第12話 薄い財布
売り台の脚が、一本だけ浮いていた。
板を載せて揺すると、かたん、と鳴る。霜の降りた石畳は、どこも平らに見えて、どこも少しずつ傾いている。
「そっち、押さえててください」
「押さえてるって」
カイルが板の端に手を置く。リナは脚の下を覗きこんだ。隙間は指一本ぶん。木っ端を探して荷台を振り返ったとき、横から誰かがしゃがみこんだ。
砂色の、ぼさぼさの髪。昨日、仲買人の倉庫で麦袋を担いでいた少年だ。
少年は道の端から平たい石を一つ拾ってきて、浮いた脚の下に噛ませた。板を両手で揺する。鳴らない。
「去年もここ、がたついてたっす」
「……去年も?」
「石垣のほうに、下がってるんで。ここの道」
少年は売り台の前に立って、指を折りはじめた。
「塩の箱が右の手前で、布が左の奥。針と糸は、真ん中の小さい箱。あと、じいさんの座る木箱が、石垣の前っす」
一本ずつ、指が折られていく。
「去年は、そうだった。……っす」
リナは帳面を開きかけて、やめた。売り台の並びは、帳面には書いていない。書くまでもないと思っていたことを、この少年は覚えている。記憶力がいい。
「毎年、手伝ってくれてたんですか」
「祭りの朝は、あっちこっちの台、組むんで。一つ組んで、銅貨一枚」
「じゃあ、一枚」
少年は手袋をはめた手のひらで銅貨を受けて、すぐに腰の袋へしまった。
「名前を訊いてもいいですか。帳面に付けるので」
「ノア」
少し間があった。
「字は、書けないっす」
訊かれる前に言う言い方だった。
リナは帳面に書いた。ノア、手伝い、1。
ノアが首を伸ばして、その行を覗きこんだ。読めないはずの字を、しばらく見ていた。
広場のほうで、鐘が鳴った。
「鐘が鳴ったから行かなきゃ」
返事を待たずに、倉庫のほうへ駆けていく。すり減った靴の踵が、霜の上に黒い跡を残した。
「仲買人の店の子か」
カイルが、塩の箱を持ち上げながら言った。
「日雇いの荷役みたいですね」
塩の箱は、右の手前。布は、左の奥。ノアの言ったとおりに並べると、売り台はやっと去年の形になった。
市を開く口上は、広場のほうから風に乗って切れ切れに聞こえた。辺境伯家の名において、という言葉だけが、はっきり届いた。
しばらくして、倉庫から市へ下りてくる道を、人の一団が歩いてきた。
先頭は、背の高い若い男だった。紋章入りの外套に、乗馬服。短く整えた髪が、朝日の中で白っぽく光っている。後ろに供が三人と、帳面を抱えた年配の男が一人。
道の脇で、陶器の店の娘たちが手を止めて、その男を目で追っていた。
(顔のいい客は、売り台の前に人を呼ぶ)
ありがたい。けれどリナの目は、顔より先に外套へ行った。
厚い羊毛で、裏地まで付いている。紋章の刺繍は、糸が新しい。高い。
乗馬靴の踵は、一度張り替えてあった。
上等な外套と、張り替えた踵。同じ人の持ち物にしては、財布の紐の締め方が違って見えた。
男は売り台ごとに足を止めて、店の者と短く言葉を交わしていた。干し肉の店。陶器の店。羊毛の店。何か訊いて、答えを聞いて、次へ行く。
貴族が市を開く日には、広場で口上を述べて、それで帰るものだと思っていたのでリナは少し驚いた。
客は、来ないわけではなかった。
倉庫で麦を売った農夫たちが、銭の袋を腰に下げて坂を下りてくる。角の売り台の前で、ちゃんと足を止める。塩の箱を見る。
「塩を一つ」
一包み、4枚。
次の客も、塩を一つ。その次も、一つ。
帳面の行が、同じ形で埋まっていく。塩、1。塩、1。塩、1。去年の帳面は、塩、2、が並んでいた。
布の前で止まる客もいた。手に取って、指で織り目を確かめて、値を訊いてくる。
答えると、うなずいて、元の場所に戻す。きれいに畳み直して戻す人までいた。
