第18話 写し
組合の戸口に、紙が一枚貼られていた。
朝の売り台を組む前に、検定枡の貸し出しを頼みに来たところだった。まだ日は低く、組合の建物の影が通りの石畳を半分ほど覆っている。その影の中で、紙の前に人が三、四人立ち止まっていた。リナに気づくと、皆なんとなく目をそらして、一人、また一人と離れていった。
――ベルクの行商の売り台、ならびに組合の枡の貸し出しを、当分のあいだ差し止める。貸し枡に細工の疑いあり。世話役一同。
字を二度、読み直した。三度目は、読まなくても頭に入っていた。
行商の信用は、目に見えない。秤に載せることも、枡で量ることもできない。師匠が十何年もかけて、この町の祭りに通い、一包みずつ塩を売り、ツケを取りはぐれても怒らずに積んできたもの。それが、紙一枚でどれだけなかったことになるのか、リナには見当もつかなかった。分かるのはたった今離れていった人たちの背中が、もう戻ってこないかもしれないということだけだった。
(細工……?)
受付の机で、フィオナが立ち上がった。いつもの含み笑いはなかった。腕章の位置を直そうとして、直せていない。
「リナちゃん……ごめんね。今朝、まだ暗いうちに世話役さんたちが来て、決めて、貼っていったの。私が来たときには、もう貼ってあって」
「細工って、何のことですか」
フィオナは、戸口の外の人目を気にするように声を落とした。
「祭りのとき、あなたの売り台だと同じ麦が多く量られるって噂、あったでしょ。気前がいいって。あれを逆に取られたの。組合から借りた枡に何か細工をして、多く量ってみせて、客を釣ったんじゃないかって。それと、北の村の井戸端で、世話役さんのお店の枡のことを、根拠もなく悪く言いふらした、って。……言い出したのは、ディールさんよ。世話役の一人の」
仲買人の名だった。
「私じゃ、止められないの。受付は、世話役さんたちの決めたことを貼って、受け付けるだけだから」
フィオナは唇を噛んで、それから、もっと小さな声で付け足した。
「……その代わり、世話役さんたちのお茶、今日は一日ぬるいのにしとくから」
「それ、仕返しになるんですか」
「なるわよ。ディールさん、熱いお茶じゃないと機嫌が悪いの。」
笑うところではないのに、少しだけ肩の力が抜けた。
売り台は出せない。枡も借りられない。残りの荷は、まだ三割以上ある。売り歩きに回る村でも、この噂はすぐに追いついてくるだろう。それに、あの紙には、ベルクの名前が書いてある。師匠の名前だ。
「それから、もう一つ」
フィオナが、受付の帳面の端を指で叩いた。
「集荷商さんの砦向けの麦ね。発つ日が決まったわ。冬前の市の、次の朝ですって。今朝、届けが出てたの」
冬前の市は、二日後だ。その次の朝には、あの小さい枡で量られた麦の袋が、砦へ向かって坂を上っていく。袋の数だけはきちんと揃えて、送り状にも門の帳面にも、同じ数を並べて。
組合を出ると、角の売り台の場所には、もう別の店が荷を広げていた。
宿の台所の隅で、ノアが三つ目のパンに手を伸ばしていた。
マルタさんが鍋をかき回しながら、横目でそれを見ている。竈の火が、二人の横顔を赤く照らしていた。
「よく食べる子だね。薪割り三人分は食べてるよ」
「三人分、割ったっす」
「……そうかい」
リナは卓で帳面を広げたまま、張り紙の文句を頭の中で何度もなぞっていた。細工の疑い。根拠もなく言いふらした。どれも、半分だけ本当で、半分だけ嘘だ。枡が多く量られたのは本当で、細工をしたのは嘘。井戸端で仲買人の枡のことを言ったのは本当で、根拠がないのは嘘。
「枡、直しに出してたっす。毎年」
パンをかじりながら、ノアが言った。
リナは顔を上げる。
「直しに?」
「秋の検めが済んだら、すぐ。二つとも、南の村の桶屋さんまで運ぶんす。おれが背負って」
ノアは指を一本折った。
「去年も、その前も。直しに出すって、番頭さんが」
リナは帳面を閉じた。
「ノアさん。その桶屋さんまで、案内してもらえますか」
川沿いの道を下りながら、ノアはときどき指を折っていた。
「さっきから、何を数えてるんだ」
カイルが訊く。
「橋っす。南の村まで、小さいのが四つ」
「そんなの数えて、何になるんだ」
「帰りに、あといくつか分かるっす」
カイルは少し考えてから、真面目な顔でうなずいた。
「……それは、便利だな」
二人のやり取りを背中で聞きながら、リナはずっと同じことを考えていた。
秋の検めが済んだら、すぐに直しに出す。割れたから直すのなら、割れたときに出せばいい。検めのすぐあとに、毎年、二つとも。そんなに都合よく、枡は割れるものだろうか。
(割れたんじゃなくて、検めが済むのを待ってた……?)
