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「…なかなか来ませんね。」
「しかたないわ、お忙しい方だもの。」
待っている当人である私以上にソレルがそわそわしている状況に苦笑が溢れる。
そして兄妹は似ているもので、先ほどミリィもそわそわしすぎて紅茶をこぼし新しいものを作りに行っている。
あれから数日。
ソレルはその日中に父へと取次をしてくれたけど、さすが宰相様というくらい空いている時間がお食事の時しかなかった。
空き次第連絡すると言われたので、なかなか外に出る気も起きない。そんなこといいつつ、私はインドアなので自分から外へ出かけることはあまりないのだけど。
「それにしても、進みましたね。」
「うん、なんだか止まらなくなっちゃって。」
「どんな内容なんですか?」
「王子が臣下に降下していろんな人と恋する物語よ。」
「……それをセシル様が選ばれたと思うと少し変な感じがします。」
「…こら。」
あの日借りた物語はどんどん進みついに半分を読み終えることが出来た。それと同時に訳したものを記した紙は山となり、部屋の片隅に綺麗に纏められ束になって積まれている。
それを見るたびに達成感とともに早く読みたいという欲求が抑えられなくて、ここ最近はミリィに寝る前本を片付けられるようになったのだけど。
「ア、アリシア様〜…!お待たせいたしました…」
「ありがとう、ミリィ」
返事待ちの緊張で気疲れしたのかミリィがヘロヘロになって帰ってきた。そんなミリィにソレルがちょっかいをかけているけれど…。
私はそれを苦笑いで眺め、窓の外へと視線を走らせる。
窓の外は太陽が燦々と輝き緑のカーペットに光を与えている。そんな風にゆっくり時間をすごしていればドアがノックされお父様付きの執事がはいってくる。
「アリシア様、旦那様から伝言を預かってまいりました。」
「はいって。」
「失礼します。
旦那様のお時間が空きましたので書斎に来られるようにと仰られております。」
「!、分かりました。向かいます。」
とうとうきたこの時間。立ち上がるために肘置きを掴んだ手が震えているように感じる。私とお父様は殆ど時間をご一緒する事がなく、この間のセシル様のお屋敷に向かう時が久しぶりに食事のとき以外にあった時間だったもの。
緊張するのは仕方ないのかな、って前世では思わなかった感情に胸が軋む。
ソレルは書斎の前まではついてきてくれたけど、書斎に入ることはいくら私の護衛兼従者だとしても許されない。私が扉の前に立ち深呼吸をして入ろうとした時、横目に写ったソレルの顔は心配そうに眉尻を下げていた。それに反応することは今の私には出来なかったから、この部屋から出た時まで待ってもらおう。
「お父様、アリシアです。」
「はいれ」
「失礼します…。」
扉の前に立っていた護衛に扉を開けてもらい中に入る。この書斎は片手に収まる程度入った事があるけれど、いつでも心臓の音が外にも聞こえているんじゃないかと思うほど鐘を鳴らしている。
扉が閉まる音を背中で聞きつつお辞儀した態勢を元に戻せばそこには部屋の奥にある大きな机の前にお父様は座って書類を眺めていた。そして、その前のソファにはなんとお母様が優雅に紅茶を飲まれていた。
「お、お母様…」
「私も同席させてもらうわ。何か不都合でもあるかしら?」
「、いえ。」
お母様はちらりと私に視線を送り、そのままお母様の正面のソファに添わるように言われた。慌てて座りメイドに渡された紅茶で一息つく。
お父様にお話しした後にお母様の所に行こうと思っていたから不都合なんてないけれど、二人同時にお話しする心構えは私には持ち合わせていなかっただけ。
「それで、話とは何だ。」
「は、はい。あの、倭国研究をしたいと思いまして…」
「…倭国研究?唐突だな。それに、なぜ倭国のことを知りたいと思うのだ」
「…サクラが、セシル様のお屋敷にあるサクラの木をみて、王宮書庫で倭国の書籍を見て、その…知りたいと思ったのです。」
「まだ貴方には公爵家の娘としてこなさなければならない物が沢山あります。それを疎かにするつもりですか?」
「い、いえ…!勿論それらを疎かにするつもりはありません…!必ずお二人のご期待に添えるようより一層精進いたします…!」
「お前は器用な者ではないだろう、ギルジーク家の嫡男の婚約者としても行わなければならないこともある。…それでもやりたいのか。」
「っ、……はい、やらせてください。」
お父様とお母様の視線がブレることなく私には注がれる。何度も視線を逸らしそうになったけど、そうしてしまえばこの話は否として終わってしまうかもしれない。
あの日いただいた倭国の辞書と、初めて見たセシル様の笑顔を裏切ることなんて出来ない。私の気持ちを押し込めることなんてもう、できないから。
緊張して膝の上で組む手が震える。心臓が激しく鼓動する。
今の私には出来ないと言われてしまうかもしれない、でも。でもその時はまた何度もお願いしよう。もう諦めたくなんかないから…!!
