第16話 竿秤
羊毛の匂いが、朝の冷気の中に重く沈んでいた。
組合の奥の量り場は、まだがらんとしている。羊毛の梱を担いだ男たちが来るのは、日が高くなってからだ。梁から下がった大きな竿秤だけが、薄暗い中で静かに揺れていた。
「麦を吊るすのかい。羊毛じゃなくて」
量り場の係の老人が、竿秤の下で腕を組んだ。白い眉の下の目が、リナの足もとの麦袋を見ている。
「はい。三袋だけです」
「羊毛の秤だぞ、これは」
「重さは、羊毛でも麦でも同じだと思います」
老人は鼻を鳴らした。
昨夜、宿の台所でフィオナに頼んだ。麦の袋を、羊毛の秤で量らせてもらえないか。フィオナは目を丸くして、それから「量り場の爺ちゃんに訊いてみる」と言った。組合の誰もがそう呼んでいるのが、この老人らしい。
「フィオナの頼みじゃなきゃ、断ってるところだ」
「量り賃は、お支払いします」
「一枚でいい」
銅貨を一枚渡すと、老人はそれを前掛けの物入れにしまって、竿の目盛りを指でなぞった。
「四十年、ここで羊毛を吊るしてきたがな。麦を吊るしてくれと言ったのは、嬢ちゃんが初めてだ」
「すみません」
「謝るこたあない。秤は、吊るされたもんの目方しか言わん。羊毛だろうが麦だろうが、嬢ちゃんだろうが」
「私は吊るさないでください」
老人は、ほんの少しだけ口の端を上げた。それから鉤を下ろした。カイルが麦袋の口を縛り直して、鉤にかける。
錘が、竿の上を滑っていく。
リナは帳面を開いて待った。
枡と枡を比べても、どちらが正しいかは決められなかった。どちらにも焼印がある。どちらも秋に検めを通っている。
けれど麦の袋は、ブリュックでもオットーさんの粉屋でも、重さで売り買いされている。王国のどこでも、麦一袋は40kg。重さなら、どちらの枡の肩も持たない。
「……四十」
老人が錘の位置を読んだ。
「袋の分を引いて、四十と、ほんのちょっとだな」
二袋目も、四十。三袋目も、四十。
リナは帳面に書き記した。検定枡で十枡。40kg。
(王国の一袋と、同じ……)
検定枡は、合っている。なら、仲買人の枡は?
同じ十枡の袋を、仲買人の店では九枡半と数えた。40を九枡半で割る。ペン先で計算を書いて、もう一度確かめた。
一枡で、4.2kgほど。
組合の枡より、仲買人の枡のほうが大きい。
「もう一つ、分かることがあります」
リナは帳面から顔を上げた。
「麦は、痩せてません。痩せた麦なら、同じ十枡でも40kgに届かないはずです」
「土が痩せたってのは、嘘か」
老人が眉を上げた。
「嘘っていうか……麦のせいじゃない、ってことだと思います」
入口のほうで、戸がきしんだ。フィオナが顔を出して、竿秤の下に並んだ麦袋とリナの帳面を見比べる。
「どうだった?」
「検定枡の十枡で、40kgでした。王国の一袋と同じです」
「それって……」
フィオナは帳面の計算を覗きこんで、しばらく黙った。顔から笑いが消えて小声でリナに話を振った。
「……仲買人さんの枡が、大きいってこと?」
「そう考えています」
量り場の外で、羊毛の荷車が軋む音がした。カイルは入口の脇に立って、通りのほうを見ていた。
午後は、荷を背負って村を回った。
ハーゼルから北へ、石垣の続く道を歩いて半日足らず。刈り入れの終わった畑には、霜に焼けた麦の切り株が並んでいる。家々の軒先には薪が積み上がって、どの煙突からも細い煙が上がっていた。冬支度の匂いがする。
村の井戸端に、女たちが集まっていた。
「あら、行商さん。こんな村まで来たのかい」
「祭りの残りの荷です。塩と針と、糸もあります」
「針はいいねえ。冬は繕いものばっかりだから」
女たちが荷の前にしゃがみこむ。針を手に取って、穴を空に透かしてみる人。糸の色を、自分の袖と見比べる人。祭りの売り台とは違って、ここでは誰も急いでいない。
塩を三包みと、針が少し売れた。それから、見覚えのある灰色の袋が目に入る。
ゲルダだった。井戸の縁に腰かけて、桶を足もとに置いている。
「……あんたかい。麦払いの」
「こんにちは。塩、いかがですか」
「家にまだある」
ぶっきらぼうな言い方だった。それでも、ゲルダはリナの荷を横目で見ていた。
リナは、朝の帳面の数字を思い出していた。40。痩せていない麦。
言わなければ、と思った。
「ゲルダさん。ゲルダさんの麦は、痩せていません」
