第15話 すり切り
宿の裏庭は、まだ暗かった。
井戸の脇に木箱を置いて、その上に組合の検定枡を載せる。昨日の夕方、もう一日分の貸し賃を払って借り直してきたものだ。物置から出した麦袋が三つ、足もとに並んでいる。
吐く息が白い。棒を握った指先がかじかんで、うまく力が入らなかった。
「本当に来るのか、あいつ」
カイルが井戸の縁に腰かけて、あくびを噛み殺した。
「来るって言ってました」
昨日の夕方、倉庫から帰るノアを呼び止めて頼んでおいた。ノアは返事の代わりに、小さくうなずいただけだったけれど。
裏木戸がきしんだ。砂色の頭が、戸の隙間から覗く。ノアは庭を一度見回してから、するりと入ってきた。
「おはようございます」
「……っす」
ノアは枡と麦袋を見比べて、手袋を外した。
「量り方、見せてほしいんです。倉庫で、番頭さんのを毎日見てますよね」
「見てるっす。毎日」
「私の量り方、どこが悪いか教えてください」
リナは麦袋の口を開けて、枡に麦を流しこんだ。縁より少し高く盛ったところを、棒でならす。棒は寝かせて。おかみに教わったとおりに。
途中で、やっぱり引っかかった。縁から麦が何粒かこぼれる。
ノアは黙って見ていた。それから指を一本折った。
「高いとこから、落としてるっす」
「高いところ?」
「袋を持ち上げすぎ。麦が跳ねて、枡の中で、あっちこっち寄るんで。そしたら、縁の山がでこぼこになる」
二本目の指が折られる。
「枡、揺すらない。叩かない。叩くと、麦が沈んで、たくさん入っちゃう」
「叩くと、多く入るんですか」
三本目。
「棒は、寝かせて、手前から奥。一回で引く。二回引くと、二回目で削れるっす」
ノアは枡を空けて、袋の口を縁すれすれまで下げた。麦が、さらさらと静かに流れこむ。縁を越えて小さな山ができたところで、袋を起こす。棒を寝かせて手前から奥へ。
山がなくなって、麦の面がまっすぐになった。こぼれた麦は一粒もない。
「番頭さんは、こう。……おれのは、番頭さんより遅いっす」
遅いと言うけれど、迷いのない手だった。何千回も見てきた手を、自分の手でなぞっている。
「やってみます」
袋の口を下げる。静かに流す。揺すらない。棒を寝かせて、一度。
まっすぐになった。
カイルが地面を覗きこんだ。
「こぼれてないぞ」
一枡。二枡。量ったぶんを木箱に空けていく。ノアが指を折って数えている。リナも、帳面の端に線を一本ずつ引いた。
一袋目、十枡。
二袋目も、十枡。
三袋目はノアに量ってもらった。ノアの手で、十枡。
三袋で、30枡。
リナは帳面の線を数え直した。30本。
(こぼしてたのなら、丁寧に量った今は、30より少なくなるはず)
30のまま。
なら、量り方のせいではない。祭りの売り台で量ったときから、この三袋は30枡だったことになる。
「やっぱり、同じ袋なのに……」
言いかけて、ノアを見た。
ノアは目を逸らした。手袋をはめ直して、枡の縁についた麦の粒を、指で一つずつ払っている。
「ノアさん。この前、何か言いかけてましたよね。親方のとこで量るとって」
「……おれ、親方のとこで働いてるんで」
それだけだった。
ノアは手伝い賃を受け取ると、頭を一つ下げて、裏木戸から出ていった。鐘はまだ鳴っていなかった。
戸が閉まってから、カイルが言った。
「あいつ、何か知ってるな。言ったら仕事がなくなるって顔だ」
「……顔で分かるんですか」
「たぶんな。昨日、倉庫で番頭に睨まれてたろ」
リナは枡の麦を袋に戻した。
「無理には訊きません」
日が昇ると、組合の受付には、もうフィオナが座っていた。
「おはよう、リナちゃん。枡、もういいの?」
「はい。ありがとうございました」
枡を返して、貸し出しの帳に返した印をもらう。それから少し迷ってから訊いた。
「フィオナさん。組合の枡って、ずれることはありますか」
「ずれる?」
「量れる量が、変わるとか」
フィオナはペンを置いて、首をかしげた。
「組合にはね、元の枡っていうのがあるの。奥の部屋に、鍵をかけてしまってある。秋の検めの日に、町じゅうの枡をそれと比べて、合ってたら焼印を押すのよ」
「貸し出しの枡も、ですか」
「もちろん。どの枡も同じ日に同じように比べてるわ。世話役の人たちが立ち会って」
「検めは、年に何回ですか」
「一回。秋だけよ。次は来年の秋」
