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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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封蝋の下の二枚目

 青い封蝋は、春市の控え室の灯を受けて硬く光っていた。

 季節管理局の印章は、王都の貴族なら誰でも見慣れている。枝を広げる若木と、その根元を流れる四つの季節線。正しい手続きで閉じられた記録だと示すための印だった。

 けれどミリアには、その美しさが息苦しかった。封蝋の縁から、押し込められた紙の沈黙が細く漏れている。

「封を破れば、証拠能力を失うわ」

 サビーネが短く言った。

「だから読めるだけ読む。無理なら、王立書庫の開封官を呼ぶ」

「はい」

 ミリアは台帳に直接触れず、白い写し紙を一枚、その上に重ねた。余白読みは、文字を暴く魔法ではない。書かれなかったもの、消されたものが残す温度をすくい上げるだけだ。強く引けば、紙を傷つける。

 レオナールは机の向こうに立ったまま、声を出さなかった。ただ、彼の沈黙は前より冷たくない。待つと決めた人の静けさだった。

 ミリアは写し紙の四隅に代筆官用の留め符を置き、息を整える。

「三年前の春市返答記録。表の記載は、フォルクレア侯爵家より返答なし。封蝋の下に二枚目の紙片あり。これより、余白に残る筆圧を写します」

 自分の声が少し震えた。それでも言葉にしておく。誰かに切り取られないように、今ここで何をするのかを記録に残す。

 指先を写し紙へ近づけると、白い面に淡い灰色の線が浮いた。最初はただの擦れに見えた線が、やがて文字の影になる。

 王都分春苗、北部駅舎へ転送要請。

 ミリアは息を止めた。

 表の台帳にあった「王都分の配分を拒否」とは違う。拒んだのではない。北へ送れと求めたのだ。

「続けて」

 サビーネの声は硬い。

 灰色の字は、ところどころ途切れながらも並んでいく。

 侯爵代理レオナール・フォルクレア、雪害対応のため春市欠席。従前契約に基づき、春苗、春雨瓶、雪解け封紙の遅延理由を照会。

 レオナールの指が、わずかに握られた。

「私が書いた返事と同じ内容だ」

「では、駅舎で聞き取られた発言ではなく、正式な要請として受理されていたのね」

 サビーネが封蝋の縁を横から見た。

「それを隠すために二枚目を貼り、上から別記録を綴じた」

 ミリアはさらに深く余白へ耳を澄ませた。紙の奥で、別の筆跡が重なる。整いすぎた、感情のない事務文字。余白には、ためらいがなかった。

 北部配分を王都春市装飾へ暫定移管。侯爵家抗議は不敬発言として処理。局長確認済。

 写し紙の上に、その最後の五文字が浮かんだ瞬間、部屋の空気が変わった。

 局長確認済。

 ユーリス・ヴァルトの名はまだない。けれど三年前、季節管理局長の席にいたのは彼だけだ。

「名が出るか」

 レオナールが低く問う。

「探します」

 ミリアは返事をしながら、自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。怒りではない。怒りだけなら、きっと指先が乱れる。これは、届け先を見失った言葉を迎えに行く熱だった。

 二枚目の右下。封蝋に最も近い場所に、不自然な空白がある。そこは署名欄だったはずなのに、表の紙で完全に覆われていた。

 ミリアは留め符を一つ増やした。サビーネが即座に控えの紙へ時刻を書き込む。

「無理をしないで。そこは印章の圧が強い」

「はい。でも、ここだけ沈黙の重さが違います」

 写し紙が小さく鳴った。紙が鳴るはずはないのに、ミリアには確かに、凍った薄氷が割れる音に聞こえた。

 灰色の点が集まり、署名の影を作る。

 ユーリス・ヴァルト。

 名が現れた。

 レオナールは何も言わなかった。けれど彼の肩から、三年分の氷が一片だけ落ちたように見えた。

 サビーネはすぐに証拠袋を開き、写し紙を滑り込ませる。

「これはまだ写しよ。原本の開封には王立書庫の立会いがいる。でも、公開筆記を請求するだけの根拠にはなる」

「公開筆記」

 ミリアはその言葉を繰り返した。

 書簡庁で最も厳しい手続きだ。貴族も平民も傍聴できる場で、文書の来歴を読み上げ、改ざんの有無を検める。代筆官が嘘をつけば職を失う。相手が高官なら、職だけでは済まないかもしれない。

 それでも、ここで退けば、二枚目の紙はまた封蝋の下で眠らされる。

「私が読みます」

 ミリアの声は、今度は震えなかった。

 レオナールが彼女を見る。

「君に危険が及ぶ」

「言葉を預かる仕事です。危険のない場所でだけ正しい宛先を選ぶなら、代筆官はいりません」

 言い切ってから、少しだけ頬が熱くなった。けれど撤回はしなかった。

 その時、扉の外で靴音が止まった。封印符がかすかに震える。

「書簡庁臨時控え室に確認通達」

 外の声は、季節管理局の伝令官のものだった。

「三年前の春市関連台帳は、局長命により即時返還されたし」

 サビーネが無言でミリアを見た。早い。こちらが読んだことを、もう嗅ぎつけたのだ。

 レオナールは扉へ向き直り、今度は沈黙しなかった。

「フォルクレア侯爵名で返答する。台帳は、王立書庫立会いのもとで返還する」

「局長命です」

「季節契約に関わる証拠は、侯爵領主にも保全請求権がある」

 短い言葉だった。だが切り取る余地のない言葉だった。

 ミリアは証拠袋を胸に抱き、写し紙の中の署名を見た。

 封蝋の下に隠されていた二枚目は、もう沈黙ではない。

 正しい宛先へ向かうため、紙はようやく息をし始めていた。

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