第14話 焚き火の夜
「麦では、もう受けられません。すみません」
祭りの最終日の昼前、そう言うのは三人目だった。
売り台の脇の板は伏せたまま。それでも麦の袋を担いでくる人は途切れない。
三人目は、日に焼けた中年の農婦だった。
「なんだい、もう終わりかい」
「昨日のうちに、決めた分まで受けてしまいました」
「せっかく担いできたのにねえ」
農婦は袋を担ぎ直しながら、残念そうに言った。
「嬢ちゃんの枡は気前がいいって、村で評判だったのに」
「……気前、ですか」
「同じ袋でも、ここで量ると多いんだってさ。隣のうちのかみさんが言ってたよ」
それだけ言って、農婦は坂を上っていった。
(多い……?)
昨日のおかみの声が、耳の奥でよみがえる。『あんた……枡慣れてないね』
棒を寝かせて引くのは教わった。それでも、倉庫の番頭さんみたいにすっとは引けない。棒が引っかかるたびに、縁から麦をこぼしていたのかもしれない。
(枡を軽く数えてたなら、損をしてたのはうちのほうだ)
そうすると60枡と書いた六つの袋が、本当は60枡より少ないことになる。
「気前がいいって言われて困ってる商人、初めて見た」
カイルが、塩の箱の向こうから笑いながら覗きこんでいた。
「気前は、帳面に書けません」
「書けたらどうなるんだ」
「たぶん、赤字の欄に書く事になります」
カイルは笑ったけれど、リナは笑えなかった。帳面の、昨日の麦の行を指でたどる。60。
昼の客は、銭で買える人だけになった。塩と針がぽつぽつ出て、布は一反。昨日の勢いはもうサッパリ。
日が落ちると、広場の薪の山に火が入った。
最初は細い煙だったのが、すぐに炎になって、背丈より高く積んだ薪を舐めるように上っていく。火の粉が夜空へ昇っては消えた。笛と太鼓が鳴りはじめ、羊肉を焼く煙と脂の匂いが広場いっぱいに広がっている。
火の明かりが、集まった人の顔を赤く照らしていた。
売り台は、フィオナに言われたとおり火から三歩離して組んだ。
「三歩って、誰の三歩だよ」
「フィオナさんの三歩だと思います」
「あいつ、歩幅狭いぞ」
人の流れが落ち着いたころ、そのフィオナが来た。
組合の腕章は外していて、宿の前掛けもしていない。髪に小さな赤い紐を編みこんで、祭りの晩の格好をしている。
「リナちゃん、ちゃんと三歩離したわね。えらいえらい」
「カイルさんが、もう半歩下げました」
「でしょうね」
フィオナは売り台の端に手をついて、リナの顔を覗きこんだ。
「ねえ。店番、私がやっとくから。二人で火のほう、行っておいでよ」
「え?」
「せっかくの祭りの晩よ。一回くらい、火のそばまで行ったっていいでしょ」
「でも、値段は人に任せられません」
「値段なら書いてあるじゃない、そこに」
「書いてないお客さんも来ます。まとめて買うから負けてくれとか、半反だけ切ってくれとか……」
フィオナは何か言いかけて、額に手を当てた。それから、観念したように息を吐いた。
「あのね、リナちゃん。私とカイル、そういうんじゃないから」
「……え」
「ずっと言おうと思ってたんだけど。領都の宿で、ひと冬、顔を合わせてただけ。肩紐を繕ってあげたのも、見てられなかったからよ」
リナはフィオナを見て、それからカイルを見た。カイルは火のほうを向いていた。
「……じゃあ、お休みは要らなかったんですね」
フィオナは長いため息をついて、リナの頭越しにカイルの背中を見た。
「あんたも大変ね」
カイルは何も言わなかった。
「じゃ、私は火のほう行ってくる。一人で」
フィオナは手をひらひら振って、人の輪の中へ消えていった。
火の明かりの下で、布が売れた。
昼に値段を訊いて戻していった客が、もう一度布を広げる。炎に透かすと、深い茶色の布が赤みを帯びて、昼よりずっと上等に見えた。
(火の色だと、染めが映えるんだ)
覚えておこうと思った。来年は、夜に出す布を奥から一枚、手前に移してもいい。
夜のうちに布が二反出た。糸と針も少しずつ。
人の波が引いたころ、カイルが紙の包みを持って戻ってきた。中から湯気が上がっている。
「焼き栗。半分やる」
返事をする前に、包みの半分が手のひらに押しつけられた。熱い。
「いくらでし……」
訊きかけて、やめた。
「……ありがとうございます」
