第10話 帳簿の端
門の内側に売り台を組むのは、三週間ぶりだ。
中庭の石畳が、朝の霜で白い。鍛冶場の槌の音。どこかで馬が鼻を鳴らしている。この砦に着いた日と、音も匂いも変わらない。
変わったのは、売り台の上の品の少なさだ。堅焼きパンが12包み。塩が8包み。針と石鹸が少し。豆は一袋もない。
「嬢ちゃんが中にいるぞ!」
交代の兵たちが、ばらばらと集まってくる。走ってくる者はいない。
「豆は?」
「ありません」
「ないのかよ」
「来月です」
「来月かよ」
それでもパンを一つ買っていく。
食堂のほうから、麦の煮える匂いがしてくる。昨日までより、重たい匂いだ。
隊長は昨日の夕方、配給を一人一日0.9kgに戻すと告げたらしい。窓越しに見える配膳係は、柄杓を鍋に沈めて、そのまま椀に移している。縁で落とす手つきは、もうない。
「パンを一つ」
ひょろりとした若い兵が、売り台の前に立っている。
砦に着いた日、空になった売り台の前から動かなかった兵だ。握っていた手を開くと、銅貨が2枚、汗で湿って載っている。
「財布の底に、残しておいたやつです」
照れくさそうに言う。
「どうしても腹が減ったときのために、取っておいたんです」
「……今日、使っていいんですか」
「はい。もう、取っておかなくてもよくなったんで」
リナは銅貨を受け取って、パンを一包み渡す。
値引きはしない。おまけもしない。
「あの、前のパン」
若い兵は包みを抱えたまま言う。
「やっぱり、硬かったです」
「堅焼きなので」
「はい。知ってます」
今度はかじらずに、包みを抱えて交代の列へ戻っていく。
パンは昼までに、塩は夕方までに、売り台から消える。
伝令がブリュックから戻ったのは、昼過ぎだ。
隊長室の机に、補給局の封蝋が押された紙が一枚。
――ラーベ砦守備隊の購入願、許可する。干し豆の小袋100袋。代価、銀貨18枚。納期、来月二十日まで。代価は納入ののち、補給局ブリュック支所にて支払う。
一行ずつ、指でたどる。
(18枚。仕入れが12枚。差は6枚)
代金が入るのは、納めたあとだ。それまで18枚は、紙の上にしかない。ブリュックで豆を引き取るときには、手付の1枚を引いた11枚を先に払う。
払うのは、補給局のブリュック支所。これから本局の調べが入る、その支所だ。
「来月二十日なら、間に合います」
砦を出て、ハーゼルの祭りを回って、ブリュックで豆を引き取って、坂を上る。指を折る。足りる。もう一回折る。やっぱり足りる。
「契約は、師匠の名前で結びます。今夜、師匠に話します」
「ベルク殿の名なら、文句はねえ」
バルドが発注書から顔を上げる。
「それと、お願いがあります。この書付の写しに、砦の印をいただけませんか。仕入先に、月末までに届けないといけないんです」
「写しなら、トマスに作らせる」
「届けるのに、明日ブリュックへ出る伝令を……」
バルドの眉が寄る。
「伝令は、商人の手紙を運ぶもんじゃねえ」
「はい」
リナはそれ以上は言わない。
バルドはしばらく、発注書の「100袋」のところを指で叩いている。
「……砦の豆の話だ。一通だけだぞ」
隣に、トマスが立っている。綴りは抱えていない。両手の置き場所に困っているように見える。
「トマス」
「……はい」
「配給を一割と言って二割削った件は、譴責として記録に残す」
トマスの肩が揺れる。
「主計係は続けろ」
「……隊長」
「ただし、月の報告は俺が全部読む。読んでから、判を押す」
バルドは、そこで一度切る。
「読まずに判を押してたのは、俺だ。お前一人の帳簿じゃねえ」
トマスは深く頭を下げる。下げたまま、なかなか上げない。机の端で、まっすぐに置かれた羽根ペンに、窓の光が当たっている。
リナは帳面を閉じかけたまま止まっている。何か言ったほうがいい気がする。
バルドがこっちを向く。
「リナ」
帳面を抱えた指に、力が入る。
名前で呼ばれたのは、初めてだ。
「来月も、門は開けておく」
「……はい」
ほかの返事が、どこにも見つからない。
トマスが写しを作るあいだ、古い月の報告の控えを見せてもらう。
石壁の小部屋は相変わらず寒い。トマスが棚から綴りを下ろす。先月。その前の月。さらにその前。
どの月にも、同じ一行がある。
――受領136、損耗16、計152。指示160に対し、未着8。翌月繰越。
ページをめくるたびに、同じ一行が出てくる。先月の8は今月に繰り越されて、今月の8は来月に繰り越される。繰り越された8袋を載せた便は、一度も来ていない。どの月も、補給の便は19袋が8便だけだ。
0.9kgなら、月に135袋。今までどおり136袋しか届かなければ、冬の備えに回る分は、ほとんど残らない。
「毎月、繰越の返事をもらって……それで、済ませていました」
トマスの声は、八枚の届けを前にしたときと同じ高さだ。
「控えを、写させてください」
「どうぞ。……隊長にも、もう見せてあります」
リナは写すだけにする。訊きたいことはある。けれど、この部屋の中に答えはなさそうだ。
写しが出来上がる。トマスの字で、発注書がそっくり写してある。隅に、砦の印。
帰りぎわ、机の端の皿が目に入る。黒パンが一切れ。今日は半分、なくなっている。
夜、門前の宿の食堂で、師匠に帳面を渡す。
三週間分を、今日で締めてある。師匠は一枚ずつめくる。
