15年前、塾長は言った…
あれは一二月一〇日頃のことだったと思う。一一月末の県下一斉テストで校内五位になった勢いで、塾の模擬試験もかなり上位に入るようになった。もちろん、塾講師たちもすごく驚いていて、
「お前みたいな奴がいると、塾のいい宣伝になる」
なんて言い出す講師もいたほどである。川口先生とKの一件で、一時期、塾生が減ったときもあったが、もともと成績が上がると評判の塾だったから、再び塾生が増えてきた。そして、今までの遅れを取り戻すべく一二月三一日まで塾を開くことも既に決まっていた。翌年も一月二日から塾であった。
この日、塾の授業が終わった後、突然、塾長に呼ばれた。何が何だかさっぱり分からずに塾長室へ向かう。すると、そこに母が座っていたので、危うく飛び上がりそうになるほど驚いた。
「さて、息子さんがいらしたようなので、本題に入りましょうか?」
塾長が落ち着いた口調で語り出したので、少なくても悪いことではないことがわかった。すでに飲みかけのコーヒーカップが置いてあり、母と塾長がここで何か話していたことが伝わってきた。母の表情もよかった。私はほっとした。
「あっ、福井君もそんな所に突っ立ってないでないで、こちらへ座りなさい」
「正志ったら、ほら、塾長さんが座るように勧めているんだから早く座りなさい」
二人の大人にせかされたので、私はあわてて安っぽいソファーに腰を下ろした。早速、塾長は話を進める。
「本来なら、これは異例中の異例なのですが、例の事件のせいで塾生が例年よりも減ってしまいました。そこで、福井君の過去の成績と福井君の顔写真を載せた広告を作ろうと言うことになりました。ご存知の通り、お宅の息子さんはもともと成績があまり良くなかったのですが、この四ヶ月にうーんと努力をされたので、今ではトップクラスの成績になりました。こんな生徒はそうめったにいません。今、この業界では息子さんの話で持ち切りですよ。もちろん、タダでとは言いません。そうですね…。一二月から三月までの月謝免除でどうですか?」
「正志、すごいじゃないの! 塾長さん、ぜひお願いします」
私はあまりにも突然のことに何と言っていいのか分からず、ただ黙ってうなずいていた。
「お母様はきっと喜んで下さると思っておりました。で、福井君、君はどう思う? 広告に載ることになってもいいかな? もちろん、君の八月から一二月までの成績と一緒にだけど…」
実を言うとこの提案に私はあまり乗り気ではなかった。もともと、人前で目立つようなことをするのは好きじゃないし、過去の悪い成績をさらけ出さないといけないのも嫌だった。しかし、今ここで「嫌だ」と言ったらどうなるか…。きっと自分の立場を悪くするだけだろうとすぐに分かった。逆にここでこの件を許可すれば、母は私の月謝が免除になって喜ぶし、塾長も私を使って塾の宣伝ができるので、やはり喜び。その結果、母といろいろあったものの、母の私に対する心情が少しはよくなるだろうし、塾長も今以上に私のことを目にかけてくれるだろう。つまり、間接的であるが、私もその恩恵を受けられる。
こんなことばかり考える自分は本当に嫌な奴だと思う。損得にばかりこだわって、損になったとしても、自分がやりたいことを選択することなんてなかったのではないか。その積み重ねの結果、私は周りの人から「要領のいい人間」とか「周りのことを考えられる人間」とか思われているようだ。だが、その代償として、私の心がまったく満たされずに空っぽで冷たくて、傷だらけだとは誰も知らない。それでも損得でしか物事を考えられない私は一体何? 誰だったか「最大多数の最大幸福」が一番だと言っていたけど、それは損得にばかりこだわって、心を置き去りにした人間ばかりの世の中のことを言うのではないか。
「で、正志、どうするの? あんたがいいって言わないとこの話はおじゃんになるのよ。あんた、ちょっと耳を貸しなさい」
ごにょごにょと小声で母は言った。「ここでこの話を受け入れてくれたら、お小遣いを上げてあげるから」と。私は九月の出来事を思い出して、また悲しみが深まった。母は三ヶ月前と同じ過ちを再びくり返した。
「分かりました。ここは奮発して、福井君が入塾したときからさかのぼって月謝免除しましょう。福井君、ここは一つ、お母様と私のためだと思って、この話を受け入れてくれないかな…」
「そうよ。正志、いつもお世話になっている塾長さんがここまでおっしゃって下さっているんだから、受け入れて上げなさい」
私がそんなことを望んでいないことを、どうして二人は分からないのだろうか。私が首を縦にふらない限り、二人はこんな話をずっと続けるつもりか? こんな悲しいことってないと思う。ここから抜け出す方法はもはや一つしかない。もう、割り切ってもらえる物は全て遠慮せずにもらえばいいのだ。それで全てが丸く収まるなら、それでいい…。それと引き換えにまた一つ何かを失うとしても、それでいい…。
「はい、分かりました。お願いします」
そうぶっきらぼうに言うのが精一杯だった。その一言を待っていましたと言わんばかりに二人は喜んでいた。こんなことのために勉強を頑張ったわけではないのに…。そう思うとやり切れない思いでいっぱいとなり、とても投げやりな気持ちとなった。この二人には、あのときの私の気持ちなんか一生分からないと思う。この時、死んでも拝金主義者にだけはならないように、と硬く誓った。




