第19話 申し開き
番頭が捕まったのは、翌朝のことだった。
知らせに来たのは、ゆうべの夜回りの男だ。宿の台所の戸口で、帽子を手の中で回している。夜通し歩き回っていたのか、目の下が黒ずんでいた。
「ヨルクって番頭だ。倉庫の裏の小屋にいたところを代官所の連中が押さえた。そっちの坊主が顔を見たって言うんでな。本人は親方は知らねえ、自分が勝手にやったの一点張りだ。紙さえなけりゃ、旅の小娘の言いがかりで済むと思っただとさ」
ノアが、竈の脇で小さくうなずいた。
男が帰ってから、リナは卓の上の呼び出しの紙を見下ろした。
明日の昼、組合の広間にて申し開きを聞く。
番頭は捕まった。けれど、組合の戸口の張り紙はまだ貼られたままだ。番頭が棍棒を持って待ち伏せたことと、リナの売り台が差し止められていることは、別の話として扱われている。世話役の店の番頭が勝手にやったことで、世話役が訴えた話は変わらない。そういう理屈になるのだろう。
(紙一枚で済むと思われてた)
それは、少しだけ悔しい。
「行くのか」
カイルが、吊った腕を布ごとさすりながら訊いた。
「行かなかったら、細工をしたって認めたことになる気がします」
「行ったら、向こうの庭で戦うことになるぞ。世話役ってのは、組合の中じゃ偉いんだろ。こっちは旅の行商で、向こうは町で一番の仲買人だ。広間に並んでる顔は、たぶん全部向こうの知り合いだぞ」
「……はい」
リナは帳面を閉じた。
「でも、数字は、どこで並べても同じなので」
カイルは、しばらくリナの顔を見ていた。
「……あんた、喧嘩のときだけ顔が商人になるよな」
「喧嘩じゃないです。申し開きです」
「どっちでもいいけどさ。腕がこれだから、殴り合いになったら逃げるぞ」
「組合の広間なので、なりません」
「組合の広間だから、なるかもしれないんだよ」
組合の広間は、石の床から冷えが上がってくる部屋だった。
高い窓から斜めに差しこむ昼の光の中に、羊毛の細かな埃が浮いている。壁には歴代の世話役の名を刻んだ板が並び、奥の長卓は蝋を何度も塗り重ねた深い色をしていた。商いの揉めごとを裁く部屋だ、とフィオナが前に言っていた。旅の商人が呼ばれることは、めったにないとも。
人は、思っていたより多かった。
奥の長卓に、世話役が三人並んでいる。真ん中が、上等な羊毛の上着の仲買人だった。受付の机には、フィオナが帳面を広げて座っている。広間の後ろには、町の人たちが壁に沿って立っていた。羊毛の店の主人、陶器の店のおかみさん、祭りで布を値切った爺さんの顔もある。
その中に、灰色の袋を抱えたゲルダがいた。
目が合った。ゲルダは、すぐに視線をそらした。
(来てるんだ)
仲買人が呼んだのだろう、とすぐに分かった。井戸端で怒っていた人を、井戸端の話の証人に立てる。商いの手としては、いちばん確かな手だ。それが分かってしまうのが少し嫌だ。
「辺境伯家のアルベルト様が、同席を望んでおられます」
戸口で、代官所の男が告げた。紋章の外套のアルベルトが入ってきて、長卓の端に用意された椅子に座る。
「市場の税の調べの続きです。口は挟みません。聞かせてもらいます」
仲買人は愛想よく頭を下げた。
「これはありがたい。辺境伯家の方に、組合の公正を見ていただけるとは!」
それから、リナのほうへ向き直った。声の調子は、倉庫で麦の値の話をしたときと少しも変わらなかった。指には、帳場で長年ペンを握ってきた人のたこがある。上着の袖口だけが、ほんの少し擦り切れていた。倉庫を建て直した借金の話を、リナは思い出した。
「さて、ベルクのところの嬢ちゃん。わしはね、ベルクの旦那とは十年以上の付き合いだ。旦那の顔に泥を塗るような真似はしたくない。だから、あんたの言い分も、ちゃんと聞くつもりでいる。そのうえで訴えは三つだ」
指を一本立てる。
「一つ。祭りのあいだ、あんたの売り台では同じ麦が多く量られると評判だった。うちの番頭が量れば九枡半の袋が、あんたの売り台では十枡になる。村じゅうで噂になって、麦を担いだ客があんたの売り台に列を作った。その分、うちに来るはずだった客が減った。組合から借りた枡に何か細工をして、多く量ってみせて、客を釣ったんじゃないか」
二本目の指。
「二つ。北の村の井戸端で、組合の世話役の店の枡を根拠もなく貶めた。仲買人の枡が大きい何年も少なく量られてきた、と。村の女衆の前でだ。うちは、この町で三十年麦を量ってきた店だよ。その枡を、旅の娘がよそで悪く言う。聞いていた者がいる」
