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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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11/20

侯爵が出さなかった返事

 春市の喧騒を離れても、王都の花の匂いは衣に染みていた。

 書簡庁が春市のために借りている控え室は、広場の裏手の石造りの小館にあった。窓の外ではまだ楽団が明るい曲を奏でている。けれど机の上に並べられた認証紙は、どれも冬のように硬い顔をしていた。

 サビーネは扉に封印符を貼ると、最後の控えを中央へ置いた。

「三年前の春市招待状への返答記録。管理局の台帳では、侯爵家はこれを黙殺したことになっているわ」

 羊皮紙には、フォルクレア侯爵家より返答なし、と整った字で記されている。余白は不自然に広く、何かを待っているようだった。

 レオナールはしばらく黙っていた。ミリアは急かさず、彼の手が机の縁をつかむのを見ていた。

「三年前、父が倒れた」

 低い声が落ちた。

「先代侯爵は雪崩の視察から戻って、肺を悪くした。春市の招待状が届いた時、私はまだ代理だった。王都へ出るより先に、北の駅舎で止まっていた春苗を通す必要があった」

「では、返事は出せなかったのですね」

「違う。書いた」

 レオナールは懐から古い封筒を取り出した。何度も開きかけて、結局開かなかったものらしく、角が少し擦れている。封蝋は押されていない。宛名だけが、季節管理局長ユーリス・ヴァルト殿、と鋭い筆跡で書かれていた。

「出さなかった返事だ」

 ミリアは両手で受け取った。中には一枚の便箋がある。表の文面は、若い侯爵代理らしい硬さで整えられていた。

 春市への出席は叶わない。北領の雪害対応を優先する。配分済みの春苗、春雨瓶、雪解け封紙については、従前の契約どおり遅滞なく北部駅舎へ送られたい。

 拒絶ではない。辞退でもない。必要なものを必要な場所へ届けよ、という命令だった。

「なぜ、出されなかったのですか」

 問いかけたあとで、ミリアは少しだけ後悔した。彼の顔に、雪より深い疲れが浮かんだからだ。

「その朝、村から子どもが運ばれてきた。凍った温室で熱を出した。医師は、春雨瓶があれば持ち直すと言った。私は駅舎へ行き、管理局の係官に抗議した」

 そこでレオナールは言葉を切った。

「私は、怒っていた。王都の庭を飾る前に北へ送れ、と言った。係官は頷いた。だが翌日、王都へ送られた記録では、私は春市を侮辱し、王都分の配分を拒んだ侯爵代理になっていた」

 サビーネが眉を寄せる。

「発言記録を切り貼りされたのね」

「ああ。そして父はその週に亡くなった。葬儀と雪害で、訂正を求める時機を失った。私は、書いた返事を出せばさらに曲げられると思った。言葉を出すほど、北領に不利になると」

 だから黙るようになったのだと、ミリアは理解した。

 無口なのは冷たいからではない。誰かを傷つけたくないからでも、ただ不器用だからでもない。自分の言葉が切り取られ、領民の春を奪う口実にされた記憶が、彼の喉を凍らせていたのだ。

「そのお子さんは」

 レオナールの目が伏せられた。

「助からなかった。私は、王都に怒りをぶつけるより先に、正式な返事を出すべきだった。余白を残さず、記録官を立てて、誰にも曲げられない形で」

 控え室に、外の笑い声が遠く届いた。ミリアは封筒を机に戻さず、胸の前で持った。

「レオナール様」

 彼が顔を上げる。

「言葉は、出せば必ず奪われるものではありません。けれど、預ける相手を誤れば傷になります。代筆官は、そのためにいます」

「君は、私の失敗まで代筆するつもりか」

「失敗を飾ることはしません。けれど、何が起きたかを正しい宛先へ届けます」

 彼の指が、机の上でわずかに動いた。迷った末に、ミリアの持つ封筒へ触れる。

「私は今も、話すのが得意ではない」

「存じています」

「短い返事で誤解させる」

「長い沈黙でも誤解されます」

 サビーネが小さく咳をした。叱るためではなく、笑いを隠すための咳だった。

 レオナールの表情が、ほんの少しだけほどけた。

「では、君に頼みたい。三年前、私が出すべきだった返事を、今の証言として整えてほしい」

「はい」

 ミリアは便箋を開き、余白へ指先を近づけた。そこには、怒りだけでなく、必死に押し殺した願いが残っていた。

 北の子どもを、春に間に合わせたい。

 その一文を読んだ瞬間、胸の奥が熱くなる。彼が黙って守ろうとしたものは、侯爵家の体面ではなかった。名誉でも、意地でもない。ただ、間に合わなかった小さな命と、まだ間に合わせたい無数の暮らしだった。

 ミリアは新しい証言紙を引き寄せた。

「まず、春市への不参加は拒絶ではないと明記します。次に、配送優先の要請。最後に、駅舎での発言記録が改ざんされた可能性」

「可能性では弱いわ」

 サビーネが三年前の控えを指で押さえた。

「この台帳、封蝋の下に紙の段差がある。表の記録とは別に、二枚目が貼り込まれているかもしれない」

 ミリアは息をのんだ。青い封蝋は、季節管理局の印をきれいに見せている。だが余白の端に、もう一つの沈黙が薄く重なっていた。

 そこに、切り取られた彼の言葉が眠っている。

「解けますか」

 レオナールが尋ねた。

 ミリアは首を振らなかった。

「封蝋を壊さずに読む方法を探します。証拠は、正しく開かれなければなりません」

 彼は静かに頷いた。

「待つ。今度は、黙って逃げるためではなく」

 ミリアは証言紙の一行目に、丁寧に日付を書いた。王都の春がどれほど眩しくても、この部屋で始まったのは飾りの季節ではない。

 凍った言葉を、正しい宛先へ送り直すための春だった。

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