↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/20

第9話 八枚の届け

上りの坂は、凍っている。


三本松を発ってから、空は一度も曇っていない。霜の降りた轍に車輪が噛んで、馬の息が白くちぎれて後ろへ流れていく。リナは手綱を握ったまま、膝の上の帳面に何度も目を落とす。


出発の日。届けの日。承認の日。


昨夜から一つも変わっていない。変わらないと分かっていて、また見る。


「さっきから、同じページばっかり見てるな」


「同じページしか、ないので」


「ほかのページもあるだろ。豆の値段とか」


「豆の値段は、もう覚えました」


「馬が転んだら、そのページも泥だらけだぞ」


帳面を閉じて、膝の上で押さえる。表紙の革の下で、手のひらが汗ばんでいる。寒いのに。


柳橋で一泊して、翌日の夕方、灰色の石壁が見える。


門に着くのは、ちょうど夕方の交代の鐘が鳴るころだ。宿の物置から残りの豆とパンを出して、そのまま売り台を組む。


「豆、戻ったのか」


「8袋だけです。お一人二つまで」


8袋は、一刻もたない。三本松のパンと合わせて、パンも10包み出る。


列の最後に、ハンスが並んでいる。豆はもうない。ハンスは帽子を手の中で回しながら、売り台の前に立つ。


「嬢ちゃん。親方が昨日、馬で来たぞ」


「……ブルーノさんが」


「隊長と長いこと話しこんでた。決まりどおりの処分だの、承認がどうだの、廊下まで聞こえてたな。あの親方、声がでけえんだよ。で、隊長が、嬢ちゃんが戻るまで帰るなってさ」


(先に、言い分を入れられてる)


当たり前だ。三本松で鉢合わせたとき、あの人は戸口の向こうの仕入れ帳を見ていた。見たなら、次に何をすべきか分かる人だ。


「ハンスさん。お願いがあります」


 


 


その夜、門前の宿の食堂で、リナは帳面を広げる。


ハンスには、隊長への言づてを頼んである。明日、二つの記録を出してほしい。砦の当直日誌と、伝令簿。毎日の天気と、伝令を出した日と行き先が書いてある帳面だ。


師匠は向かいで、杯を前に座っている。


「明日、隊長さんの前で、数字を並べます。親方も、同じ部屋にいるはずです」


師匠は手を伸ばして、帳面を自分のほうへ向ける。


日付の表の上を、節の太い指がゆっくり下りていく。出発、届け、承認。一行ごとに、もう片方の手の指が小さく折られる。


最後の行まで行って、帳面はリナのほうへ戻ってくる。


何も言わない。日数を、自分で数え直しただけだ。


師匠は卓の端の灯を、帳面のそばへ少し寄せる。それから卓に手をついて立ち上がり、階段のほうへ歩いていく。一段ごとに、手すりが鳴る。


明日、何をはっきりさせたいのか。


ブルーノを捕まえることではない。それは隊長が決めることで、その先は補給局が決めることだ。行商人の帳面に、人を裁く欄はない。


(麦が、どこで減ったか。それと、承認の紙が、本当に届けを見て書かれたのか)


承認の紙の下には、赤い封蝋と、D・ロスの名前がある。その人がどう書いたのかは、この帳面では分からない。分かるのは、日付だけだ。


承認が本物なら、砦の帳簿はこれからも合い続ける。毎月19袋が積まれて、17袋が着いて、粥は薄いままだ。


言い分を通したい人は、認めても痛くないところから先に認める。


(なら、売ったことは、向こうから言う)


粉屋の仕入れ帳は、それだけでは切り札にならない。


並べる順番を、一から書き直す。


最後の、日付の行で、ペンが止まる。


届けがブリュックまで何日かかるかを、自分の口で言っても、親方は「急げば早い」と言い返せる。


砦の門で、親方が塩を買っていった日のことを思い出す。うちの荷馬車が、週に二回この坂を上る。片道三日だ。


(三日と言ったのは、親方だ)