そこまで考えて、首を振った。まだ、親方の口から何も聞いていない。聞く前から答えを決めてかかるのは、井戸端でゲルダに話したときと同じだ。あのとき数字は合っていた。合っていたのに、何かを間違えた。
川の水は冷たそうな色をしていて、岸の葦はもう枯れて白い。
南の村は、ハーゼルから川沿いに下って半日ほどのところにあった。
桶屋の仕事場は、村の外れの水車小屋の隣だ。水車の回る音が、壁越しに低く響いている。戸を開けると、削った木の甘い匂いが鼻をくすぐった。床には鉋屑が白く積もって、壁際には作りかけの桶や樽がいくつも並んでいた。
リナの目は、まず樽の箍に行った。どれも同じ幅で、同じ間隔で締めてある。仕上がった桶の縁は、指でなぞっても引っかかりがない。手を抜かない職人の仕事だった。
その代わり、売り物の棚は寂しかった。並んでいるのは小さな手桶がいくつかだけで、大きな樽は作りかけのまま、木の地肌をさらしている。
「ディールさんとこの枡のことかい」
親方は手を止めずに言った。白髪まじりの太い腕で、樽の箍を木槌で叩いている。
「毎年、秋に直しに来る枡のことです。どんな直しだったか、教えていただけませんか」
「客の頼まれごとは、人に話すもんじゃねえ」
木槌の音が、一つ大きく鳴った。
「よその商人が、よその店の枡のことを訊きに来る。どうせ、ろくな話じゃねえだろ。商売敵の弱みを探しに来たか、喧嘩の種を拾いに来たか。どっちにしても、うちの知ったことじゃねえ」
返す言葉がなかった。親方の言うとおりだ。リナだって、うちの客が何を買ったか見知らぬ人に訊かれても、答えない。
ノアが、リナの後ろから一歩前に出た。
「……親方。去年も、その前も、おれが運んできたっす」
親方は木槌を止めて、ノアを見た。
「なんだ、ディールさんとこの小僧か。今日は枡は背負ってねえのか」
「もう、あそこの小僧じゃないっす」
「暇を出されたのか」
親方は木槌を作業台に置いて、深く鼻を鳴らした。
「あそこも、いよいよ金がねえんだな。人を減らして、払いを渋って。……直し賃だよ。この二年、一枚ももらってねえ。倉庫を建て直して金がないから、来年まとめて払うって、番頭が毎年同じことを言いやがる。こっちは、木も膠も前払いで仕入れてるってのにな。あの店の枡は、底の板がいい樫でなきゃだめだって言うから、わざわざ山向こうから取り寄せてるんだ。」
親方は、壁際の作りかけの樽を顎で示した。
「あの樽も、ほんとなら先月には仕上げて売ってる。樫を買う金が足りなくて、箍が締められねえんだ」
リナは少し考えた。それから、帳面を胸の前で持ち直した。
「親方。その直し賃、まとめて請求の書付にしませんか」
「書付?」
「日付と、品と、どんな直しをしたかと、額。三年分をそろえて、一枚にまとめて書くんです。口で来年まとめてって言われるのと、紙で日付と額を突きつけるのとでは、払うほうの重さが違います。それに、きちんとした書付なら組合に出せます。世話役の店でも、組合の受付に出された請求は、知らないとは言えないと思います」
親方は、リナの顔をしげしげと見た。
「……あんた、そういうのが書けるのか」
「行商の帳面は、ずっと私が付けてるので。請求の書付も、取りはぐれのツケの書付も、何枚も書いてきました」
「書き賃は」
「要りません。その代わり、書付に要る行を私の控えに写させてください」
親方はしばらく黙っていた。それから棚の上から、分厚い帳面を下ろした。表紙は木屑と手垢で黒ずんでいる。
「書いとかないと、どこに何を頼まれたか忘れちまうからな。うちのかかあが、うるさいんだ」
奥の戸が、勢いよく開いた。
「聞こえてるよ!」
前掛けをした小柄なおかみさんが、腰に手を当てて立っていた。
「うるさく言わなきゃ、あんた、書いたって読めない字で書くじゃないか。去年の請求なんか、あたしにも読めなかったよ。」
親方が首をすくめた。おかみさんは、リナの手の下書きの紙を覗きこんで、目を丸くする。
「あら、きれいな字。……あんた、この子に全部書いてもらいな」
(オットーさんの家と、同じだ)
親方は太い指で頁をめくって、ディール商会の行を探していった。
――ディール商会、枡二つ。一つ、底板を削り直し少し下げる。一つ、内に板一枚底の補強。直し賃未収。
