第17話 重い枡
ノアは、台所の隅で黙ってパンをかじっていた。
昨夜、マルタさんが厩の二階を空けてくれた。薪割りと水汲みを手伝う代わりに、しばらく泊まっていいという。朝の水汲みはもう済んだらしく、ノアの手袋は濡れて、竈の脇に干してあった。
リナは、ノアの向かいの腰掛けに座った。
「ノアさん」
ノアがパンから顔を上げる。
「祭りの二日目、麦の袋を運んでもらったとき、同じ袋なのに枡の数が違うって言ってくれましたよね。私、袋ごとに詰め方が違いますからって、ちゃんと聞かずに返しました」
ノアは何も言わなかった。
「それに、井戸端で、ノアさんのことを言ってしまいました。ごめんなさい」
「……いいっす」
ノアはパンを皿に置いた。
「いいって言ったっす。昨日」
「はい。でも、今日は最後まで聞かせてください」
リナは帳面を開いて、ペンを持った。
「急がないので」
ノアはしばらく、帳面と、リナの手のペンを見ていた。それから、膝の上で指を一本折った。
「……婆さんの麦」
「ゲルダさんの?」
「祭りの前の日。夕方。番頭さんが量って、十一袋で、百四枡と半分」
リナもその場にいた。倉庫の前で、番頭が読み上げるのを聞いた数だ。
「婆さんの麦、その日の最後の荷だったんで。倉庫の手前に、一山にしといた」
二本目の指。
「次の朝、その山を、おれが集荷商さんの袋に詰めたっす」
「ノアさんが詰めたんですか」
「詰めるのは、おれ。量るのは、番頭さん。そのときは、売るほうの枡で」
「売るほうの枡……」
「奥の棚に置いてあるっす。売るときだけ、番頭さんが出してくる。買うときは使わない」
三本目の指が折られた。
「百十五枡と、半分」
リナのペンが止まった。
「同じ山なのに、十一枡違うっす」
ノアは、折った指を見下ろしていた。三本。それから指を開いて、もう一度折り直した。間違えていないか確かめるように。
「番頭さん、叩いたりしてないっす。揺すってもない。どっちの枡でも同じ手で量ってたっす」
「同じ手で……」
「売るほうの枡持つと重いんすよ。空でも。底が……厚いみたいで」
「外から見たら、どうですか。買うほうの枡と違いは?」
ノアは少し考えて、両手で四角を作ってみせた。
「おんなじっす。大きさも、焼印も。並べたらどっちがどっちか分かんない。持ったら、分かるけど」
それで、昨日の夕方の言葉になったらしい。
リナは帳面に数字を並べた。
ゲルダの十一袋。検定枡で量れば、110枡のはずだ。一袋十枡で竿秤で確かめたとおり、一袋40kg。
買うときは、104枡半。110より少ない。買いの枡が大きいからだ。竿秤で分かったことと合う。
売るときは、115枡半。110より多い。
(売りの枡は……小さい)
同じ麦の山が、仲買人の倉庫に入るときは少なく数えられて、出ていくときは多く数えられる。
(損をしていたのは、麦を売った農家だけではなかったんだ)
仲買人から麦を買った側も、枡の数ほどの麦を受け取っていない。
リナは帳面の新しい行に書いた。
ゲルダさん、十一袋。買い、104枡半。売り、115枡半。量ったのは番頭さん。数えたのはノアさん。
ノアが首を伸ばして、その行を覗きこんだ。
読めないはずの字を、ノアはしばらく見ていた。指で、最後のほうの字を、紙に触れないようにそっとなぞる。
「……これ、おれの名前っすか」
「はい。ノアさんが数えた数なので」
ノアは何も言わずに、帳面から目を離した。皿のパンを取って、またかじりはじめた。
(同じ袋なのに、枡の数が違う。……あのとき、最後まで聞いていれば)
祭りの二日目から、もう六日経っていた。
昼前に荷を背負って村へ出る。
ノアがついてきて、荷の半分を担いでくれた。手伝い賃は一日一枚。マルタさんの宿にいるあいだだけとリナが決めた。
「おまえ、それ重くないのか」
カイルが、ノアの背中の荷を覗きこんだ。塩の箱と、布の束。リナが担ぐつもりだった分を、ノアは黙って全部背負っていた。
