第9話 八枚の届け
上りの坂は、凍っている。
三本松を発ってから、空は一度も曇っていない。霜の降りた轍に車輪が噛んで、馬の息が白くちぎれて後ろへ流れていく。リナは手綱を握ったまま、膝の上の帳面に何度も目を落とす。
出発の日。届けの日。承認の日。
昨夜から一つも変わっていない。変わらないと分かっていて、また見る。
「さっきから、同じページばっかり見てるな」
「同じページしか、ないので」
「ほかのページもあるだろ。豆の値段とか」
「豆の値段は、もう覚えました」
「馬が転んだら、そのページも泥だらけだぞ」
帳面を閉じて、膝の上で押さえる。表紙の革の下で、手のひらが汗ばんでいる。寒いのに。
柳橋で一泊して、翌日の夕方、灰色の石壁が見える。
門に着くのは、ちょうど夕方の交代の鐘が鳴るころだ。宿の物置から残りの豆とパンを出して、そのまま売り台を組む。
「豆、戻ったのか」
「8袋だけです。お一人二つまで」
8袋は、一刻もたない。三本松のパンと合わせて、パンも10包み出る。
列の最後に、ハンスが並んでいる。豆はもうない。ハンスは帽子を手の中で回しながら、売り台の前に立つ。
「嬢ちゃん。親方が昨日、馬で来たぞ」
「……ブルーノさんが」
「隊長と長いこと話しこんでた。決まりどおりの処分だの、承認がどうだの、廊下まで聞こえてたな。あの親方、声がでけえんだよ。で、隊長が、嬢ちゃんが戻るまで帰るなってさ」
(先に、言い分を入れられてる)
当たり前だ。三本松で鉢合わせたとき、あの人は戸口の向こうの仕入れ帳を見ていた。見たなら、次に何をすべきか分かる人だ。
「ハンスさん。お願いがあります」
その夜、門前の宿の食堂で、リナは帳面を広げる。
ハンスには、隊長への言づてを頼んである。明日、二つの記録を出してほしい。砦の当直日誌と、伝令簿。毎日の天気と、伝令を出した日と行き先が書いてある帳面だ。
師匠は向かいで、杯を前に座っている。
「明日、隊長さんの前で、数字を並べます。親方も、同じ部屋にいるはずです」
師匠は手を伸ばして、帳面を自分のほうへ向ける。
日付の表の上を、節の太い指がゆっくり下りていく。出発、届け、承認。一行ごとに、もう片方の手の指が小さく折られる。
最後の行まで行って、帳面はリナのほうへ戻ってくる。
何も言わない。日数を、自分で数え直しただけだ。
師匠は卓の端の灯を、帳面のそばへ少し寄せる。それから卓に手をついて立ち上がり、階段のほうへ歩いていく。一段ごとに、手すりが鳴る。
明日、何をはっきりさせたいのか。
ブルーノを捕まえることではない。それは隊長が決めることで、その先は補給局が決めることだ。行商人の帳面に、人を裁く欄はない。
(麦が、どこで減ったか。それと、承認の紙が、本当に届けを見て書かれたのか)
承認の紙の下には、赤い封蝋と、D・ロスの名前がある。その人がどう書いたのかは、この帳面では分からない。分かるのは、日付だけだ。
承認が本物なら、砦の帳簿はこれからも合い続ける。毎月19袋が積まれて、17袋が着いて、粥は薄いままだ。
言い分を通したい人は、認めても痛くないところから先に認める。
(なら、売ったことは、向こうから言う)
粉屋の仕入れ帳は、それだけでは切り札にならない。
並べる順番を、一から書き直す。
最後の、日付の行で、ペンが止まる。
届けがブリュックまで何日かかるかを、自分の口で言っても、親方は「急げば早い」と言い返せる。
砦の門で、親方が塩を買っていった日のことを思い出す。うちの荷馬車が、週に二回この坂を上る。片道三日だ。
(三日と言ったのは、親方だ)
日付の行の横に「三日」と書いて、丸で囲む。
翌朝の交代で、パンがもう10包み出る。