リナは指を折った。今は秋の終わり。次の検めまでほぼ一年ある。
「じゃあ、秋に合っていた枡は、来年の秋まで、合っているはずなんですね」
「そういうことになってるわね」
フィオナはまたペンを取って、帳面に向かった。
石の倉庫の中は、外より寒かった。
天井が高い。梁の下に麦袋が壁のように積み上がっている。乾いた麦の匂いと、埃の匂い。奥のほうは、昼でも暗かった。
「やあ、来たね。麦の値の話かな」
仲買人は帳場の机から立ち上がって、愛想よく迎えた。
「はい。それと、残りの麦のことで」
「残り分かい。今の買い値で引き取るよ。一枡1.8枚。祭りが明けたから、来月にはもう少し下がるかもしれないがね」
カイルは入口の脇で、倉庫の中を見回していた。
麦袋の山の向こう、奥の隅に、木箱がいくつか積んである。麦袋とは違う、板を釘で打ちつけた箱だ。
箱の側面に、荷印が焼き付けてあった。黒い線が、三本。
(見たことない荷印だ)
リナは帳面の端にその形を描き写した。三本松の馬宿で、車輪の一本線を写したときと同じように。
「あれは、預かり物でね」
仲買人が、リナの視線の先を見て言った。
「通りすがりの荷だ。倉庫が広いとこういう頼まれごとも多くてね。預かり賃は、麦より割がいいくらいだよ」
それきり、仲買人は箱の話をしなかった。
戸口の脇では、番頭が黙って枡を拭いていた。秋に検めたという、焼印のある枡だ。
「あの」
リナは帳面を閉じた。
「この麦を組合の枡とこちらの枡で、並べて量ってみてもいいですか」
仲買人の笑顔は、崩れなかった。
「並べてね」
「祭りでうちが量った数と、昨日こちらで量った数が違ったので。どちらの量り方が悪いのか、知りたいんです」
「気持ちは分かるがね、嬢ちゃん」
仲買人は、帳場の机に手をついた。
「この店の枡は、秋に組合の検めを通っている。焼印もある。組合の枡と並べて量るのは、組合の検めの役目だよ。売り買いのたびに枡を並べていたら、市が回らない」
穏やかな声だった。言っていることにも、筋は通っている。
「それとも、組合の焼印を疑うのかね」
「……いいえ」
それ以上は、言えなかった。
「残りの麦は、いつでも持っておいで」
仲買人はそう言って、次の客のほうへ向き直った。倉庫を出ると、昼の日差しがまぶしかった。
しばらく黙って歩いてから、カイルが言った。
「あの親方、ずっと笑ってたけど」
「はい」
「枡の話のときだけ、笑い方が硬かった。……たぶんな」
リナは帳面を胸に抱えた。
「顔は、帳面に書けないので」
「知ってるよ」
カイルは、それ以上言わなかった。
夜、一階の師匠の部屋で帳面を開いた。
「残りの三袋を自分で量り直しました。ノアさんに、量り方を教わって」
師匠は寝台の端に腰かけて、帳面を受け取った。
「三袋で、30枡です。丁寧に量っても減りませんでした。昨日、仲買人の店で量ったら28枡半だったのは、私の量り方のせいじゃないと思います」
師匠の指が、数字の行を一度たどった。
「組合の枡も、仲買人の枡も、秋に検めを通っています。どっちが正しいのか、枡と枡を比べるだけじゃ決められません。並べて量らせてほしいって頼んだら、それは組合の検めの役目だって断られました」
師匠は何も言わなかった。
「明日から、残りの荷を持って村を回ります」
返事の代わりに、師匠は次のページをめくった。帳面の端に描き写した、三本の線のところで指が止まる。
「それは、倉庫の隅にあった荷の印です。預かり物だそうです。見たことのない印だったので写しておきました」
師匠の指が、その線の上から動かなかった。
灯の芯が、小さく鳴った。
「その荷は、どこへ向かっていた」
リナは顔を上げた。
師匠のほうから何かを訊くのは珍しかった。いつもは、こちらが話すのを黙って聞いて、問いを一つ返すだけだ。
「……分かりません。訊いていません」
師匠は、それ以上何も言わなかった。帳面を閉じてリナに返す。それから寝台のほうへ向き直って、外套を脱ぎはじめた。
廊下に出て戸を閉める前に、もう一度だけ帳面を開いた。師匠が自分から何かを訊いたのは、いつ以来だろう。
灯の下で、三本の線が黒く見えた。
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