「倉庫の麦袋より、軽いっす」
「麦袋と比べるなよ」
カイルは笑って、ノアの荷から布の束を一つ抜き取ると、自分の肩に載せた。ノアは何か言いかけて、小さく頭を下げた。
石垣の続く道は、今日も霜が溶けて黒く濡れている。遠くの斜面で、羊の群れが白くかたまって動いていた。
「そういえば」
しばらく黙って歩いていたノアが、ぽつりと言った。
「暇、出される前の晩。柳橋まで使いに出て、帰りが遅くなって」
「夜道を、一人でですか」
「慣れてるんで。……その帰りに、街道を、荷車が上ってったっす。灯り、点けないで」
カイルが、少し後ろから口を挟んだ。
「夜の荷車か」
「五台か、六台。馬の口に、布が巻いてあった」
「夜道を急ぐ荷車なんて、珍しくもないだろ。市の前は、どこも荷が詰まってるしな」
「寒い夜に、大変ですね」
リナはそう言って、荷の背負い紐をかけ直した。頭の中では、まだ二つの枡の数が並んでいた。104枡半と、115枡半。
ノアは、それ以上その話をしなかった。
翌日の夕方、売り歩きから戻ったその足で、組合に寄る。
受付のフィオナは、ちょうど帳面を閉じるところだった。
「あら、リナちゃん。今日はどこまで行ってきたの?」
「北の村を、二つです。……フィオナさん、検め帳を、もう一度見せてもらえませんか」
「また?」
フィオナは眉を上げたけれど、厚い帳面を出してくれた。
仲買人の店の名を探す。あった。
その下に、枡の番号が二つ並んでいる。番号も、焼印の印も別だ。どちらにも、秋の検めの日付と立会人の名が書いてある。
「お店の枡が、二つ載ってますね」
「そうね。枡を二つ持ってるお店は、珍しくないわよ。一つが割れたときの替えとか、混む日に二人で量るとか」
「二つとも、秋の検めを通ってるんですね」
「通ってなきゃ、焼印は押さないもの」
「割れたりしたら、どうするんですか。検めのあとで」
「直して使うわよ。枡は高いもの。桶屋さんに頼んで、板を替えてもらうの」
「直したあとは、また検めるんですか」
「……さあ。来年の秋に、まとめて見るんじゃないかしら」
フィオナは首をかしげた。考えたこともないという顔だった。
二つとも、元の枡と比べて合っていた。合っていたはずの二つの枡が、今は違う数を出している。
どうして、とは口に出さなかった。答えを持っていなかったから。
フィオナは帳面を棚に戻しながら、別の帳面の行を指で叩いた。
「そうそう。仲買人さんのとこから一番たくさん買ってる集荷商さんいるでしょ。今月、大きいお仕事を取ったのよ。補給局の買い付け」
「補給局の?」
「麦よ。行き先はラーベ砦。冬の追加の分だって」
リナの手が、帳面の上で止まった。
「砦の隊長さんが、冬の備えを積み増すって決めたんだって。ブリュックから坂を上げてくるより、砦から近いハーゼルの麦をまとめて買ったほうが早いらしいわよ」
届けの紙を、フィオナが見せてくれた。品は麦。袋の数。納める先、ラーベ砦守備隊。
集荷商は、仲買人から麦を買う。仲買人は、売りの枡で量って渡す。
売りの枡の十枡は、検定枡の十枡より少ない。
袋の数は、きっと合う。十枡で一袋と数えて、送り状にもそう書かれる。砦の門の帳面にも、トマスさんの受領帳簿にも同じ数が並ぶ。
ただ、一つ一つの袋が軽い……
バルド隊長の太い指が、発注書の数字を叩いていたのを思い出した。門の前で、財布の底の銅貨2枚を握っていた若い兵の手も。
「リナちゃん?」
「……ありがとうございました」
組合を出ると、もう日が落ちかけている。
宿の部屋で、帳面のいちばん端を開いた。
砦を出る前の晩に書いた、8。その隣は、まだ空いている。
運ぶ途中の穴は、ふさがったはずだった。三本松の粉屋の仕入れ帳と八枚の届けで。
三本松で一袋も抜かれなくても、砦の冬の麦は袋に詰める前から軽い……
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