女たちの話し声が、少し小さくなった。
「今朝、組合の秤で量ったんです。組合の枡で十枡の麦が、ちゃんと一袋分の重さがありました。仲買人さんの枡が大きいんです。何年も、少なく量られてたんだと思います」
「……何だって?」
「量り方は、倉庫で毎日見てる子に習いました。その子が量っても、十枡でした」
カイルの手が、後ろからリナの肘にかかった。
遅かった。ゲルダの顔が、赤くなった。
「あたしの麦に、けちつける気かい」
「けちじゃなくて、数字が――」
「土が痩せたんだよ。それでいいんだ」
ゲルダは立ち上がって、桶を持ち上げた。水が縁からこぼれて、地面を黒く濡らした。
「よそ者の小娘に、何が分かるっての」
井戸端が、しんとしていた。
女たちの一人が、隣の女に小声で言うのが聞こえた。
「仲買人さんの耳に入ったら……」
ゲルダは振り返らずに、自分の家のほうへ歩いていった。塩は買わなかった。
帰り道は、石垣の影がもう長かった。
リナは帳面を胸に抱えたまま、黙って歩いた。カイルも、しばらく何も言わなかった。
「……どうして、怒ったんでしょう」
ようやく、それだけ言えた。
「数字は合ってるんです。ゲルダさんは損をしてたんです。だから、教えてあげたかったのに」
カイルは少し考えてから、口を開いた。
「怒ってるっていうより、怖いんじゃないか」
「怖い?」
「来年も、あそこに売るしかないんだろ。この辺の麦は」
リナは足を止めた。
「仲買人の枡が大きいって、皆の前で言われたらさ。あの婆さん、来年どんな顔して倉庫に並べばいいんだってな……」
答えられなかった。
井戸端の女たちの顔を思い出す。仲買人さんの耳に入ったらと言った人の、声の低さ。
ゲルダは、自分が損をしていると知りたくなかったのではない。知ったところで売り先は変えられない。それを皆の前で言われたら、損をしている自分を皆の前で認めることになる。
(私は、数字を教えたつもりだった)
けれど井戸端に置いてきたのは、数字だけではなかったのかもしれない。
帳面を開く。朝の竿秤の行に、自分の字で「40」と書いてある。
数字は、合っている。合っているのに、何かを間違えた気がした。
翌朝、村へ向かう途中で、倉庫の前を通った。
荷馬車の列は、今日も途切れていない。戸口の脇で、背の低い番頭が枡を拭いていた。
拭く手が止まった。
番頭は、何も言わずにリナを見ていた。リナが通りすぎるまで、ずっと。
カイルが、一度だけ倉庫のほうを振り返った。
「……荷役の中に、あいつがいないな」
その日の夕方、売り歩きから戻ると宿の裏口の段に誰かが座っていた。
膝を抱えて、砂色の頭をその上に乗せている。
「さっきから、ずっとそこにいるんだよ」
マルタさんが、台所の窓から小声で言った。
「ノアさん」
ノアは顔を上げた。目が赤かった。けれど、泣いた顔ではなかった。
「……親方に、もう来なくていいって」
リナの手から、荷の背負い紐が滑った。
「村で、倉庫の子が組合の枡で量ったって話が出てるって。番頭さんが、それおまえだろって」
昨日の井戸端で、自分が言ったことだった。
倉庫で毎日見てる子に習いました。その子が量っても十枡でした。
「ノアさん、私……」
ノアは首を振った。
「いいっす。嬢ちゃんのせいじゃないっす」
そう言って、膝の上で指を折りはじめた。一本、二本。何を数えているのかは分からなかった。
リナは、何も言えなかった。ごめんなさいも、どうしようも喉の奥で止まったまま出てこない。
裏口の戸が開いて、マルタさんが湯気の立つ椀を持って出てきた。
「ほら。冷えるだろ、そんなとこに座ってたら」
ノアは椀を受け取って、両手で包んだ。すぐには口をつけられなかった。
「……晩ごはん、食べてないんですか」
「親方のとこで、昼に出るんで。いつもは」
今日からもう出ない。
リナは背負っていた荷を下ろして、ノアの隣の段に腰を下ろした。カイルは何も言わずに、裏口の柱にもたれた。
ノアは、少しずつ椀をすすった。湯気が、暗くなりかけた空へ消えていく。
裏口の向こうで、マルタさんが竈の火をいじる音がした。
ノアは空になった椀を膝に置いて、その縁を指でなぞった。
「……売るほうの枡、空でも重いんだ」
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