磯野あおいの絵(3)
しばらく、沈黙が続いた。誰も安易に話すことができなかった。今、何か話をしたら、この安らかな世界が壊れてしまうのではないかと思うぐらい、彼女の絵は独自の世界を作り上げていた。
その絵を見る者を有無も言わせずに、無意識のうちに絵の世界に引きずり込まれるのだ。一度、その世界に入ったら、その心地よさに現実に戻って来るのが嫌になるほどだ。まるでこたつから出たがらない猫のように…。心地よく…。
「私が思うに、絵だけなら十分に△△高校に受かる力を持っていると思います。彼女の場合、五教科の方が厳しいので、まずはそっちの力をつけるべきだと考えています。絵は年が明けてから改めて受験用の練習すれば十分間に合いますよ」
土橋が田村先生の質問に答えるために沈黙を破った。そして、私たちは現実の世界へ引き戻された。すると、田村先生が土橋の言葉を引き取った。
「分かりました。では、土橋先生に絵のことはお任せします。私は五教科の方をどうにかしますね。そうは言っても五教科の方もそれぞれの先生にお任せするしかないのですけどね…。こんなとき、専門が体育だと何もできない…」
「そう言えば、福井さん、さっきから黙ったままですけど、何かあればおっしゃって下さい」
こんなときに限って、土橋はコメントを求めて来る。本人は気を利かせたつもりだろうが、余計なお世話である。
「いや、これだけ絵がうまいと、もう何も言えませんね。余計な言葉なんていらないって感じですよ」
絵の余韻を味わいたくて黙っていたのに…。皮肉を込めてコメントする。すると、田村先生が私の肩を叩いて、
「社会はよろしく頼みますよ」
とニコニコしながら言うのであった。その後、美術室に移って、しばらく三人で雑談をした後、土橋が美術室を閉めると言うので、この日はそこでお開きとなった。
帰り道、車の中でいろいろ考えた。土橋は磯辺が一年のときの担任であり、また二年半もの間、美術部の顧問として彼女の絵を指導してきた。
よく考えてみれば教員の中で、彼ほど、磯辺と長い時間じっくりと接している人は他にいないだろう。彼ならきっとうまく磯辺を立ち直させてくれるのではないか…と感じた。
それにしても磯野あおいはどうして私なんかを好きになったのだろうか? 一緒に過ごした時間で考えれば、土橋を好きになればよかったのに…。歳だって、土橋の方が近いではないか? 全く、恋愛と言うのは分からないことだらけである。




