その曲の名は母の名は
「ヨシツネ公の失った記憶に心当たりが御座る」
その言葉は笛のあてがわれた下唇からだった
「それは何だ
是非聞いておきたい
そなたの洞察力この短い間ではあったが
このヨシツネ感服していたところだ」
「ヨシツネ公の一族 源氏と対立した一族並びにその頭領の名で御座る
答えられましょうか?」
「当たり前だ!
我が生涯をかけ戦って戦って戦い抜いて討ち破った相手であるぞ
ああ…その…
思い出せぬ!!
なんと言う事だ記憶を失うというのはこの様な事なのか?!
あの戦いよりどれだけの年月が過ぎたか分からぬ
しかし今の今迄一度も思い返した事が無い!」
「やはり!」
アキヨリは確信を得た
アキヨリは推理していた
「記憶を失った
分身に持って行かれたと言うならば
分身側にはそれがあると言う事だ
我等が対峙したヨシツネ公の分身にあったものはたった二つ
宿敵憎しともう一つは…」
アキヨリはそのもう一つを問う期を見定めようと
ヨシツネの動揺の収まるのを
その目を見据え待った
その期は直ぐ様訪れた
ヨシツネの眉間に表れた狼狽は
彼の精神力により長くはそこに留まれはしなかった
狼狽の去った眉間は弛緩し受け入れ難きを受け入れる隙間が現れていた
「アキヨリよ礼を言う
しかし忘れたならばもう要らぬとする
我が戦いはもう終わったのだ
これより先はそなたの戦いを支え補佐するが我が戦い
修羅に生きた我が心穏やかに永い年月過ごせたのはシズカが側にいてくれただけでは無かったのだな」
「ヨシツネ公…」
「知らせずとも良いと申した
左様ならば改めて…」
「お待ち下され
もう一つが肝心なので御座る!」
「もう一つ?!
それは何だ?!」
「言うなアキヨリよ!」
アキヨリを諌めたのはゴクラクサイ
「大王の苦しみ見たであろう
己が名前さえ忘れ
知らせられたところで直ぐに忘れてしまう苦しみだあ
ヨシツネ公にとって重要であればある程苦しみ深き事となるのだえ!!」
「ナガヨリよ気遣い無用!
我は逃げぬ!
大罪を犯した我は逃げられぬのだ
逃げればより深き苦しみに見舞われるのだ!
アキヨリよ申せ!」
「ならば申し上げる!
ヨシツネ公の母君の名で御座る!」
「!!!!」
狼狽などと表現するには生易しく
ヨシツネの精神の構成物が瓦解した
見開いた目が助けを求めているが如く訴える
「そんな馬鹿な!
思い出せぬ訳が無い!
あれ程まで我を慈しんでくれた母上の名を思い出せぬ訳が無い!
あああ!
思い出せぬ!
どのように接して下さったかも
どのような御姿であったのかも
どんな言葉を交わし合ったかも思い出せぬ!
馬鹿な馬鹿な馬鹿な!」
ヨシツネは必死に記憶の奥底まで潜りに潜り
必死に手を伸ばし遂に母に関する一つを掴んだ
それは雪の中 母に手を引かれた幼いヨシツネが見上げた母の優しい微笑みだった
しかし降る雪をかき分け母の微笑みに辿り着くと
そこには黒い空洞だけがあった
「うああああああああ!!
教えてくれ!
ナガヨリよアキヨリよ
後世にも我が母の名 伝えられておるなら教えてくれ!
直ぐに忘れてしまうとしても聞かずにはいられぬ!!」
「馬鹿もんがああああ!!」
ゴクラクサイがアキヨリの胸ぐらを掴み突き上げた
しかしアキヨリは微動だにしない
強い決意が歴戦の強者の叱責を跳ね除けたのだ
強い決意は胸に決めた行動を静かに力強く決行する
下唇に次ぎ上唇が笛にあてがわれると
笛はヨシツネの願いに答え始めた
「この曲は!
ああ…
ああああああ!!」
笛はアキヨリが初めて覚えた曲を奏で
笛の音にはアキヨリが初めてその曲を聞いた時の心情が籠められ
ヨシツネの胸に降る雪に響き渡った
それは母への慕情
「思い出したああああああ!
我が母を想い創ったこの曲の名は
我が母の名は
トキワゴゼン!!
母の名を忘れようと
この曲は指が魂が忘れはせぬ!
曲を思い出す度に母上の笑顔 温もりそしてその名を思い出せよう
アキヨリよ万謝いたす!!」
雪の中 微笑む母の眼差しがヨシツネを包んでいた




