春市の招待状
王都の春は、北領の人々が忘れかけている色で満ちていた。
馬車の窓から見える並木には若葉が光り、広場へ近づくほど花売りの声と焼き菓子の甘い匂いが濃くなる。門柱には金の文字で春市開催と掲げられ、招待客の馬車が列を作っていた。
ミリアは膝の上でサビーネから届いた招待状を押さえた。上質な紙の余白には、表の華やかな文面と違う、硬い筆圧が残っている。
正面から入りなさい。春市の台帳は、公衆の前でしか守れない。
隣に座るレオナールは、窓の外を見ていた。春の光を浴びても、彼の横顔は雪雲の下にいるように静かだった。
「痛みますか」
「ああ」
短い返事だった。けれどミリアには、何に対する痛みか分かった。北領の畑にはまだ霜が残り、温室の子どもたちは凍った土を相手にしている。その一方で、王都は春を飾りとして使っている。
「見ないふりをするより、見たほうがいいです」
「君がそう言うなら」
「私も、目をそらしたくありません」
馬車が門前で止まった。
招待状を差し出すと、係官はミリアの名を見て一瞬だけ目を上げた。青い粉を含んだ封蝋棒が腰の箱に収められている。季節管理局の者だ。
「フォルクレア侯爵閣下、および仮婚約者ミリア・アルトレン様。どうぞ」
仮婚約者、という呼び名に周囲の視線が集まる。破談状の噂は、王都の春風より早く届いているらしかった。
広場の中央では貴族たちが杯を掲げ、春苗の見本や香草の束を品定めしていた。笑い声の合間に、北領、破談、余白読み、という言葉が小さく弾ける。
ミリアが足を止めかけた時、レオナールが言った。
「腕を取るか」
「必要なら取ります。でも、隠れるためには取りません」
「分かった」
彼はそれ以上、前に出なかった。ただ、彼女が歩き出す速度に合わせた。
書簡庁の臨時筆記台は、花飾りの陰に置かれていた。そこに立っていたサビーネは、いつもと同じ黒い記録官服で、周囲の浮かれた装いから少し浮いている。
「遅くはないわね」
「招待状、ありがとうございます」
「礼は後。春市では、季節便の配分台帳と出店許可札が半日だけ公開される。貴族の宴だと思われているけれど、本来は各領が自分の春を確認する日よ」
サビーネは声を落とし、花籠の形をした小さな札を一枚渡した。
「今年の見本札。表は王都向け。でも余白と紙癖は、あなたにしか読めない」
ミリアは札を両手で受け取った。香草の絵の脇に、薄く削られた跡がある。指先を近づけると、消された宛先が息をひそめるように浮かんだ。
フォルクレア北部、雪解け用春苗、二百束。
その上から、王都南園追加分、と濃い文字で書き替えられていた。
「これと同じ札が、ほかにもありますか」
「あるはずよ。ただし、管理局が見張っている。読んだものはその場で私が筆記認証する。持ち出しはしない」
ミリアは頷いた。
最初の店は苗木商だった。丸顔の商人はレオナールを見るなり、帽子を胸に当てた。
「侯爵閣下。二年前までは、こちらの若芽を北へ送っておりました」
「以後、届いていない」
「ええ。侯爵家から春苗の受領を辞退するとの返答が来たと、管理局から」
レオナールの眉がかすかに動いた。
「私は辞退していない」
商人は青ざめ、慌てて卓上の公開台帳を開いた。そこには確かに、北領分返送、侯爵家返答なし、配分を王都へ一時移管、と記されている。
ミリアは台帳の余白を読む。文字の横に残る沈黙は、空白ではなかった。
返答あり。駅舎止め。再配送不可の印を押せ。
さらにその奥に、青い修補印の冷たいざらつきがある。
「返答なしではありません」
ミリアははっきり言った。
「北領からの返答は、駅舎で止められています。そして返答がないことにするため、配送記録が修補されています」
サビーネがすぐに筆を走らせた。記録官の認証印が押される音は、春市の笑い声より鋭く響いた。
「アルトレン代筆官」
背後から、滑らかな声がした。
振り向くと、季節管理局の若い係官が立っていた。腰の箱には、青い封粉が収められている。
「春市は祝いの場です。個人的な家門問題を持ち込まれては困ります」
「公示台帳を確認しています」
「余白読みは、誤解を招きやすい」
「誤解を避けるために、記録官が同席しています」
ミリアの声は、自分でも不思議なほど落ち着いていた。父の破談状に返事を書いた時、怖さは消えなかった。けれど、怖いままでも言葉は出せると知った。
係官はレオナールへ視線を移した。
「侯爵閣下も、仮婚約者の名誉を守るなら、ここは穏便に」
「彼女は私の名誉の飾りではない」
レオナールが静かに言った。
「北領の証人だ。止めるなら、台帳公開の規則を読み上げてもらう」
係官は唇を結び、周囲の目を気にして退いた。貴族たちのざわめきが広がる。だがそのざわめきの中で、数人の地方領主が自分の招待札を見直し始めた。
次の店でも、同じ削除痕が見つかった。香草束、春雨の瓶、雪解け促進の封紙。北へ送られるはずだったものが、王都の庭や宴席へ回されている。
サビーネの認証紙は、十枚を超えた。
日が傾き、広場の花飾りが赤く染まるころ、サビーネは最後に一通の古い返礼控えを出した。
「三年前の春市招待への返答記録よ。これが、北領の優先順位を落とす口実に使われている」
控えには、フォルクレア侯爵家より返答なし、とある。
ミリアが余白を読もうとした瞬間、レオナールの息が止まった。
「その年か」
彼の声は、これまで聞いたどの言葉より低かった。
「ご存じなのですか」
「出さなかった返事がある」
レオナールは控えを見つめたまま、拳を握った。
「だが、それは春市を拒むための返事ではない」
ミリアは、それ以上を急かさなかった。春市で集めた証拠は重い。けれど今、彼の沈黙の奥にも、誰かに消された行があるのだと分かった。
王都の春風が花びらを散らす。
その美しさが、ミリアには少しも軽く見えなかった。