去年の秋だ。その前の年も、同じ二行に「未」。さらにその前の年には、「底板を削り直し」の一行しかなく、そこには「済」と書いてあった。
日付は、どの年も、秋の検めの数日あとだった。
リナは、綴じていない紙を一枚抜いた。請求の書付の下書きを書きながら、親方の帳面の行を一字ずつ写していく。日付も、言葉も、親方の字のくせまで。
ペンが、二年前の「内に板一枚」のところで、一度止まった。
(底を下げれば、深くなる。内に板を一枚足せば、浅くなる)
ノアが言っていた。売るほうの枡は、空でも重い。底が厚いみたいで。
顔を上げないようにして、続きを写した。親方は、自分が何を見せたのか分かっていない。直し賃を取りはぐれた職人の、愚痴の続きのつもりでいる。分からないままのほうが、この人のためにもいい気がした。
書付を清書して、親方に渡す。写しの控えは四つに畳んで、肩掛け鞄の内側にしまった。
「これを、組合の受付に出してください。受付のフィオナさんなら、ちゃんと受けてくれると思います」
親方は書付を手に取って、何度も読み返した。おかみさんが横から覗きこんで、指で額のところをなぞっている。
「……読みやすいな。うちのかかあより、字がきれいだ」
「聞こえてるよ」
それから親方は、壁際の小さな手桶に目をやったリナに気づいて、片眉を上げた。
「欲しいのか」
「いくらですか」
「2枚。……いや、書き賃の代わりだ。持ってけ」
「お代は払います。書付は、写させてもらったぶんのお礼なので」
親方は、初めて声を出して笑った。
「変な商人だな、あんた」
リナは銅貨を2枚、作業台の上に置いた。
帰りは、親方の手押しの荷車を借りた。
買った手桶と売れ残りの荷を積んで、カイルが引く。ノアが後ろを押した。日が傾くのが早い。川沿いの道を外れて石垣の続く細い道に入るころには、空が赤く染まりはじめていた。
道は狭かった。片側は背丈ほどの石垣で、片側は家畜の柵。荷車一台が、やっと通れる幅しかない。石垣の上には枯れた蔦が絡まって、その向こうの空だけが、やけに明るく見えた。
荷車の車輪が、ぬかるみに取られてきしむ。どこかで烏が一羽鳴いて、すぐにやんだ。
カイルの足が止まった。
「……止まれ」
声が、さっきまでと違っていた。低く平らで余計なものが何も混じっていない。
前のほうの石垣の陰から、男が三人出てきた。三人とも、手に棍棒を持っている。真ん中の背の低い男は、手ぬぐいで顔の下半分を覆っていた。
けれど、その立ち方に見覚えがあった。両足を少し開いて、重心を前に置く。毎日、枡の前に立って、何千回も棒を引いてきた人の立ち方だ。
「嬢ちゃん。その帳面、置いていきな」
くぐもった声だった。
「帳面と、桶屋で書いた紙。それだけでいい。それさえ置いてけば、怪我はさせねえ。」
リナは帳面を胸に抱えた。指先が冷たくなっていく。心臓の音が、耳のすぐ裏で鳴っていた。
「……これは、うちの帳面です」
「だから、置いてけって言ってるんだ」
男たちが、一歩ずつ近づいてくる。ぬかるみを踏む音が、やけに大きく聞こえた。
カイルが荷車の柄から手を離した。剣の柄に手をかける。けれど、抜かなかった。鞘ごと腰から外して、両手で握る。
「抜かないのか」
後ろの男が笑った。
「抜いたら、あんたらが死ぬか、俺が縛り首だ。どっちも割に合わないだろ」
カイルは荷車をぐいと横に押して、道をふさいだ。荷車の向こうとこっちで、男たちは一人ずつしか前に出られない。石垣と柵に挟まれた細い道を、カイルは最初から選んで歩いていたのかもしれなかった。
「ノア。リナを連れて下がれ」
最初の男が、荷車を回りこもうとした。カイルの鞘がその手首を打つ。棍棒が石垣に当たって、乾いた音を立てた。
二人目が荷車を乗り越えようとする。手桶が転げ落ちて、道に跳ねた。
「こっち!」
ノアがリナの袖をつかんだ。柵の板が一枚、外れかけているところがある。ノアはそこに肩を入れて、板を押し広げた。
「ここ、抜けられるっす。夏に羊が逃げた穴」
リナは柵の隙間に体をねじこんだ。肩掛け鞄が引っかかる。帳面を抱えたまま、膝から柵の向こうへ転がり出た。枯れ草の匂いと、冷たい土の感触が頬に当たる。
振り返ると、手ぬぐいの男がカイルの脇をすり抜けて、こちらへ向かってくるところだった。