昼過ぎの隊長室には、いつもより人が多い。
バルドは机の向こうで腕を組み、その横にトマスが立っている。トマスの胸の前には、あの薄い綴り。壁際にハンスが帽子を握っていて、扉の脇にカイルが寄りかかっている。
机の手前の椅子に、ブルーノが座っている。
鞭を巻いた手を膝に置いて、足を組んでいる。リナが入ると、日に焼けた顔が人懐っこく笑う。
「よう、塩の嬢ちゃん。坂は冷えたろ」
「おかげさまで、晴れてました」
暖炉の火が、今日はいつもより大きい。客がいるからだろう。
「話は親方から聞いた」
バルドが低い声で言う。
「坂で崩れて、雨で濡れた麦を、決まりどおりに処分した。担当官の承認も下りてる。……そういう話だ」
「そういう話だよ」
ブルーノが肩をすくめる。
「濡れた麦は、ほかの袋まで腐らせる。坂の上まで運んだって運賃の無駄だ。処分の仕方は、運ぶほうに任されてる。捨てるよりは、粉屋に売ったほうがよっぽど世のためだろ。何が悪い」
売ったことは、自分から言った。
リナは机の上に帳面を開く。誰も争わない数から。
「数が足りなかったことは、親方も含めて、誰も争ってないと思います」
最初の一言だけ、ゆっくり言う。声が震えないように。
「第46便。ブリュックで積まれたとき、私が数えて19袋でした。門の帳面にある送り状も19袋」
「積んだのは19だ。そこは間違いねえ」
ブルーノが先に言う。
「ハンスさんの分隊が担いだのは、17袋。トマスさんの受領帳簿も17袋で、損耗の届けが2袋です」
壁際で、ハンスがうなずく。
「先月の八便も、送り状は19、受け取りは17でした」
「だから損耗だって言ってるだろ」
「はい。だから、次は損耗のほうです」
トマスの綴りから、損耗の届けを一枚抜く。
「届けには、こう書いてあります。雨による濡れ損じ。三本松にて廃棄」
自分の帳面の、別のページを開く。
「三本松の粉屋さんの仕入れ帳です。本人の承諾をもらって、写させてもらいました。補給の便が三本松に泊まった翌朝ごとに、麦が2袋。1袋14枚。品は、上物」
ブルーノの膝の上で、鞭を巻いた手が動く。
「廃棄と書いた麦が、上物として売られてます。濡れて傷んだ麦なら、家畜の餌にして1袋4枚がいいところです。14枚では、誰も買いません」
「濡れたのは、上に積んだ袋の表だけだ。一晩干しゃ、中は乾いてる。粉屋が上物と書こうが、そりゃ粉屋の目だ」
何度も口にしてきた言い方だ。
干した麦が上物に戻るかどうか。リナには言い返せない。麦を干したことはない。
「その麦を、誰が売ったか、ですけど」
仕入れ帳の写しの右端を、指でたどる。
「売主の欄は、ハック運送。受取の印は、これです」
写しの隅に描いた、車輪の丸と、輻が四本と、その上の横一本。
トマスの綴りの一番上の送り状を、その隣に並べる。運送屋の欄に、同じ形の印が押してある。
二つの印が並ぶ。
「今月九日の朝にも2袋。その前の晩に三本松に泊まったのは、私がブリュックで数えた第46便でした」
ブルーノは笑わない。膝の上で、巻きつけた鞭の革を一度ほどいて、また巻き直す。
扉の脇で、カイルの目がその手を追っている。
「毎回濡れるんだよ、あの坂は」
「毎回、ですか」
リナはバルドのほうを向く。
「隊長さん。当直日誌を見せていただけますか」
バルドが顎で促す。トマスが厚い帳面を開いて、先月のページを指でたどる。
「先月、雨は……九日と、二十三日です」
「ほかの日は」
「晴れか、曇りです」
「八枚の届けの理由は、八枚とも、雨による濡れ損じです」
ブルーノが組んでいた足をほどく。
「砦で降らなくたって、下で降ることはある」