「居残りで使った分は、明日の分まで入れて、246です。枠の300のうち、残りの54には手を付けていません」
師匠の指が、カイルの行をたどる。
「売り台で入ったのが、300と少し。仕入れを引くと、残るのは150ほどです」
「宿と飼い葉は」
「別の欄です。どこにいても出る分ですけど、ここでは宿にしか泊まれなかったので、ハーゼルで休むより少し高くつきました」
師匠はページをめくる。
「行商の帳簿で言えば、この三週間は赤字です」
自分で言うと、思ったより平らな声になる。
「豆の6枚は、まだ紙の上です。ツケの62枚も、来月までは入りません。入ったことには、しません」
師匠は帳面から目を上げない。
「それで」
「豆の契約は、師匠の名前でお願いします。仕入れの12枚は、5枚を超えるので」
「祭りの荷が売れなかったら、どうする」
リナは別のページを開く。昼のうちに、もう書いてある。
「半分しか売れなかったら、ブリュックで豆の残金を払うと、手元がほとんど残りません。四割を切ったら、払えません」
「なら」
「引き取りは、延ばしてもらった十五日まで待ちます。祭りのあとも、そのぶん売り歩けます」
「売れ残りは」
「ブリュックの問屋に持ちこんでも、この時期は買い叩かれます。引き取り手がないかもしれません。当てにはしません」
「それでも足りなかったら」
「残金を払う前に、師匠に言います」
リナは帳面の上で指を止める。
「豆を納められなかったら、手付の1枚では済みません。砦との約束を破ることになります。だから、黙って払えないところまでは行きません」
師匠は、しばらく黙っている。
それから帳面の最後のページに手を伸ばして、契約の欄の下を指で叩く。
「名は、俺が書く」
リナは息を一つ吐く。
帳面を返してもらって、閉じかけて、もう一度開く。
昼に写した、月の報告の一行。
「師匠。補給局の指示は、毎月160袋でした」
師匠は杯を口に運びかけている。
「届くのは、毎月152袋です。残りの8袋は、翌月に繰り越すと書いてあって」
写した控えのページをめくる。先月。その前。その前。
「……一度も、届いてません」
師匠の手が、杯の縁で止まる。
長い沈黙。
宿の主人が、遠くで薪を足している。
師匠は窓のほうを見ている。板戸は閉まっている。
「……帳簿の端に書いておけ」
それきりだ。
訊いても、この人は答えない。
リナはペンをインク壺に浸して、帳面のいちばん端に書く。
8。
翌朝、師匠の名を書いた受け書を、隊長室に届ける。
そのあとで、伝令が門を出ていく。鞍袋のどこかに、写しとドルン乾物店への手紙が入っている。
その日の夕方、宿の裏で、カイルと向き合う。カイルは宿の薪割りを片付けたところで、斧を壁に立てかけている。今日は呼んでいない。
「三週間の約束は、今日までです。ありがとうございました」
「おう。で?」
「明日からは、行商の雇いです。師匠の名前で」
「雇い主が変わるのか」
「払うのは同じ財布です。帳面を付けるのは、私」
カイルは手のひらの木屑を払う。
「条件は」
「拘束料は、今までどおり4枚。街道の日と、呼んだ日は、3枚足します」
「……上がってるぞ」
「祭りは人が多いので、売上の番も、荷の積み下ろしも重くなります。今までと同じ値では頼めません」
「上げてくれって言う前に上げる雇い主、初めて見た」
「上げてくれって言われてから上げたら、言わせた分だけ損です」
カイルは手首の赤い布をいじる。しばらく黙ってから、笑う。
「乗った」
帳面に書く。明日の朝、出発から。拘束料4枚、働いた日は7枚と昼、街道の日は宿と三食付き。雇い主、ベルクの行商。
顔を上げると、カイルはまだこっちを見ている。何か言いかけた顔をして、言わない。
「なんですか」
「いや。いい雇い主に当たったと思ってさ」
護衛として、いい条件に当たったという意味だろう。
リナは帳面を閉じる。
「明日、寝坊しないでくださいね」
「しねえよ」
出発の朝、門の前にハンスが立っている。
「ツケの話だがな。配給が戻ったから、次の給金で、全部は無理でも半分以上は返せるだろうって、分隊長の連中が言ってる。残りも、その次には」
「来月、受け取りに来ます。少し遅くなりますけど」
「待ってるさ。……塩も持ってきてくれよ。一包みでいいからよ」
門番が手を上げる。その後ろで、若い兵がパンの包みを掲げてみせる。昨日買ったやつだ。まだ食べていないらしい。
バルドの姿は見えない。門の上で、王国軍の旗が山風に鳴っている。
物置から出した祭りの荷は、夜明け前にカイルと二人で積み終えてある。
荷馬車が動き出す。御者台には師匠。荷台の端には、カイルが脚を投げ出して座っている。
坂を下りはじめてから、一度だけ、帳面の端の「8」を見る。
閉じる。
御者台の師匠の手が、手綱を短く持っている。節の太い指だ。昨夜、杯の縁で止まったのと同じ手。
今朝は、少しも止まらない。
行き先は、ハーゼル。この荷が半分売れても、ブリュックで豆の残金を払えば、手元はほとんど残らない。
「なあ、ハーゼルって何が売れるんだ」
荷台からカイルが訊く。
「今、考えてます」
「まだ考えてないのかよ」
「今、考えてるんです」
御者台の師匠の背中が、少しだけ揺れる。
笑ったのかもしれない。振り返らないので、分からない。
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