日付の行の横に「三日」と書いて、丸で囲む。


 


 


翌朝の交代で、パンがもう10包み出る。


昼過ぎの隊長室には、いつもより人が多い。


バルドは机の向こうで腕を組み、その横にトマスが立っている。トマスの胸の前には、あの薄い綴り。壁際にハンスが帽子を握っていて、扉の脇にカイルが寄りかかっている。


机の手前の椅子に、ブルーノが座っている。


鞭を巻いた手を膝に置いて、足を組んでいる。リナが入ると、日に焼けた顔が人懐っこく笑う。


「よう、塩の嬢ちゃん。坂は冷えたろ」


「おかげさまで、晴れてました」


暖炉の火が、今日はいつもより大きい。客がいるからだろう。


「話は親方から聞いた」


バルドが低い声で言う。


「坂で崩れて、雨で濡れた麦を、決まりどおりに処分した。担当官の承認も下りてる。……そういう話だ」


「そういう話だよ」


ブルーノが肩をすくめる。


「濡れた麦は、ほかの袋まで腐らせる。坂の上まで運んだって運賃の無駄だ。処分の仕方は、運ぶほうに任されてる。捨てるよりは、粉屋に売ったほうがよっぽど世のためだろ。何が悪い」


売ったことは、自分から言った。


リナは机の上に帳面を開く。誰も争わない数から。


「数が足りなかったことは、親方も含めて、誰も争ってないと思います」


最初の一言だけ、ゆっくり言う。声が震えないように。


「第46便。ブリュックで積まれたとき、私が数えて19袋でした。門の帳面にある送り状も19袋」


「積んだのは19だ。そこは間違いねえ」


ブルーノが先に言う。


「ハンスさんの分隊が担いだのは、17袋。トマスさんの受領帳簿も17袋で、損耗の届けが2袋です」


壁際で、ハンスがうなずく。


「先月の八便も、送り状は19、受け取りは17でした」


「だから損耗だって言ってるだろ」


「はい。だから、次は損耗のほうです」


トマスの綴りから、損耗の届けを一枚抜く。


「届けには、こう書いてあります。雨による濡れ損じ。三本松にて廃棄」


自分の帳面の、別のページを開く。


「三本松の粉屋さんの仕入れ帳です。本人の承諾をもらって、写させてもらいました。補給の便が三本松に泊まった翌朝ごとに、麦が2袋。1袋14枚。品は、上物」


ブルーノの膝の上で、鞭を巻いた手が動く。


「廃棄と書いた麦が、上物として売られてます。濡れて傷んだ麦なら、家畜の餌にして1袋4枚がいいところです。14枚では、誰も買いません」


「濡れたのは、上に積んだ袋の表だけだ。一晩干しゃ、中は乾いてる。粉屋が上物と書こうが、そりゃ粉屋の目だ」


何度も口にしてきた言い方だ。


干した麦が上物に戻るかどうか。リナには言い返せない。麦を干したことはない。


「その麦を、誰が売ったか、ですけど」


仕入れ帳の写しの右端を、指でたどる。


「売主の欄は、ハック運送。受取の印は、これです」


写しの隅に描いた、車輪の丸と、輻が四本と、その上の横一本。


トマスの綴りの一番上の送り状を、その隣に並べる。運送屋の欄に、同じ形の印が押してある。


二つの印が並ぶ。


「今月九日の朝にも2袋。その前の晩に三本松に泊まったのは、私がブリュックで数えた第46便でした」


ブルーノは笑わない。膝の上で、巻きつけた鞭の革を一度ほどいて、また巻き直す。


扉の脇で、カイルの目がその手を追っている。


「毎回濡れるんだよ、あの坂は」


「毎回、ですか」


リナはバルドのほうを向く。


「隊長さん。当直日誌を見せていただけますか」


バルドが顎で促す。トマスが厚い帳面を開いて、先月のページを指でたどる。