カイルは売り台の端に腰を下ろして、栗の皮をむきはじめた。リナも、その隣の木箱に座った。
火が鳴っている。薪がはぜるたびに、火の粉が高く上がった。
「豆の残金、払えそうか」
「たぶん、払えます。でも、払ったら手元がほとんど残らないと思います」
栗を一つ、口に入れる。甘い。
「それに、砦の帳面の端に、8って書いたままなんです」
「8?」
「補給局の指示は、毎月160袋でした。届いてたのは152袋。残りの8袋は、繰り越しって書いてあるのに、一度も届いてなくて」
「どこ行ったんだ」
「分かりません。分からないから書いておきました」
カイルは栗の皮を指で弾いた。
「なんで、そこまで数えるんだ」
「数えてないと、なくなっても気づけないので」
カイルは少し黙ってから、火のほうを見たまま言った。
「傭兵団にいたころはさ、稼ぎは全部まとめて、皆で分けてた。誰がいくら取ったかなんて、数えたこともない」
「揉めませんでしたか」
「揉めたよ。しょっちゅう」
それ以上は言わなかった。手首の赤い布を、親指で一度だけなぞる。
「俺は、数えるのが苦手でさ」
焚き火の向こうで、誰かが歌いはじめた。
「……でも、あんたが数えてるのを見てるのは、嫌いじゃない」
リナは栗の皮をむく手を止めた。
護衛を始めて、もうすぐひと月になる。帳面の仕事にも慣れてきたのだろう。カイルは、塩の包みの数も間違えない。
「そう言ってもらえると、助かります」
カイルは何か言いかけてやめた。
薪の山が一つ崩れて、火の粉が夜空へ一斉に昇った。広場から歓声が上がった。
宿に戻って、帳面を締めた。
最終日と夜で、166枚。三日で、440。荷の売値の五割と半分ほど。
半分は越えた。けれど、ブリュックで豆の残金を払えば、手元に残るのは少しだけ。
窓の外から、まだ笛の音が聞こえている。
翌朝、麦袋を三つだけ荷車に積んで、倉庫へ向かった。
残りの三つは、宿の物置に置いてきた。まず半分を売って、値段と量り方を確かめてからにしたい。
祭りが明けても、倉庫の前には荷馬車の列ができていた。リナの荷車は小さいので、列の端で待たされる。
砂色の頭が、麦袋を担いで倉庫から出てくる。ノアだった。リナに気づいて、足を止めかける。
その時戸口の脇で枡を据えている番頭が、ちらりとノアを見た。ノアはそのまま、目を伏せて通りすぎていった。
「次」
ようやく番が回ってきた。カイルが三つの袋を枡の前に下ろす。番頭は袋の口の白墨の「10」を一瞥して、何も言わずに口を開けた。
麦が流れこむ。棒が一度、すっと縁を走る。速い。何千回も同じことをしてきた手だ。
「一、二、三……」
数を読み上げる声に合わせて、帳場の若い男がペンを走らせる。リナも、自分の帳面に指を折って数えた。
「……三袋で、二十八枡と半分」
指が止まった。
「あの」
番頭が顔を上げた。
「うちで量ったときは、30でした。組合の枡で」
「組合の枡ね……」
番頭は顔色を変えなかった。棒を枡の縁に立てかける。
「嬢ちゃん、削りすぎたろ」
「……え」
「祭りの売り台で、客の前で量ったんだろ。慣れない手だと、棒が引っかかって縁からこぼす。一枡で一握り足りなきゃ、十枡で半枡になる。こっちは毎日何百枡と量ってるんだ」
返す言葉が、すぐには出てこない。
倉庫の奥から、恰幅のいい男が出てきた。上等な羊毛の上着。仲買人だ。
「やあ、ベルクの旦那のところの。何か揉めてるのかね」
「いえ……数が、思っていたのと違ったので」
「枡は秋に検めたばかりでね。組合の焼印もある。それに、うちの番頭の手は、町で一番正確だよ」
仲買人は愛想よく笑って、帳場の男に目で合図した。
「二十八枡と半分。一枡1.8枚で、51枚だ」
銅貨が、帳場の机の上に数えて置かれた。51枚。リナはそれを数え直して、腰の袋にしまった。
「他にあるなら、持ってくるかね」
「……今日は、ここまでにします」
荷車を引いて、倉庫を出た。
気前がいいと評判だった枡。昨日、棒が引っかかってこぼれた麦。一枡で一握り。
(多めに量ってたのは、私のほう?)
帳面を開く。昨日の麦の行の「10」の隣に、28枡半と書いた。
自分の字なのに、どこか信用できない。
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