「いいだろう、やってみればよい。」
「、え」
「だがやるからには最後までやり通せ。それが我が家のものでは当然のことだ。」
「淑女教育を疎かにしないのなら構わないわ、いいわねアリシア。」
「っはい!!」
パタンと扉が閉まる。この部屋に入ってきた時は顔を真っ白にして強張りを解けずにいたのに、この部屋から出て行く時は周りに花が咲いたかのように爛々としていた。
「あの子は本当に分かりやすいというか、素直というか…。」
「…あのままでは社交界でやっていけないだろうな。」
私達から溢れるため息は飲み込まれることなく空気を震わせた。
ちらりと視線を旦那様に向けると表情にこそ変化は見当たらないけれど、眉間にはいつもより少し高い山ができており、雰囲気も何処と無く呆れが滲み出ている。
多分私の顔にも呆れが出ているだろうことは鏡を見なくてもわかる。
「しかし、アリシアが倭国に興味を示すとはな…。」
「本当に。それにあの嫡男ともうまくいっているようですし、貴方の思うようにアリシアも成長するかもしれませんね。」
「…あそこはまだだろう」
「まあ、貴方が見つけた婚約者なのにご不満ですか?」
「あの嫡男があの者の跡を継ぐ力量がなければアリシアには即他の者を充てがう。」
「そんなことを仰って…、まだ先ほどのことを気になされているのですか?」
〜〜〜〜〜〜
「倭国研究をしたいといったがなにからするのだ」
「はい。まずは書物を読むことから始めようかと…。」
「それなら辞書など必要だろう。私の従者に言って手配をさせよう。」
「あ、いえ…、その、セシル様から頂きましたので…。」
「(ピクリ)…そうか、では他に必要なものを頼め。」
「は、はい…!ありがとうございます…!」
「…(気になされているわね)」
〜〜〜〜〜〜〜
「…なんのことだ。」
「…(じっ)」
「……、…(ふい)」
「まあいいです。それよりアリシアですわ。あのようなままでは公爵家の者として学園に入ることですら出来ません。もう少し自覚を持って貰わなければ…。」
「…そうだな。あれくらいのことで躓いていては公爵家としても考えなければなるまい。…しかし…」
「いかがなさいましたか?」
「いや、まああの者がなんとかするだろう。」
「…ああ、あの子ですか。そうですが…上手くいきますかしら。」
「なに、心配はいらないだろう。アレはただ拗れすぎているだけだ。」
「あ、アリシア様!いかがでしたか…?」
書斎から出てすぐに私を待っていたソレルが駆け寄ってくる。その顔は心配と不安、そして少しの期待を乗せていて。どこかで見たことのあるような表情に笑みが溢れる。
「、アリシア様?」
「ふふ、笑ってしまってごめんなさい。心配しないで、ソレル。お許しいただけたのよ。」
「!おめでとうございます!」
私が吹き出せば怪訝そうに顔を顰め、そして少し拗ねたように口を尖らせる。けど、私の言葉を聞けばその表情は一気に笑みに変わる。その様をみてまた笑った私にソレルは、ポカンとしたのち、しょうがないですね、と言うように眉を下げて微笑んでくれた。
部屋に帰ればミリィも同じく喜んでくれて、わたしは良い人に囲まれているなあ、なんて考えてしまうほど浮かれていた。そんな私の元に訪問者が現れた。
「?誰でしょうか。」