「第46便が上った三日間は、私が一日遅れで同じ道を通ってます。霜の朝と、乾いた昼でした」
「一日遅れ、だろ」
ブルーノの声に、笑いが戻っている。
「一日違えば、空も違う。嬢ちゃんが見たのは、嬢ちゃんの通った日の空だ」
トマスのペンが止まる。
リナは、帳面の端を押さえた指に力を入れる。
その通りだ。自分が見たのは、自分の通った三日間だけだ。
「……はい。一日違えば、変わります」
ブルーノが顎を上げる。
「だから、降ったと分かっている日だけを見ます」
リナはページをめくる。昨夜、丸を付けたページだ。
「九日と二十三日。その日に坂にいたのは、第38便と第42便です。この二つだけ、届けの日付が、ほかの便より一日遅れています」
「雨の坂は上らねえ。三本松で一晩待った。当たり前だ」
ブルーノはすぐに言う。
「はい。だから届けも、一日遅れて砦で書かれました」
リナは日付の三つの列を、机の真ん中へ押し出す。
「承認書は、届けが補給局に着いて、それを見てから書かれるものだと聞いてます。届けは砦で書かれて、帰りの荷馬車の御者さんに託されます」
ブルーノのほうを向く。
「親方。砦からブリュックまで、荷馬車で何日かかりますか」
「三日だ。俺の荷馬車だぞ」
「下りなら、もっと早くなりませんか」
「荷が空でも、坂は坂だ。馬を潰す気がなけりゃ三日。それより早く着いたことなんか、一度もねえ」
「ありがとうございます」
リナは日付の一覧に目を戻す。
ブルーノの顔から、笑いが少しずつ抜けていく。
「第38便。届けは十一日に、砦で書かれています。親方の荷馬車で三日なら、ブリュックに着くのは早くても十四日です」
一つ、間を置く。
「承認書の日付は、十三日です」
指を、下へずらす。
「第42便。届けは二十五日。着くのは早くて二十八日。承認は、二十七日です」
「急ぎの伝令で送ったのなら、間に合うかもしれません。隊長さん、伝令簿を」
バルドが、自分で伝令簿をめくる。太い指が行の途中で止まって、また動いて、また止まる。
「……先月、ブリュックへ伝令を出したのは、二日と十六日だ。どっちも、その便とは関係ねえ」
「トマスさん。届けの控えに、原本を受け取った人の署名はありますか」
「あります。毎回、御者に原本を渡して、控えに署名をもらっています」
トマスが綴りをめくる。第38便の控えの下に、たどたどしい字の署名がある。
「その御者さんは、門の帳面だと、翌朝、荷馬車と一緒に門を出ています」
リナはそこで、言葉を切る。
「承認書の日付は、八枚とも、荷馬車がブリュックを出た日のちょうど五日後です。届けが着いた日じゃなくて、荷馬車が出た日に揃っています。だから、雨で遅れた二つの便だけ、届けが着く前の日付になってしまった」
ブルーノが、椅子から腰を浮かせる。
「担当官が、勝手に早く書いただけだろ。俺の知ったことか」
扉の脇で、カイルが壁から背を離す。一歩だけ前に出て、そこで止まる。
ブルーノはそれを見て、椅子に座り直す。
「途中で誰かが御者さんから届けを受け取って、急いで運んだのかもしれません」
リナの声は静かだ。
「それは、ブリュックの補給局の受付簿を見れば分かるはずです。……私に分かるのは、ここまでです」
長い沈黙。
窓の隙間から、峠の風が入ってくる。
バルドが腕をほどく。
「親方。昨日あんたが俺に言ったのは、決まりどおりの処分で、承認も下りてる、って話だった」
「……ああ」
「届けが着く前の日付で、承認が書かれてる。届けを見て書いた承認なのかどうか、俺には分からねえ。分からねえものを、決まりどおりとは呼べねえ」
ブルーノが口を開きかける。バルドはそれを待たない。
「届けを見ずに書かれた承認だったら、あんたが粉屋に売った麦は、処分品じゃなかったことになる」