リナは鞄から灯を出した。火打ち石を打つ手が震える。三度目で、ようやく火が点いた。
灯を高く掲げて、振る。
「誰か! 誰か来てください! 盗っ人です!」
声が石垣に跳ね返った。ハーゼルの町の木戸は、この道の先だ。
手ぬぐいの男の手が、柵の隙間から伸びてきた。リナの鞄の口に指がかかる。鞄の中から、写しの紙が一枚引きずり出された。
「返して!」
紙の端をつかむ。引き合った拍子に、紙が二人の手から離れた。
写しの紙は、ひらりと舞って、柵の下のぬかるみに落ちた。
男の靴が、その上を踏んだ。
「おーい! 何事だ!」
道の先で、灯がいくつも揺れた。町の夜回りだった。
手ぬぐいの男が舌打ちをする。
「……引け!」
三人は石垣の向こうの暗がりへ駆けていった。足音が遠ざかる。
リナは柵につかまったまま、しばらく動けなかった。胸に抱えた帳面が、自分の鼓動で揺れている。
「……顔、見たっす」
ノアが、息を切らしながら言った。
「真ん中の人。手ぬぐいがずれた。番頭さんだった」
カイルが荷車の向こうから戻ってきた。左腕をかばっている。
「怪我は」
「私は、平気です。カイルさんは」
「打たれただけだ。骨は折れてない」
夜回りの男たちが駆け寄ってきた。カイルが短く事情を話す。
リナは、柵につかまっていた手を離そうとして、離せなかった。指が、自分のものではないみたいにこわばっている。一本ずつ、板から引きはがした。手のひらに、柵のささくれが刺さっていた。
それから、柵の下のぬかるみにしゃがみこんだ。
泥の中から、写しの紙を拾い上げる。
靴の跡が、斜めに一つ。字は泥に溶けて、ほとんど読めなかった。日付も、親方の字のくせも、もうどこにもない。
町の木戸までの道を、夜回りの灯に挟まれて歩いた。誰も、あまり口をきかなかった。ノアは転がった手桶を拾って、黙って荷車に戻していた。底に泥がついているのを、袖で何度も拭っている。
「……それ、もう泥だらけですよ」
「でも、嬢ちゃんが2枚払った桶っす」
ノアは、それ以上拭くのをやめなかった。
マルタさんが、カイルの腕に布を巻いていた。
「骨は大丈夫だね。でも、二、三日は重いものを持つんじゃないよ」
「重いもの持つのが仕事なんだけどな」
「なら、二、三日は仕事を休むんだね」
宿の台所の灯の下で、カイルの腕は肘の上から赤黒く腫れていた。リナは卓の向かいで、それをじっと見ていた。棍棒を受けたのは、リナの帳面を守るためだった。
「カイルさん。今夜の分の手当ですけど」
「……今それ言うか」
「夜の呼び出しの手当は、まだ決めてなかったので。今日は昼から働いた日で、そのまま夜までかかりました。夜の分も、働いた日と同じに付けます。それと、薬代は」
「いいって。金の話は、あとでいいだろ」
「あとにすると、忘れます。忘れると、帳面が合わなくなります」
「俺の腕より、帳面の心配か」
「腕の心配は、マルタさんがしてくれてるので」
マルタさんが、布の端を結びながら吹き出した。
リナは帳面を開いた。開いてから、手が止まった。
腫れた腕を見る。数字を書くより先に、言わなければならないことがある気がした。
「……守ってくれて、ありがとうございました」
カイルは少し驚いた顔をして、それから目をそらした。
「仕事だからな」
「はい。だから、手当は付けます」
「そこは譲らないのかよ」
マルタさんが、二人の顔を見比べて、何も言わずに台所の奥へ引っこんだ。
部屋に戻って、泥の紙を卓に広げた。
乾きかけた泥の下に、ところどころ字の端が残っている。「内に板」の「内」の字だけが、かろうじて読めた。
紙は、奪われる。踏まれれば、読めなくなる。戸が叩かれた。マルタさんだった。手に、小さく畳んだ紙を持っている。
「さっき、組合の世話役さんが来てね。あんたに渡してくれって」
紙を開く。短い文だった。
――明日の昼、組合の広間にて申し開きを聞く。ベルクの行商のリナ、出頭のこと。
マルタさんは、紙とリナの顔を見比べた。
「……世話役さん、三人で来たよ。ディールさんも一緒に」
お読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」「リナを応援したい」と思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