「先月、雨は……九日と、二十三日です」


「ほかの日は」


「晴れか、曇りです」


「八枚の届けの理由は、八枚とも、雨による濡れ損じです」


ブルーノが組んでいた足をほどく。


「砦で降らなくたって、下で降ることはある」


「第46便が上った三日間は、私が一日遅れで同じ道を通ってます。霜の朝と、乾いた昼でした」


「一日遅れ、だろ」


ブルーノの声に、笑いが戻っている。


「一日違えば、空も違う。嬢ちゃんが見たのは、嬢ちゃんの通った日の空だ」


トマスのペンが止まる。


リナは、帳面の端を押さえた指に力を入れる。


その通りだ。自分が見たのは、自分の通った三日間だけだ。


「……はい。一日違えば、変わります」


ブルーノが顎を上げる。


「だから、降ったと分かっている日だけを見ます」


リナはページをめくる。昨夜、丸を付けたページだ。


「九日と二十三日。その日に坂にいたのは、第38便と第42便です。この二つだけ、届けの日付が、ほかの便より一日遅れています」


「雨の坂は上らねえ。三本松で一晩待った。当たり前だ」


ブルーノはすぐに言う。


「はい。だから届けも、一日遅れて砦で書かれました」


リナは日付の三つの列を、机の真ん中へ押し出す。


「承認書は、届けが補給局に着いて、それを見てから書かれるものだと聞いてます。届けは砦で書かれて、帰りの荷馬車の御者さんに託されます」


ブルーノのほうを向く。


「親方。砦からブリュックまで、荷馬車で何日かかりますか」


「三日だ。俺の荷馬車だぞ」


「下りなら、もっと早くなりませんか」


「荷が空でも、坂は坂だ。馬を潰す気がなけりゃ三日。それより早く着いたことなんか、一度もねえ」


「ありがとうございます」


リナは日付の一覧に目を戻す。


ブルーノの顔から、笑いが少しずつ抜けていく。


「第38便。届けは十一日に、砦で書かれています。親方の荷馬車で三日なら、ブリュックに着くのは早くても十四日です」


一つ、間を置く。


「承認書の日付は、十三日です」


指を、下へずらす。


「第42便。届けは二十五日。着くのは早くて二十八日。承認は、二十七日です」


「急ぎの伝令で送ったのなら、間に合うかもしれません。隊長さん、伝令簿を」


バルドが、自分で伝令簿をめくる。太い指が行の途中で止まって、また動いて、また止まる。


「……先月、ブリュックへ伝令を出したのは、二日と十六日だ。どっちも、その便とは関係ねえ」


「トマスさん。届けの控えに、原本を受け取った人の署名はありますか」


「あります。毎回、御者に原本を渡して、控えに署名をもらっています」


トマスが綴りをめくる。第38便の控えの下に、たどたどしい字の署名がある。


「その御者さんは、門の帳面だと、翌朝、荷馬車と一緒に門を出ています」


リナはそこで、言葉を切る。


「承認書の日付は、八枚とも、荷馬車がブリュックを出た日のちょうど五日後です。届けが着いた日じゃなくて、荷馬車が出た日に揃っています。だから、雨で遅れた二つの便だけ、届けが着く前の日付になってしまった」


ブルーノが、椅子から腰を浮かせる。


「担当官が、勝手に早く書いただけだろ。俺の知ったことか」


扉の脇で、カイルが壁から背を離す。一歩だけ前に出て、そこで止まる。


ブルーノはそれを見て、椅子に座り直す。


「途中で誰かが御者さんから届けを受け取って、急いで運んだのかもしれません」


リナの声は静かだ。


「それは、ブリュックの補給局の受付簿を見れば分かるはずです。……私に分かるのは、ここまでです」


 


 


