ身を乗り出した。余白を読もうと指を置いた途端、冷たい力が爪先まで駆け上がる。

 何もない。

 いいえ、何もないように見せている。

「白紙還し……」

 年配の監査官が青ざめて呟いた。

「廃止されたはずの契約魔法です。文言を白紙へ戻し、記録の継承を断つ。王家の許可なく使えるものではない」

「王家の許可など不要です」

 ユーリスの声だけが、異様に澄んで響いた。

 彼は席を立たず、白い手袋をはめた指で自分の前の配分書を撫でている。その紙だけは、すでに完全な白紙だった。

「証拠があるから罪が生まれる。ならば証拠を、契約前の無垢な姿へ戻せばよい。北領の春が消えたという話も、誰かの読み違いにすぎなくなる」

「領民の畑も、凍った温室も、読み違いではありません」

 ミリアは声を張った。

 ユーリスは笑みを深くする。

「畑は紙ではない。だが国は紙で動く。紙が沈黙すれば、春の行き先を訴える者はいなくなる」

 レオナールの手が剣帯へ動きかけ、すぐに止まった。ここで彼が力に訴えれば、北領は反逆の口実を与えられる。ミリアにもそれがわかった。

 彼は剣ではなく、長卓の縁に手を置いた。

「ミリア」

 呼ばれた名前が、消えかけた部屋の中で確かな線になる。

「読めるか」

 ミリアは原本に手を伸ばした。文字はもう見えない。初代侯爵の署名も、王都大書記の印も、白い霧の下へ沈んでいる。けれど紙は、完全には死んでいなかった。

 白紙の奥で、押し殺された息のようなものが震えている。

 誰かが書いた言葉を消したのではない。消される直前、紙そのものが必死に言葉を抱え込んだのだ。

「今すぐには、全部は無理です」

 正直に言うと、ユーリスの目が満足げに細まった。

 だがミリアは続けた。

「ですが、白紙にも余白はあります」

 大契約室の空気が止まった。

 彼女は羽根ペンを取り、白く戻された原本の脇に新しい記録紙を置いた。震える手を、レオナールの手が下から支える。氷橋でそうしてくれた時と同じ、強く命じない支え方だった。

「監査官様、白紙化直後の公開筆記を求めます。今この場で、残った筆圧と沈黙を記録します」

「紙面に文字がない以上、証拠能力は……」

「証拠能力を決めるのは、白くした者ではありません」

 ミリアはユーリスを見た。

「宛先を失った言葉を、私は預かります」

 白紙の契約が、指先の下でかすかに脈打った。

 春を奪った最後の沈黙は、まだそこに残っていた。

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