第13話 麦で払う
戸を叩く前に、帳面のページを一枚書き直した。
昨夜は、もう一日見てから言うと決めたけれど、夜が明けてみるともう一日待つ理由がなくなっていた。打つ手が、一つ見つかったからだ。
階段を下りると、宿の台所ではもうマルタさんが竈に火を入れていた。薪のはぜる音と焼きはじめたパンの匂いが、廊下まで流れてくる。
まだ暗い廊下で、一階の師匠の部屋の戸を叩く。
「入れ」
師匠は寝台の端に腰かけて、靴の紐を結んでいた。窓の板戸の隙間から、灰色の光が細く差している。
「帳面です。昨日の分と、もう一枚あります」
師匠は靴紐から手を離して、帳面を受け取った。
「初日の売上は、96枚でした。去年の初日の、半分もありません」
師匠の指が、昨日の行をたどる。塩、1。塩、1。塩、1。
「同じ割合で行くと、祭りで荷の三割。村を回っても、四割と少しです。半分を割ります。ブリュックで豆の残金を払ったら、手元が足りなくなります」
言ってしまうと、喉のつかえが一つ取れた。
「昨夜のうちに言えば、よく眠れたろう」
「……起きてたんですか」
「階段の上で、ペンの音がしていた」
師匠はそれ以上何も言わずに、次のページをめくった。昨夜、書き直したページを見ている。
「代金の一部を、麦で受けたいんです」
師匠の目が、ページから上がった。
「農家の人たちは、麦を売った銭が少ないです。でも、家にはまだ麦が残ってます。種と冬の分のほかに、市の終わりまで様子を見て売る分を、取っておく家もあるそうです。昨日、麦で払えないかって訊かれました。仲買人の倉庫は、何十袋も持ちこむ家が先で、一袋二袋だと半日待たされるそうです。祭りの日に、それはしたくないって」
「断ったのか」
「断りました。うちは銭だけだって」
「今日は、断らないのか」
「今日は、断りません」
師匠の口の端が、ほんの少しだけ動いた気がした。気のせいかもしれない。
「値は」
「仲買人の店の、今の買い値で付けます。1枡、1.8枚。量るのは組合の検定枡で、お客さんの目の前で量ります」
「その麦で、儲けるのか」
「麦では儲けません。受けた値のまま、仲買人に渡します。儲けは、塩や布の分だけです」
「麦の値が下がったら」
「この町の麦の値は、収穫が終わったばかりで、今がいちばん低いはずです。ここから下がる分は、小さいと考えています」
師匠は少しのあいだ、帳面を見ていた。
「その麦は、どこで銭に変える」
「仲買人に売ります。この町で、一度にまとめて銭に変えられるのは、あそこだけなんで」
「荷台に、何袋積める」
リナは頭の中で荷台を組み直した。
祭りの荷は、もとが90kgほど。祭りが終われば、たぶん半分も残らない。ブリュックで豆を100袋積めば、小袋だから100kgほど。荷台は400kgまで。
「七袋だと、豆が載らない気がします」
師匠は、ゆっくりうなずいた。
「六袋だ」
「七袋と六袋で、そんなに違いますか。七袋目も、仲買人に売ってしまえば――」
「売れなかったら」
それだけだった。
(売れなかったら)
六袋なら、240kg。残りの荷と豆を足しても、400に収まる。仲買人に売れなかったとしても、そのまま積んで坂を下りて、三本松のオットーさんの秤に載せられる。
七袋目は、その逃げ道をふさぐ。
「……六袋にします」
師匠は帳面を引き寄せて、契約の欄の下に、自分で書いた。それから靴紐に戻った。結び目を一度ほどいて、きつく結び直した。
宿を出ると、町はもう動き出していた。
石の屋根に降りた霜が、朝日の当たるところから順に溶けて、軒先から雫になって落ちている。通りの両側の窓から、辺境伯家の紋章を染めた布が垂らされていた。
広場へ向かう道を、羊の群れが横切っていった。冬毛の伸びかけた背中が、押し合いながら坂を上っていく。後ろから犬が一匹、仕事の顔でついていっている。
川のほうからは、白い靄が町の底を這うように流れてきて、倉庫の石壁の下で薄れていた。
組合の建物は、朝から人で混んでいた。羊毛の梱を担いだ男たちが、奥の量り場の前に列を作っている。天井の梁から下がった大きな竿秤に、梱が一つずつ吊るされていく。
受付の机に左腕に腕章を巻いたフィオナがいた。リナを見ると、ペンを置いた。
「おはよう、リナちゃん。朝から商人の顔ね」
「商人の顔って、どんな顔ですか」
「数字を三つくらい同時に抱えてる顔」
当たっていた……。
「検定枡を借りたいんです」
「枡? 行商さんが?」
「今日から、麦でも代金を受けます」
フィオナの目が丸くなった。
