第11話 冬支度の市
「まだ考えてるのか」
柳橋の宿の食堂で、カイルが向かいの椅子を引いた。湯気の立つ椀を二つ、卓に置く。
「考えてます」
リナは顔を上げずに答えた。卓に広げているのは、師匠の帳面だ。ハーゼルの祭りのページを、四年分さかのぼってある。
「坂の上でも考えて、坂の下でも考えて、まだ足りないのか」
「坂の上では、荷台の上で揺れてたので」
「揺れてなかったら、もう答えが出てたみたいな言い方だな」
答えずに、ページを一枚戻した。
四年前の祭り。塩、30包み。針、60本。糸、40かせ。布、9反。
三年前。塩、31包み。布、8反。
二年前からは、字が変わる。師匠の角ばった字から、少し右に傾いた自分の字に。塩、30包み。布、7反。
去年。塩、29包み。布、6反。糸は28かせ、針は45本。
塩だけが、どの年もほとんど動いていない。
減っているのは、糸と、布と、針だ。一度にではない。毎年、少しずつ。
二年前も去年も、この数字を書いたのは自分。書いた年ごとに「今年は少し渋い」と思って、それで終わりにしていた。一年ずつしか見ていなかったのが分かる。
四年分を並べると、渋い年がたまたま続いたようには見えなかった。
(塩は、削れない。糸と布は、削れる)
冬の粥に塩を入れない家はない。けれど、継ぎの布を一年待つ家は、いくらでもある。
ハーゼルの客は、削れる物から先に削っている。四年かけて、少しずつ。
(この四年、高原が不作だったという話は、どこの宿でも聞いていないんだけど)
「で、何が売れるんだ」
カイルが椀を一つ、帳面の横へ押した。
「塩です」
「祭りなのに、地味だな」
「祭りでも、冬は来ますから」
荷台の祭りの荷は、去年の売れ方を見てブリュックで仕入れたものだ。今さら中身は変えられない。変えられるのは、どれを手前に置くかと、どこに売り台を出すかだけ。
階段のほうから、手すりの鳴る音がした。
師匠は卓の端に腰を下ろすと、黙って手を出した。毎晩のことだ。帳面を渡す。
節の太い指が、祭りのページで止まった。
「布は、去年いくつ残った」
「祭りで四反です。そのあと村を回って、三反は売れました。最後の一反は、ブリュックの問屋に引き取ってもらいました」
師匠は帳面をリナのほうへ戻した。
「塩を手前に。布は奥に置きます。布を見に来た人には、こっちから出します」
返事はなかった。椀の湯気の向こうで、師匠はもう匙を取っていた。
カイルが自分の椀をすすってから、小さく言った。
「今の、いいってことか」
「だめなら、もう言われてます」
ハーゼルの町は、羊の匂いがした。
柳橋から北へ折れる脇道を半日上ると、石垣で囲った畑が途切れて、灰色の屋根が見えてくる。町に入ったとたん、羊毛の脂の匂いが鼻についた。組合の建物の前では、もう露店の骨組みが組まれはじめている。
荷馬車の列が、川沿いの大きな石造りの倉庫へ向かっていた。どの荷台にも、麦袋が積んである。倉庫から出てくる荷馬車は、荷台が軽い。
軽いのは当たり前だ。麦を降ろしてきたのだから。けれど、その荷台には、町で買った物もほとんど載っていなかった。
(まだ祭りの前だから)
そういうことにして、手綱を引いた。
マルタの宿は、組合の建物の裏手にある。看板の文字は、去年より少しかすれていた。
「ベルクさん、今年は遅かったねえ」
戸口から出てきた女将は、前掛けで手を拭きながら、まず師匠を見た。それから荷台を見て、最後にリナを見た。
「一階の部屋、空けといたよ。いつものとこ」
師匠は何も訊かれないまま、うなずいて中へ入っていった。脚のことを、この人には一度も説明したことがないはずなのに。
マルタがリナの頭のてっぺんから足の先まで眺めた。
「大きくなったねえ」
「去年も言われました」
「去年も大きくなってたんだよ」
言い返す言葉を探しているうちに、マルタは荷台の縄に手をかけていた。
荷を半分ほど降ろしたところで、裏口の戸が開いた。
蜂蜜色の三つ編みを肩に垂らした娘が、籠を抱えて入ってくる。左腕に、組合の受付の腕章を付けたままだ。昼の休みに戻ってきたらしい。
娘は、荷箱を担いでいたカイルを見て、足を止めた。
「……カイル?」
カイルの肩の上で、荷箱がずれた。
「生きてたの」
「死んだって話になってたのかよ」
「なってた。少なくとも、領都の宿の台所では」
「そっちこそ、なんでここにいるんだ。領都で奉公してたろ」
「春に戻ったの。ここ、私の家だから」