長い沈黙。


窓の隙間から、峠の風が入ってくる。


バルドが腕をほどく。


「親方。昨日あんたが俺に言ったのは、決まりどおりの処分で、承認も下りてる、って話だった」


「……ああ」


「届けが着く前の日付で、承認が書かれてる。届けを見て書いた承認なのかどうか、俺には分からねえ。分からねえものを、決まりどおりとは呼べねえ」


ブルーノが口を開きかける。バルドはそれを待たない。


「届けを見ずに書かれた承認だったら、あんたが粉屋に売った麦は、処分品じゃなかったことになる」


ブルーノは答えない。


「担当官のことは、俺には調べられねえ。支所は俺の下じゃねえからな。王都の本局に上げる。本局の監察に、受付簿を確かめてもらう」


「……本局に、か。支所を飛ばして」


「支所の担当官の承認を、支所に調べさせるわけにはいかねえだろう」


ブルーノは、記録を取っているトマスの手元を見る。


「その紙には、今の話が全部書かれるのか」


「全部だ」


鞭を巻いた手が、膝の上で止まる。


「なら、俺の話も書いとけ」


ブルーノは、リナを見ていない。バルドを見ている。


「ロスの旦那には、承認一枚ごとに銅貨十枚払ってた。承認が欲しけりゃ、ってな」


バルドは何も言わない。


「受付簿を開けりゃ、あの旦那は真っ先に俺の名を出す。運送屋が勝手に売った、承認は決まりどおりに書いた、ってな。だったら、先に言っとく。払わされてたのは、こっちだ」


それは、写した数字のどこにも書いていない話だ。


本当かどうか、帳面では確かめられない。


「……親方のおっしゃるとおりなら、2袋で28枚。十枚払って、届けなかった2袋の運賃6枚を引いても、一便で12枚残ります。月に八便です」


誰も、何も言わない。


ブルーノが、初めてまともにリナを見る。


「運賃の穴埋めだ」


低い声だ。


「この坂を、一袋銅貨3枚で上れってのか。馬は潰れる、飼い葉は高え、御者には払わなきゃならねえ。坂の分は一銭も出ねえんだ。……最初は、赤字を埋めるだけのつもりだった」


最後だけ、声が小さい。


バルドはしばらく黙って、ブルーノを見ている。怒鳴りはしない。


「トマス。十枚の話も、運賃の話も、親方の言い分として書け。確かめるのは、監察だ」


「それで、俺はどうなる」


「知らねえ。決めるのは俺じゃねえ」


バルドが立ち上がる。


「ハック運送の親方は、本局の返事が来るまで砦で預かる。軍の麦の話だからな。三本松の粉屋の帳面は、こっちからも人をやって確かめる。本局には、正式な調べと処分を求める報告を書く。担当官の承認のこと、支所の受付簿のこと、売った麦の代金のこと、金の受け渡しのこと、全部だ」


そこで、一度言葉を切る。


「月の報告に、読まずに判を押してたことも書く。俺の名でな」


ハンスがブルーノの腕を取る。ブルーノは振り払わない。扉を出る前に、一度だけ振り返る。


「塩の嬢ちゃん。あんた、坂の上り方を知らねえだろ」


それだけ言って、廊下へ消える。


バルドが、リナを見下ろす。


「門は開ける。明日から、中で売っていい」


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは、こっちかもしれねえがな」


バルドはそれ以上は言わない。言わずに、暖炉に薪を一本足す。


 


 


隊長室を出ると、廊下の窓から夕方の光が斜めに差しこんでいる。


カイルは黙って隣を歩いている。いつもなら何か言う距離なのに、何も言わない。


「……何か言ってください」


「何を」


「何でもいいです」


「腹減った」


リナは、思わず笑う。笑ってから、肩がずっと上がっていたことに気づく。下ろすと、首の後ろが少し痛い。


カイルは前を向いたまま、口の端だけで笑っている。


歩きながら、帳面を開く。


補給指示書、160袋。送り状の合計、152袋。受け取り、136袋。


136と152のあいだの16袋には、行き先が見つかった。三本松の、粉だらけの仕入れ帳だ。


補給局からは、翌月に繰り越すと聞いています。トマスの声が、耳の奥に残っている。


ページの上で、指が止まる。


152と160のあいだには、まだ何もない。

お読みいただき、ありがとうございます。

「続きが気になる」「リナを応援したい」と思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。