「麦で?……組合の受付に座って半年だけど、そんなこと言った行商さん初めてよ」
「昨日、言われたんです。麦で払えないかって。一人に言われたなら、言えなかった人はもっといると思います」
「……ふうん」
フィオナは頬杖をついて、リナの顔を眺めた。何か面白いものを見つけたときの目だった。
「貸し賃一日1枚。ここに名前書いて頂戴」
差し出された貸し出しの帳に名前を書く。フィオナは棚のほうへ行きかけて、その前に、厚い帳面を一冊開いた。
「番号、確かめるから。ちょっと待ってね」
開かれたのは、枡の検め帳だった。番号、持ち主、検めの日、立会人。
立会人の欄には何人かの名前が並んでいて、その中に仲買人の店の名もあった。組合の世話役なのだから、当然そうなるのだろう。
机の端には、もう一冊厚い帳簿が開いたままになっていた。
表題は、『売り渡し帳』
仲買人の店の行に、大きな枡数が並んでいる。この町の麦の大半は、あの石の倉庫を通るみたいだ。
「税の帳簿って、買うほうと売るほうで別なんですね」
「係が違うの。売るほうは組合に残して、買うほうは写しを代官様に出すの。昨日、辺境伯家の方が見ていったのは、買うほう」
「あの方、組合にも来たんですか」
「来た来た。受付の子たちが、しばらく仕事にならなかったわよ」
フィオナは肩をすくめた。
「でも、帳簿の写しを見てるときの顔は怖かったよ。眉間に、こう……しわ寄せて」
「税が減ってるみたいですね」
「らしいね」
フィオナが棚から枡を下ろした。四角い木の枡で、角に金具が打ってある。側板に焼印。
受け取ると、思ったより軽かった。木が乾いているのだろう。
「それともう一つ。焚き火の夜に、売り台を出してもいいですか」
「夜も?」
「焚き火のそばなら、明るいので。布が動く気がします」
フィオナは少し考えて、うなずいた。
「場所代は昼の分に入れとく。火から三歩は離してね。去年、布に火の粉が飛んで泣いてた店があったから」
「三歩ですね。ありがとうございます。カイルさんのお休みも、なくなっちゃいましたけど」
「……え?」
「最後の夜、お休みにしてたんです。お二人でって。でも、夜の市を出すなら番が要るので、働いた日に書き直しました。カイルさんもそれでいいって」
フィオナはリナの顔を見た。それから、入口の脇で待っているカイルのほうを見た。
カイルは、天井の梁を見つめていた。
「カイル」
「……何だよ」
「それでいいって、言ったの」
「言った」
「へえ……」
フィオナは口元に手をやった。肩が、小さく震えている。
カイルは梁から目を下ろさなかった。耳のあたりが、少し赤いようだ。
(喧嘩かな?)
祭りの夜を一緒に過ごすはずだったのに、雇い主の都合で潰れたのだ。怒られても仕方がない。
「あの……フィオナさん。夜の市が早く片付いたら、カイルさんはすぐお返ししますので」
フィオナは、とうとう机に突っ伏した。
売り台の脇に、小さな板を立てた。
麦でも受けます。組合の枡で量ります。
自分の字だ。板が小さくて、最後の「す」が端からはみ出した。
「はみ出してるぞ」
カイルが板を覗きこんだ。
「読めれば、いいんです」
「『量りま』で終わってるように見える」
「……量りま、まで読めれば、す、は分かりますよ」
最初の客は、昨日のおかみだった。
背中に麦の袋を背負って、坂を下りてきた。板の字を口の中で読んでいる。
「……本当かい」
「本当です」
「後から、やっぱり銭で、なんて言わないね」
「言いません。量るのは、組合の枡です。おかみさんの目の前で量りますよ」
おかみは背中の袋を、売り台の前に下ろした。
「布、1反」
「30枚です。1枡、1.8枚で受けます」
暗算した。30を1.8で割ると、16枡と少し。半端な枡は量れない。
「15枡と、残りの3枚を銭でお願いします」
「3枚ならあるよ」
おかみの袋の口を開けて、検定枡に麦を流しこむ。
乾いた麦が、さらさらと木の底を打つ。日なたの干し草に似た、少し甘い匂いが立った。
枡の縁より少し高く盛り上がったところを、棒でならす。すっと引いたつもりが、途中で引っかかって、麦が何粒かこぼれた。
(昨日の、倉庫の番頭さんみたいにはいかないよね)
「あんた……枡慣れてないね」
「袋で数える商いばかりだったので」
「そこの角、棒を寝かせて引くんだよ。立てると引っかかる」
言われたとおりに、棒を寝かせて引いた。今度はこぼれなかった。
一枡。二枡。量るたびに、空の木箱に移していく。おかみは、自分の指を折って数えていた。
十五枡。
「ほんとに十五枡で、布一反かい」
「はい。15枡と、3枚です」