「なにも予定はなかった筈じゃなかった?」
「え、ええ。私の方でもその様に記憶しています。」
首を傾げたミリィが応対するために部屋から出て行く。
その背中を眺めながらソレルと話していると、バン!!!と先程閉まったはずのドアが強く開かれる。
そこには目を見開いて動揺しているミリィが立っていた。
「おい、ミリィ。ドアを
「アリシア様!!」
…話を最後まで聞け…。」
「ど、どうしたの?」
「あの、その…!!」
「うん?」
「シルヴィアお嬢様がいらっしゃるそうです…!!」
「「、え?」」
かちゃん、とソーサーが鳴る音がするほど、さっきまで賑わっていた部屋は静まっていた。
私の座るソファの前には紅茶を飲まれていて視線を落とされているお姉様。扉付近にはお姉様の従者とソレルが佇んでいて、ミリィとお姉様付きのメイドは御茶請けのお菓子を取りにこの部屋にはいない。
一体何故お姉様がここにこられたのか分からず混乱する私に応援するような視線が背中に感じる。
やめて、応援しないで。応援するくらいなら隣にいて欲しいわ…!
先にソーサーをテーブルに置かれたお姉様は一息ついた後視線を私に移された。
「…突然来て悪いわね」
「い、え…。あの、仰っていただければ私からお伺いいたしましたけれど…来て頂けて嬉しいです。」
「……そう。」
「…?」
どこかいつもより元気のなさそうなお姉様は先程から何度も紅茶を口に運ばれている。
「お元気がなさそうですが…、いいかがなさいましたか…?」
「別に、体調が悪いわけじゃないわ。貴女に話があって来たのよ。」
「、話…ですか?」
「…倭国のことを調べたいのですってね?」
「は、はい。ご存知で…?」
「貴女の婚約者は殿下のご友人よ、当然私の耳にも入って行くるわ。」
「あ、もうしわけ」
「それにしても、貴女まだ公爵家の令嬢としても全然なっていないのに新しいことを始めるなんて無謀なこと、よく出来るわね?慣れないことをしてもし倒れるようなことはしないでくれるかしら?」
「…、はい。勿論…。」
「…こほん。別に責めているわけではないのだから落ち込まないでくれるかしら。そんなんじゃあなた
「ごほんっ、…」
ま、まあそんなことより、これを貴女に渡そうと思って来たのよ。…ランド」
「は。」
お姉様の従者に手渡されたのは少しだけ使い込まれたような、しかし綺麗な書物数冊だった。
「あの、これは…?」
パラリと一番上に乗っていた物を捲ると見覚えのある、いえ。ここ最近よく目にする物だった。
「お姉様、これ…」
「貴女、その1巻を読んでいるのでしょう。私が昔読んだものがあったからそれを使いなさい。書き込むことはしてないのだから使えるはずよ。」
「あ、ありがとうございます…!」
「、それじゃあ行くわ。精々体調を崩して生活に支障をきたさないことね。…行くわよ、ランド。」
「はい。それではアリシアお嬢様、失礼いたします。」
パタンと閉まるドアに慌てて席を立ちその場で深く礼をする。
身体を起こした後、頂いた書物を眺めながら先ほどの出来事を思い出す。
「…今日は貰ってばっかりだわ…。」
溢れた言葉はどこかふわふわしていて、アリシアの心の感情をそのまま表していた。
アリシア視点は一旦終了で、次話はセシル視点です。どうぞもうしばらくお待ちください。
悠子