私の宛先は私が決める
季節管理局の伝令官が去ったあと、春市の控え室には封蝋の匂いだけが残った。
サビーネは証拠袋の封印符を三重に重ね、時刻と立会人の名を控えに記した。ミリアも署名を求められ、震えそうになる指を押さえて、自分の名を書いた。
ミリア・アルトレン。
その文字が紙に乗った瞬間、胸の奥が少し重くなった。これまで何度も他人の言葉を書いてきた名なのに、今日だけは、自分自身をどこかへ差し出したように感じた。
「公開筆記の請求書は、書簡庁本庁で受け付けるわ」
サビーネが淡々と言う。
「ただし、局長級の名が絡む。あなたへの聞き取りも避けられない」
「承知しています」
答えた途端、扉の向こうから別の靴音がした。
今度は伝令官ではなかった。控え室に入ってきたのは、書簡庁の副庁長と、父オスカー・アルトレンだった。
父の外套には春市の埃がついていた。慌てて来たのだと分かるのに、顔だけはいつものように厳しく整えている。
「ミリア」
名を呼ばれた瞬間、幼い頃から積もった小さな命令が、肩へ降ってくる気がした。
「すぐ帰るぞ。おまえはアルトレン家の娘だ。侯爵家の揉め事に、これ以上首を突っ込むな」
副庁長も、父の言葉を受けるように咳払いした。
「アルトレン代筆官。季節管理局より、あなたの余白読みには手続き上の疑義があると通達が来ている。公開筆記への出席は、当面見合わせるのが賢明だ」
「疑義とは、どの手続きでしょうか」
サビーネが即座に問うた。
副庁長は目をそらした。
「まだ精査中だ。だからこそ、本人は静かにしていた方がいい」
静かに。
その言葉は、ミリアがずっと聞かされてきたものだった。家では姉の縁談の邪魔をしないように。書簡庁では上役の判断を乱さないように。余白を読む力は便利なときだけ使い、都合が悪くなれば、何も見なかった顔をするように。
父は懐から折り畳んだ書面を出した。
「仮婚約の撤回願だ。おまえの署名だけでいい。北へ行ったことも、あれは家の判断ではなかったと説明できる」
白い紙の余白が、冷たく沈んでいた。
ミリアは思わず見てしまった。父の手で用意された文面の端に、書かれなかった本音が薄く滲む。
局長側との約束を崩すな。娘一人で家を危うくするな。
父の恐れは、たしかに恐れだった。けれどその恐れは、ミリアを守る形をしていなかった。家の名を守るため、彼女の声を折り畳もうとしているだけだった。
「父上」
ミリアは紙を受け取らなかった。
「私は署名しません」
「何を言っている」
「私は、フォルクレア侯爵家に雇われているのではありません。家に逆らうためでもありません。封蝋の下に隠された返答を読んだ代筆官として、公開筆記に出ます」
父の頬が赤くなった。
「おまえにそんな資格があると思っているのか」
「あります」
自分の声が部屋へまっすぐ伸びた。驚いたのは、たぶんミリア自身だった。
「私は書簡庁の代筆官です。誰かの言葉を正しい宛先へ届けるために任じられました。消された返答も、届かなかった請願も、北領の春を待つ声も、もう見なかったことにはしません」
副庁長が困ったように眉を寄せる。
「だが、君が証人になれば、アルトレン家も書簡庁も立場を問われる」
「問われるべきです」
サビーネの筆が止まった。
ミリアは深く息を吸った。怖くないわけではない。職を失うかもしれない。父に二度と家の敷居をまたぐなと言われるかもしれない。けれど、それを恐れて沈黙すれば、紙の余白に残った声はまた封じられる。
「私の沈黙を、誰かの都合のよい返事にしないでください」
レオナールが一歩、前へ出た。
「ミリア嬢をフォルクレアの名で縛るつもりはない。証言するかどうかは、彼女が決める」
その言葉に、胸の奥の重さがほどけた。
仮婚約者だから守られるのではない。侯爵の味方だから立つのでもない。ミリアが自分の足で、どの言葉を届けるか選ぶのだ。
ミリアは机上の請求書を引き寄せた。サビーネが新しい証人欄を開く。そこは空白で、まだ誰のものでもなかった。
「証人氏名」
サビーネが読み上げる。
ミリアはペンを取った。父が制するより早く、黒いインクで自分の名を書く。
ミリア・アルトレン。
今度の文字は、どこへも差し出されていない。自分で選んだ宛先へ向かうための署名だった。
「王立書庫への公開筆記を請求します」
ミリアは証拠袋を両手で持ち、封印の青い光を見つめた。
「北領側証人として、私が読みます」
父の息を呑む音がした。副庁長は返事を探している。けれどサビーネは、控えに一行を加えた。
代筆官ミリア・アルトレン、本人意思により証人となる。
その文字を見たとき、ミリアは初めて、自分の余白にも言葉が戻ってきたのだと思った。




