帰国後の変化
初めて目にした日のように、Ð国の地を足で踏みしめて顔を上げた瞬間、感無量になった。
帰って来た。
日本に帰国した時とは違う、この気持ち。
自分がひどく悪いことをして、何のお咎めもないまま自由の身になったような気分だった。
祖母は──おばあちゃんはこの地上から姿を消した。
そして私は日本という国を後にした人間だということで、さっさと感傷に浸れる内にÐ国に帰ってきている。
帰国の挨拶を姉の夫とはしたけれど、姉とはきちんと送り出されていない。荷物を引きながら溜息とも言えない息が吐いて出る。
「悲しい顔ばっかりしていると、似たようなことをおびき寄せるんだって」
「ハロー、ハニー、ハリー、ハルゥ。おかえりなさい」
「みて~ぼくのかんがえたさいきょうで、やさしくて……えっとぉ、すっごいきょうりゅうさん!!」
三人が三人とも同時に喋るもんだから笑いが込みあがってくる。
パトリツィオは自分の作品が一番すごくて興味をひかないのはおかしいというようにぐいぐいと見せつけてくる。
エイヴィリーは顔を見せるもんか、とスマホをいじりながら音楽プレイヤーから流れてくる音に浸っているふりをしていた。
「ただいま、グレイシー。パトリツィオ、この恐竜さんはお目目がすっごく優しそうだね。それにみんなを守る盾、かな?」
グレイシーは微笑みを見せて、パトリツィオの頭を撫でていた。私が見えないと思っているときにはエイヴィリーの方に視線を送っていた。
「うん。エイヴィのおもちゃ箱にあったいろえんぴつでかいた」
知らない家族の歴史があった。触れないようにしていたのかもしれない。私がグレイシーが微妙な顔をするからと家族の話をしなくなったように。
「エイヴィリーは絵を描くの? 見たいけど、ダメかな?」
グレイシーが話そうとしたけれど、目で何とか言わないでと伝える。
「……今、描いてないし」
「エイヴィね、みえないどうぶつさんやまちをかくのがうまいんだよ!」
パトリツィオは自分が褒められることをしたかのように、胸を張って言っていた。
エイヴィリーはといえば、弟の口を閉じさせられなかった悔しさに顔を少しだけ歪めていた。
彼女は彼女なりに抱えてしまった葛藤や周囲の言葉をもらって、それが根を張ってしまったのかもしれない。それを私は緩和することを目的にしてはいけない。祖母との約束したように、相席なりのよそよそしくない温かなものを目指せばいいのだ。
「幻想動物とか異世界の風景って、すごいね! パットのお姉ちゃんは」
いつかパトリツィオも私を毛嫌いする歳になるかもしれない。でも、できる会話で思い出つくりをしてもいいはずだ。
けらけらと嬉しそうに笑うパトリツィオを抱っこして、グレイシーの隣に歩く。
その隣──一歩後ろ、ぎりぎりの隣だったけれど──にはエイヴィリーが歩く。
「想像力を働かせたら? 物語も見知らぬ人たちの人生もいっぱい読んだんでしょ」
エイヴィリーは素っ気なく、毒をまぶして言ってくる。それを窘めるようにグレイシーが口を動かす前に、
「だからだよ。想像力があっても、描けない人もいる。見たままにしか、とか。あとは文字でしか働かせない人も、その逆もしかり」
キミコの顔が浮かぶ。彼女は勇気をくれる。
「だから? その逆って?」
興味を持ったことが恥ずかしいのか、それを知られたくないのかエイヴィリーはスマホをしまったり取り出したり、プレイヤーをいじったりしていた。プレイヤーの画面をグレイシーは見て、頷いて優しい笑みをみせた。
キミコをおおいに語る。「油でも飲んだんかいな」と祖母が笑って言いそうなくらいに。パトリツィオが飽きてこようが、グレイシーが何か言いたげな顔をしてようが。
ただ、たいせつな友だちを語った。
× × ×
帰ってきても生活は祖母が亡くなる前と同じようなものだった。ただ人への向かい方が変わった。
教養学校に行っても、同じようなものだった。
それでも、学校に行っているのは財閥にとって意味がある人間になろうともがいていた部分をすっぱりと切り離した。
向いていないのだから、大学に受けなくとも好きを突き詰めていけば良いのだと。
だから、一般生活教養程度クラスを修了させることに専念した。
「ミス・ムライ。ほんとうにそれで良いのですか? 今までの努力を放棄してしまうことになりますよ」
ミズ・ウィットランドはいつも厳しい顔つきをさせているように感じていたけれど、今日はどこか心配な顔を覗かせていた。
「はい。現在の仕事でもっと絞った専門的な知識に出会えたらまた、お世話になるかもしれませんが……今は「知りたい」「出会いたい」「再会」や「誰かに見せびらかしたい」の気持ちが強すぎて、全部は無理なんだと思います」
グレイシーと話し合った。
Ð国ではじめたブログやそれによって得たコラムの仕事などから出会えるものをもっと大切にしたいと。
あれもこれもと欲張りな私には、大学に行くことはもっと幅を広げるきっかけにはなるけれど、手いっぱいであるのだろうと。
日本で大学に行かなかった私には憧れていた大学。ただ、じっくりと熟成させて時が満ちてからでも遅くはない。
「そうですか。それも一つの選択肢、人生です。ドラマですね」
抑揚があまりないミズ・ウィットランドから「ドラマ」の部分だけに情熱あふれるイントネーションを聞いて、一瞬呆けてしまった。
「……ええ、そうですね。まだしばらくお世話になります」
そう声を掛けて、辞去する。一歩足を踏み出すために背を向けた時、
「“ヤクターティオ”、今回のブログ。大変面白かったです。物語の話はもちろん、良いお友だちに恵まれたんですね」
「はい! 彼女に出会えたから、グレイシーともÐ国とも巡り合えました」
はっきりと自信に満ち溢れて言える。そんな私にミズ・ウィットランドは慈愛の笑みを見せて、頷いた。すぐにいつもの顔に戻って、パソコンのモニタに向かってしまった。それでも私は嬉しかった。
「ハル! 送るぞ」
ニコラスが学校の門を出たところで待っていた。
「ニコラス、こんにちは」
帰国する前に、ごめんなさいをし合った。それでもこうして、ニコラスは謝罪の手土産と共に現れた。車内では他愛もない会話だったのが一転して、
「カトラリーもないのに、食え! 食え! って迫ったようなもんだし……きちんとしたくて」
ニコラスは少年のような顔で、ニコラス特有の言い方で付け加えた。
「私こそ、請えば良かったのにしなかったし……当事者が言うのはあれなんだろうけど、喧嘩両成敗にしよう?」
「ハハッ! ハルらしいや。ありがとう」
二人してチョコレートを頬張って、ただ時間の流れを贅沢に味わった。グレイシーやキミコもこんな無言の空間を味わえる。
まあ、キミコは無言を味わせない。意識せずに変顔をしてくるし。それでも私は恵まれている。
「──それにしても、すごい辞書ばっかだな」
「ああ、ちょっと翻訳してみようかなと。まだ、ニッポンの出版社で会議されている途中なんだけどね」
「は? まじ? 自分用ではなくて?」
「そう。きちんとÐ国で出版されるものを。メラニーと企画したんだ、昨日」
しかめ面、困り顔、悩む顔と盛大に変化させたあと、
「ハルの人生だもんな。グレイシーが付いてるし、いつだって俺にも頼れよ? 頼れることは少ないだろうけど」
勇気づけてくれる言葉をくれたニコラスと出会えて良かったと心底思った。
次話で最終話になります。
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