銭で3枚を受け取って布を渡した。おかみは布を胸に抱えて、しばらく売り台の前から動かなかった。
「孫がね、冬に生まれるんだよ」
誰に言うともなく、おかみは言った。
「おしめの布が、足りなくてさ」
「……一反あれば、足りますか」
「足りる。足りるよ」
それから、坂の上のほうへ声を張り上げた。
「ここ、麦で買えるよ!」
広場のほうから、笛と太鼓の音が坂を下りてくる。どこかで栗を焼いているらしく、香ばしい煙が風に混じった。
昼前には、売り台の前に麦の袋を担いだ人が並んでいた。
塩を二包みと、針を一本。布を半反。糸を三かせ。昨日、値段を訊いて戻していった人たちが、袋を担いで戻ってくる。
「嬢ちゃん!一枡ぐらいおまけしな。祭りなんだから」
腰の曲がった爺さんが、麦の袋を叩いた。
「おまけはしません。その代わり、枡も一粒もおまけしません」
「なんだそりゃ」
「ちゃんと、すりきりで量ります」
爺さんは、しばらくリナの顔を見ていた。
「……ふん。仲買人の店より、愛想がねえな」
そう言いながら、袋の口を開けた。
量って、ならして、木箱に空ける。木箱に空けるたびに、細かな麦の埃が日の光の中に舞い上がって、ゆっくり落ちてきた。
木箱に十枡たまるごとに、カイルがマルタさんに借りた空き袋へ詰め直して、荷台に上げる。
「麦の袋なら祭りの荷より軽いな」
「祭りの荷は角があるので」
「そういう問題か?」
「そういう問題です。角のある荷は、肩に食いこみます」
カイルの額に、汗がにじんでいた。
その少しあとに、灰色の袋を抱えたゲルダが坂を下りてきた。
「麦で、買えるのかい」
「はい」
ゲルダは、空の袋を抱え直した。
「……あたしゃ、売る分は一昨日全部売っちまったよ」
それだけ言って、来た道を引き返していった。
鐘が一つ鳴ったあと、坂の上から砂色の頭が下りてきた。
ノアだった。何も言わずに、詰め終わった麦袋の端を持った。
「ノアさん。倉庫のお仕事は?」
「休みっす。……少しだけ」
「じゃあ、手伝い、一枚でいいですか」
「……っす」
ノアは麦袋を肩に担いだ。担いで、荷台の前で一度止まった。
肩の上の袋を、ちょっと揺すってみている。
「同じ袋なのに、枡の数が違うっす」
「すみません、針は二本で……え?」
リナは次の客の針を数えていた。二本。銅貨2枚。
「袋ごとに、詰め方が違いますから」
針を渡しながら、返した。
農家の袋は、一つずつ大きさも詰め方も違う。口のところまで押しこむ家もあれば、縛りやすいように余らせる家もある。袋の数で麦は数えられない。だから枡で量るのだ。
「そうじゃなくて……親方のとこで、量ると――」
ノアは何か言い足そうとして、そこで止まった。鐘が鳴った。
「あ。……行かなきゃ」
ノアは麦袋を荷台に下ろすと、銅貨を受け取って、坂の上へ戻っていった。
親方のとこで量ると、何なのか。訊こうとしたときには、次の客が袋を下ろしていた。
昼を過ぎたころ、荷台の麦袋が六つになった。
検定枡で60枡。108枚分。師匠が書いた上限に、届いた。
板を伏せた。
「もう受けないのか」
カイルが、伏せた板を見下ろした。
「六袋までって、師匠と決めたので」
「まだ並んでるぞ」
「並んでても、です」
日が傾くと、高原の風は急に冷たくなった。
石垣の影が、道の上で長く伸びていく。広場では、男たちが荷車で薪を運びこんで、背丈より高く積み上げていた。明日の夜の焚き火の分だ。
夕方になっても、麦の袋を担いでくる人はいた。
「今日は、もう麦では受けられないんです。すみません」
肩の袋を下ろしかけていた男は、袋を担ぎ直して、坂を上っていった。
マルタの宿の部屋で帳面を締めた。
二日目。銭で70枚と少し。麦で、108枚分。合わせて178。
初日と合わせて、274。
明日は最終日で、夜には焚き火の市がある。去年の最終日くらい売れれば、祭りの三日で、荷の半分を少し超える。
超えたところで、まだ線の上だ。
それでも昨日の夜より、帳面の数字はまっすぐ前を向いている。
窓の板戸を少し開けると、冷えた夜気が流れこんできた。空は高く澄んでいて、星が多い。広場のほうに、薪の山の黒い影が見える。
窓の下に、荷台が見える。宿の明かりが、積み上げた麦袋の口を照らしていた。
袋の口には、量った枡の数を白墨で書いてある。
10。10。10。10。10。10。
六つの「10」が並んでいた。いずれ仲買人の店で、銭に変える数だ。
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