昼前に、灰色の袋を抱えた年寄りの女が来た。ゲルダだった。
「塩」
一包みを渡す。去年は二包みだった。
ゲルダは布の前には寄らずに帰っていく。リナは帳面のその行で、ペンを一度止めた。
「売れ行きは、去年と比べていかがですか」
顔を上げると、紋章の外套が売り台の前に立っていた。近くで見ると、思っていたより若い。青紫の目が、売り台の上をひととおり眺めて、リナの帳面で止まった。
「辺境伯家の、アルベルト様だ」
後ろの供が言った。
「……行商の、リナです」
「去年と比べて、です」
アルベルトは、名乗りには何も返さなかった。訊いたことの答えだけを待っていた。
リナは帳面を開いた。
「塩は、変わりません。毎年同じくらい出ます。糸と布と針は、減っています。今朝は、去年の朝より渋いです」
「それで、いくら?」
「今朝はここまでで、44枚です。去年の同じころは、80枚を超えていました」
アルベルトは小さくうなずいた。驚いた顔ではなかった。
「組合の買い入れの帳の写しを、代官に見せてもらいました」
後ろの年配の男を、目で示す。代官らしい。
「農民が売った麦の枡数が、五年続けて、少しずつ減っています。市場の税も減っています。けれど、不作の届けは一度も出ていません」
一つずつ、卓に並べて置くような言い方だった。嫌いではない。
「麦が、市場の外へ流れているのだと考えています」
「抜け売り、ですか」
「そう考えるのが筋です」
筋は通っていた。市場を通さずに売れば、枡数は減る。税も減る。
けれど……
「抜け売りをしてるなら、財布は厚いはずです」
アルベルトの眉が、わずかに上がった。
「税を払わずに売った分だけ、手元の銭は増えます。でも今朝は、皆さん塩を一包みずつしか買いません。去年は、二包みずつでした」
「財布は、隠せます」
答えは、間を置かずにやって来た。
「祭りの日に、税を逃れた銭を見せびらかす農民はいません。私なら、塩を一つだけ買って帰るでしょう」
言い返す言葉を探したが、見つからなかった。一包みしか買わない人が、本当に銭がないのか、ないふりをしているのか。財布の中までは、売り台からは見えない。
見えないのに見えたような言い方をしたのは、自分のほうだったが、引き下がるのが癪だった。
「税の帳簿より、財布のほうが正直です」
言ってから、しまったと思った。
供の一人の顔が、こわばった。
「抜け売りの取り締まりは、組合と相談のうえで、ということで」
代官が、穏やかな声で言った。誰に向けたのでもない言い方で話を横へ流した。
アルベルトは、怒らなかった。代官のほうも見なかった。
「あなたの帳面では、いつから減っていますか」
「……四年前からです。それより前のページは、まだ見ていません」
「毎年、少しずつ?」
「毎年、少しずつです」
アルベルトは、そこで黙った。
開いたままの帳面に、目が落ちる。四年分の糸と布と針を、年ごとに縦に並べて写したページだ。青紫の目が、その列を一行ずつ下りていった。
「あなたの売り台一つで、領の税は量れません」
声の調子は、さっきと変わらない。
「ただ、四年という数は覚えておきます」
塩の箱に手を伸ばす。
「一つ、いただけますか」
一包み、4枚。アルベルトは自分の財布から銅貨を出して、きちんと4枚、売り台に置いた。
一団が次の売り台へ移っていく。踵を張り替えた乗馬靴が、霜の溶けかけた石畳を踏んでいった。二つ先の陶器の店の前で、アルベルトが一度だけ、こちらを振り返った。
(4枚、ちゃんと付けたか確かめたのかな)
帳面に書く。塩、1、4枚。
石垣のそばで、カイルが腕を組んでいた。目だけが、紋章の外套の背中を、陶器の店の向こうへ消えるまで追っていた。
昼を過ぎると、客足が途切れた。