娘は籠を下ろすと、カイルの手首の赤い布に一度だけ目をやったが、何も言わなかった。代わりに、革鎧の肩紐をつまむ。
「この繕い、まだ自分でやってるの。下手なまま」
「ほっとけ」
「ほっといたら、そのうち肩から外れるよ。三年前の冬もそうだった」
リナは帳面を開いたまま、二人を見ていた。
肩紐の繕いが下手なことを知っている。三年前の冬のことも知っている。
(服の繕い方まで知ってる仲だ)
商売の勘定で言えば、答えは一つだった。
「カイルさん」
「ん」
「祭りの夜は、お休みにしましょうか。拘束料は、そのままで」
帳面の勤務の欄に、線を一本引く。最後の夜の分は、荷の積み下ろしを自分でやれば済む。
「は?」
カイルが荷箱を下ろした。
「いや、待て。何の話だ」
「せっかくの祭りですから。お二人で」
「お二人って」
カイルの目が、一瞬だけリナのほうへ来て、すぐに娘のほうへ戻った。
娘はそれを見ていた。見ていて、口元だけで笑った。
「あら、いいの?」
否定はしなかった。
カイルが何か言おうとして、口を開けたまま止まった。リナは勤務表の線の横に、小さく「休」と書き足した。
雇い主として、悪くない判断のはず……
娘の目が、リナの肩掛け鞄に下がった真鍮の秤の飾りで止まった。
「その秤。……リナちゃん?」
「はい」
「やっぱり。覚えてないでしょ、私のこと。あなた、うちの台所の隅で、塩の包みを並べて数えてた」
覚えていなかった。台所の隅で塩を数えていたことなら、覚えている。
「フィオナよ。今は組合の受付もしてるの」
娘は腕章を指で叩いた。
「売り台の場所、私が預かってるんだけど。いつもの角でいい?」
「倉庫から市へ下りてくる道の、角ですよね」
「そう。あそこ、毎年ベルクさんが取るから、誰も手を挙げないの」
「麦を売ったばかりの人が、最初に通る場所ですから」
フィオナが、まばたきを一つした。
それから受付の顔に戻って、懐から帳面を出した。
「三日で6枚。前払いね」
夕方、その角に立ってみた。
カイルは、少し離れた石垣にもたれている。さっきから口数が少ない気がする。
坂の上の倉庫の前には、まだ麦袋を積んだ荷馬車が並んでいた。戸口の脇で、背の低い男が大きな枡を据えて量っている。袋の口から麦を流しこみ、棒ですっとならして、横の木箱に空ける。
「七、八、九……」
数を読み上げる声に合わせて、帳場の若い男がペンを走らせる。棒の手つきが速い。何千回も同じことをしてきた手だった。
倉庫の奥から、恰幅のいい男が出てきた。上等な羊毛の上着。リナに気づくと、帽子に手をやった。
「ベルクの旦那のところの。今年も角かね」
「はい。お世話になります」
「旦那によろしく。祭りの前に、麦の値の話でもしに来るといい」
愛想のいい声だった。男はそれだけ言って、次の荷馬車の農夫と話しはじめた。
量り終えた麦袋を、砂色の髪の痩せた少年が肩に担いで、倉庫の奥へ運んでいく。
リナが見ていたのは、量られたあとの農夫たちだった。
銭を受け取った男が、その場で一度数える。財布に入れる前に、もう一度数える。入れてから、紐を解いて、また数える。
それから、財布の口の紐を二重に巻いた。
次の男も、その次の女も、同じだった。
(三回)
数え直す回数は、持っている額が少ないほど増える。それは、行商の売り台の前で何百回も見てきた。
「十一袋で、百四枡と半分」
枡の男が読み上げた。
荷車の前に立っていた年寄りの女が、腰に手を当てた。日に焼けた顔に、深いしわ。
「昔は、十枡あった袋だよ」
女は空になった袋を一つ、持ち上げてみせた。
「今年は、九枡と半分」
「ゲルダ婆さん、枡は秋に検めたばかりだ」
枡の男は顔色一つ変えずに言った。枡を少し傾けて、側板の焼印を見せる。
「焼印も見るかい」
「見たって、麦は増えやしないよ」
行列の後ろで、誰かが笑った。
「土が痩せたのさ。うちもだ」
「去年もそう言ってたな」
「去年も痩せたんだよ」
笑い声が広がった。ゲルダと呼ばれた女は、それ以上は言い返さずに銭を受け取った。三回、数えた。
空の袋を十一枚、荷車に放りこむ。一番上の袋に、四角い継ぎが当たっていた。灰色の布に、色の違う茶色の糸で、大きな目の縫い方。
リナは、その継ぎを知っていた。
去年の祭りで、うちの売り台の前に置かれた袋だ。持ち主は塩を二包み買って、布の前で長いこと迷って、何も買わずに帰った。
同じ袋だった。去年と同じ継ぎ当てで、今年は九枡と半分
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