王都から来た破談状
王都へ照合請求を送って三日目の朝、北の館に赤い封筒が届いた。
それは季節便ではなく、貴族家の私信を運ぶ早馬便だった。雪に濡れた使者は広間の入口で震えながら、ミリアの名を呼んだ。
「アルトレン男爵家より、ミリア・アルトレン様へ」
差し出された封筒には、父の印璽が押されていた。だが封蝋の縁に、見覚えのない青い粉が薄く混じっている。季節管理局の修補印で使われる、あの青だ。
レオナールが黙って一歩近づいた。
「ここで開ける必要はない」
「いいえ」
ミリアは封筒を両手で受け取った。広間には家令と数人の使用人、朝の報告に来ていた温室番もいる。皆、露骨にこちらを見ないようにしながら、呼吸だけをひそめていた。
「私の名で届いたものです。私が読みます」
封を切ると、父の角ばった字が現れた。
ミリア・アルトレンは家長の許可なくフォルクレア侯爵と婚約を結び、家名を用いて不当な便宜を得た。よってアルトレン家は右の婚約を認めず、ただちに破談とする。本人は速やかに王都へ戻り、以後の身分と勤めについて家長の裁定を受けること。
紙面の言葉は冷えていた。けれど余白の底にある筆圧は、父のものだけではなかった。
この文を急がせた者がいる。父は怒っている。だが怒りの奥にあるのは、家名を傷つけられた痛みではない。王都で約束された何かを失うことへの焦りだ。
ミリアは下部の余白に指を近づけた。父が書き写したであろう一節の横で、別の筆が短く止まっている。
北領の照合請求を無効化せよ。証人を家の監督下へ戻せ。
彼女の胃が小さく縮んだ。
「ミリア」
レオナールの声が低く落ちる。
「無理に読まなくていい」
「読みました。読んだから、黙ってはいけません」
父に逆らうことは、子どものころから恐ろしかった。食卓で発言を許されない沈黙、姉の婚礼費に足りないと告げられたため息、書簡庁の薄給を家へ入れろという命令。どれも剣ではない。けれど、長く首にかけられた紐のように、ミリアの歩幅を決めてきた。
今も、その紐が引かれている。
破談状の余白は、彼女にこう命じていた。戻れ。黙れ。誰かの都合の宛先になれ。
ミリアは紙から手を離した。
「侯爵閣下、この仮婚約の誓約書は、家門文庫への立ち入りと調査協力のため、私と閣下が双方の署名で交わしたものです」
「そうだ」
「アルトレン家は立会人ではありません。私の保護者として名を書いた者もいません」
言いながら、自分の声が広間に届いていることを意識した。使用人たちの視線が、今度は隠れずに上がる。温室番の老女が、胸の前で手を握った。
「ならば、父が一方的に破談と記しても、契約上の効力はありません」
家令がわずかに息を呑む。レオナールは表情を変えなかったが、灰色の瞳だけが静かにミリアを見ていた。
「君はどうしたい」
問いは短い。命令ではない。心配を装った誘導でもない。
ミリアはその違いを、はっきりと感じた。
「戻りません」
声が震えなかったことに、自分で少し驚いた。
「私は書簡庁の代筆官として、北領の季節契約に削除痕を確認しました。照合請求の証人です。証人が王都へ戻るなら、父の屋敷ではなく、正式な公開照合の場へ戻ります」
使者が青ざめた。
「しかし、男爵閣下は、必ず本人を連れ帰るようにと」
「あなたの仕事は手紙を届けることです。人を運ぶことではありません」
ミリアは机へ向かった。震えが来る前に、ペンを取る。白い紙の一行目に、受領確認、と書いた。
アルトレン男爵家家長殿。
貴家より送付された破談状を、本日フォルクレア侯爵家広間にて受領しました。記載の婚約破棄について、当該仮婚約誓約はミリア・アルトレン本人およびレオナール・フォルクレア侯爵の合意により成立した調査上の契約であり、貴家は締結当事者ではありません。
よって、貴家単独の通告をもって本契約を終了することはできません。
続けて、彼女は少しだけ手を止めた。
父へ宛てた手紙に、自分の意思を書くのは初めてだった。いつもは求められた額、求められた謝罪、求められた沈黙を整えて送っていただけだ。
ミリアは息を吸い直す。
また私は、北領季節契約の照合請求に関する証人として、調査完了までフォルクレア侯爵領に留まります。以後、私の勤務および証言に関する連絡は、書簡庁の正式経路を通してください。
最後に署名する。
代筆官 ミリア・アルトレン。
男爵家の次女ではなく、誰かの従順な余白でもなく。
ペンを置いた瞬間、広間の空気が少し動いた。温室番が深く頭を下げ、家令もそれに続く。誰も声を上げない。けれど沈黙の質が、先ほどまでと違っていた。
レオナールが返書の隣に一枚の紙を置いた。
「フォルクレア侯爵家からも添える」
「庇ってくださるのですか」
「事実を記す。君は招かれた証人で、客人で、私の仮婚約者だ。連れ去られる理由はない」
仮婚約者、という言葉に胸が小さく跳ねた。契約のための呼び名だと知っている。それでも、そこに置かれた敬意は本物だった。
使者は二通の返書を受け取ると、逃げるように広間を出ていった。
扉が閉まったあと、ミリアの指先から力が抜けた。紙を読んでいる間は平気だったのに、今になって足元が頼りない。
レオナールがすぐそばに来たが、触れる前に止まった。
「座るか」
「少しだけ」
椅子に腰を下ろすと、胸の奥に遅れて痛みが広がった。父を拒んだ。家に戻らないと言った。その事実は、勝利というより、長く閉じていた扉を内側から押し開けたような重さだった。
「怖かったです」
「当然だ」
短い返事が、なぜか一番やさしかった。
ミリアは破談状をもう一度見た。青い封粉は、朝の光の中でかすかに光っている。
「この手紙、父だけでは書けません。季節管理局が動いています」
「照合請求が届いた証拠でもある」
「はい。向こうは、私を証人から外したい」
レオナールは頷いた。
「ならば次は、向こうが人前で黙らせに来る」
その時、家令が控えめに封筒を差し出した。
「侯爵閣下、同じ便でこちらも。王都春市の招待状です。差出人は、書簡庁記録官サビーネ・ロシュ様」
ミリアは顔を上げた。
春のない北の館に、王都の春市への招待状。
それは罠かもしれない。けれど、人前で黙らせに来るなら、人前で証明する道もある。
ミリアはまだ少し震える指で、破談状を丁寧に畳んだ。
「行きます」
レオナールが彼女を見る。
「王都へ?」
「はい。父に連れ戻されるためではありません」
余白に命じられるまま戻るのではない。自分の名で、自分の仕事を届けに行く。
「春を返してもらうために」
その言葉を聞いた広間の人々が、静かに頭を垂れた。
ミリアの署名が乾くころ、窓の外ではまだ雪が降っていた。けれど彼女の返書の余白には、もう戻れという声は残っていなかった。