広場のほうから、笛の音が聞こえてくる。人はそっちへ流れていった。
カイルが、売り台の後ろの空き箱を積み直していた。さっき積んだばかりの箱だ。
「なあ」
「はい」
「最後の夜、休みにされたけどさ」
箱の角を揃えながら、カイルは言った。
「広場で、でかい焚き火を焚くんだと。夜遅くまで、皆で囲んで、飲んだり踊ったりする」
「そうらしいですね」
「……焚き火、一緒に見に行かないか」
リナは帳面から顔を上げた。カイルは箱のほうを向いたままだった。
「仕事じゃなくてさ。フィオナとも、別に、そういうんじゃ――」
「塩、まだあるかい」
売り台の前に、農夫が立っていた。リナは包みを取って、銭を受け取った。
農夫が帰ってから、カイルのほうを振り返る。言いかけたことの続きは、もう出てこない。
(夜遅くまで、人が集まる)
焚き火の周りは明るい。祭りの最後の夜なら、財布の紐も少しはゆるむ。昼に売れなかった布も、火の明かりの下でなら、違って見えるかもしれない。
「夜の市の下見ですね」
カイルの手が、箱の上で止まる。
「夜も売り台を出していいか、フィオナさんに訊いてみます。焚き火のそばに出せたら、布が動くかもしれません」
帳面の勤務表を開いた。最後の夜の「休」の字に、線を引く。横に書き直した。働いた日。
「お休みじゃなくなっちゃいますけど、日当は付けます」
カイルは、しばらく勤務表の線を見ていた。それから、積み上げた箱の一番上に手を置いた。
「……それでいい。そのほうが、近くにいられる」
夜の売り台は、昼より狙われやすい。近くで番をしてくれるなら、雇い主としてはありがたかった。
「お願いします」
カイルは売り台の端に腰を下ろして、広場の笛のほうを見ていた。
店じまいの少し前に、農家のおかみが来た。
布の前で、長いこと迷っていた。手に取って広げて陽に透かして、また畳む。
「これ、いくらだい」
「1反、30枚です」
おかみは腰の袋に手をやって、紐を解かずに、そのまま手を離した。
「……麦で払えないかね」
「すみません。うちは、銭だけで」
砦の門の前でも、現金だけで売ってきた。行商の売り台は、そういうもの。
おかみはうなずいて、布を元の場所に戻した。きれいに畳み直して。
マルタの宿の部屋で、帳面を締めた。
今日の売上、96枚。荷の売値で数えると、1割と少し。
師匠の帳面を開く。去年の祭りの初日は、204枚。三日間の売上の、四割ほどが初日に出ている。初日がいちばん人が来る。毎年そうだ。
(同じ割合なら、三日で240)
祭りのあとに村を回る分を、去年と同じ割合で足しても、330と少し。荷の、四割を少し超えるくらいにしかならない。
半分を割れば、ブリュックで豆の残金を払ったあと、手元が足りなくなる。足りなくなったら、払う前に師匠に言う。そう約束したのは、砦を出る前の晩だった。
その線の、すぐ手前にいる。
一階の師匠の部屋からは、物音がしない。もう寝たのかもしれない。起きているのかもしれない。
(明日、もう一日見てから)
言うなら、何か手を打ってからにしたかった。打つ手は、まだ何もない。
帳面の端に、一行だけ、客の言葉が残っていた。客の言葉は書かないことにしているのに、なぜか書いてしまった一行。
『麦で払えないかね』
ゲルダの荷車に積まれた、空の袋。倉庫へ続いていた、麦袋の列。
麦なら、この町にはいくらでもあった。足りないのは、銭のほうだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」「リナを応援したい」と思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