ブルーノは答えない。
「担当官のことは、俺には調べられねえ。支所は俺の下じゃねえからな。王都の本局に上げる。本局の監察に、受付簿を確かめてもらう」
「……本局に、か。支所を飛ばして」
「支所の担当官の承認を、支所に調べさせるわけにはいかねえだろう」
ブルーノは、記録を取っているトマスの手元を見る。
「その紙には、今の話が全部書かれるのか」
「全部だ」
鞭を巻いた手が、膝の上で止まる。
「なら、俺の話も書いとけ」
ブルーノは、リナを見ていない。バルドを見ている。
「ロスの旦那には、承認一枚ごとに銅貨十枚払ってた。承認が欲しけりゃ、ってな」
バルドは何も言わない。
「受付簿を開けりゃ、あの旦那は真っ先に俺の名を出す。運送屋が勝手に売った、承認は決まりどおりに書いた、ってな。だったら、先に言っとく。払わされてたのは、こっちだ」
それは、写した数字のどこにも書いていない話だ。
本当かどうか、帳面では確かめられない。
「……親方のおっしゃるとおりなら、2袋で28枚。十枚払って、届けなかった2袋の運賃6枚を引いても、一便で12枚残ります。月に八便です」
誰も、何も言わない。
ブルーノが、初めてまともにリナを見る。
「運賃の穴埋めだ」
低い声だ。
「この坂を、一袋銅貨3枚で上れってのか。馬は潰れる、飼い葉は高え、御者には払わなきゃならねえ。坂の分は一銭も出ねえんだ。……最初は、赤字を埋めるだけのつもりだった」
最後だけ、声が小さい。
バルドはしばらく黙って、ブルーノを見ている。怒鳴りはしない。
「トマス。十枚の話も、運賃の話も、親方の言い分として書け。確かめるのは、監察だ」
「それで、俺はどうなる」
「知らねえ。決めるのは俺じゃねえ」
バルドが立ち上がる。
「ハック運送の親方は、本局の返事が来るまで砦で預かる。軍の麦の話だからな。三本松の粉屋の帳面は、こっちからも人をやって確かめる。本局には、正式な調べと処分を求める報告を書く。担当官の承認のこと、支所の受付簿のこと、売った麦の代金のこと、金の受け渡しのこと、全部だ」
そこで、一度言葉を切る。
「月の報告に、読まずに判を押してたことも書く。俺の名でな」
ハンスがブルーノの腕を取る。ブルーノは振り払わない。扉を出る前に、一度だけ振り返る。
「塩の嬢ちゃん。あんた、坂の上り方を知らねえだろ」
それだけ言って、廊下へ消える。
バルドが、リナを見下ろす。
「門は開ける。明日から、中で売っていい」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、こっちかもしれねえがな」
バルドはそれ以上は言わない。言わずに、暖炉に薪を一本足す。
隊長室を出ると、廊下の窓から夕方の光が斜めに差しこんでいる。
カイルは黙って隣を歩いている。いつもなら何か言う距離なのに、何も言わない。
「……何か言ってください」
「何を」
「何でもいいです」
「腹減った」
リナは、思わず笑う。笑ってから、肩がずっと上がっていたことに気づく。下ろすと、首の後ろが少し痛い。
カイルは前を向いたまま、口の端だけで笑っている。
歩きながら、帳面を開く。
補給指示書、160袋。送り状の合計、152袋。受け取り、136袋。
136と152のあいだの16袋には、行き先が見つかった。三本松の、粉だらけの仕入れ帳だ。
補給局からは、翌月に繰り越すと聞いています。トマスの声が、耳の奥に残っている。
ページの上で、指が止まる。
152と160のあいだには、まだ何もない。
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