仲買人が、広間の後ろを振り返った。
「ゲルダさん。あんたもその場にいたね。あんたの麦のことで、この娘が言いふらしたんだったね」
ゲルダの肩がわずかに揺れたが、何も答えなかった。
「三つ。うちが暇を出した荷役の小僧と組んで、うちの店の評判を落とそうとした。その小僧は、うちの枡の量り方を毎日見ていた。暇を出された恨みもあるだろう。そういう者の言うことを根拠に、店を悪く言うのは商人のやることじゃない」
ノアが、リナの後ろで身を固くした。
広間の人たちが、ひそひそと囁き合う。筋は通っていた。外から来た小娘が、町で一番大きい仲買人の店を根拠もなく悪く言っている。そう聞こえる。三つの訴えのどれにも、本当のことが半分ずつ混ぜてある。
半分だけ本当の話は、まるごとの嘘より始末が悪い。嘘なら、嘘だと言えばいい。半分本当の話に言い返そうとすると、本当の半分まで自分で認めることになる。枡が多く量られたのは本当で、細工をしたのは嘘。井戸端で言ったのは本当で、根拠がないのは嘘。どこから切っても、言い訳に聞こえる気がした。
手の中にあるのは、帳面と、泥で読めなくなった写しの紙だけだった。桶屋の帳面は南の村の棚の上。二冊の帳簿は、組合と代官所の棚の中。どれも、今この広間にはない。
(今ここで出せるのは、ここにある物だけ……)
広間を見回す。長卓の奥に、元の枡がしまわれている部屋の戸があった。量り場は、この建物の裏手だ。
リナは、長卓の前に一歩出た。
「一つめから、お答えします」
声が少し震えた。息を吸い直す。
「組合の貸し枡を、量り場の竿秤で量っていただけませんか。組合の元の枡と並べて、目の前で。細工がしてあるなら、元の枡と合わないはずです。麦の重さも、変わるはずです。私が細工をしたかどうかは、私の言葉より、枡と秤のほうが正直に言ってくれると思います」
世話役の一人が、眉を上げた。仲買人が何か言いかけたけれど、アルベルトが先に口を開いた。
「口は挟まないと言いましたが、それは見てみたいですね」
量り場の爺ちゃんが呼ばれた。奥の部屋から元の枡が運び出され、リナが使っていた貸し枡と、長卓の上に並べられる。
爺ちゃんは元の枡に麦を量り入れ、それを貸し枡に移した。広間の後ろの人たちが、首を伸ばして長卓を覗きこむ。麦が貸し枡の縁まで上がって、ぴたりと止まった。一粒もこぼれない。
それから爺ちゃんは貸し枡で十枡を袋に詰めて、裏手の量り場から運ばせた竿秤に吊るした。錘が、竿の上を滑っていく。広間じゅうが、その錘の動きを目で追っていた。
「……四十。袋の分を引いて、四十と、ほんのちょっとだ」
爺ちゃんは錘から手を離して、仲買人のほうを見た。
「王国の一袋と同じだよ。この枡に、細工はねえな」
それから錘を戻しながら、長卓のほうへ顎をしゃくった。
「だいたい、この子に細工する暇なんかあるもんか。量り場に来たときも、ずっと帳面に何か書いてたぞ」
広間が、少しざわめいた。
仲買人は、表情を変えなかった。
「なら、量り方だろう。祭りの売り台で、慣れない手で量れば、縁からこぼす。うちの番頭も、そう言ったはずだ」
「量り方は、確かめ直しました。こぼさずに量っても、同じ数でした」
「誰が、それを見た」
「……ノアさんと、うちの護衛です」
「暇を出した小僧と、雇われた護衛か」
仲買人は肩をすくめた。
広間の人たちが、また囁き合う。リナは帳面を握りしめた。一つめは、半分しか崩れない。
「二つめは」
仲買人が促した。
リナは、広間の後ろを振り返った。ゲルダが、灰色の袋を抱えたまま立っている。
二つめに答える言葉は、ゆうべ一晩考えても見つからなかった。根拠はある。組合の秤で量った数字も、ノアの数も、桶屋の帳面の写しの泥のついた紙も。けれど、ゲルダの前でそれを並べたら、井戸端でしたことをもう一度するだけだ。
ゆっくりと、そちらへ歩いた。石の床に、自分の靴音だけが響く。壁際の人たちが、少しずつ道を空けた。
「ゲルダさん」
ゲルダは何も言わなかった。
「この前、井戸端で、皆さんの前でゲルダさんの麦の話をしました。組合の秤で量った数字を、早く知らせたくて。ゲルダさんは損をしてたんだから、知ったほうがいいと思って。……数字は合っていると、今も思ってます」
ゲルダの指が、袋の口をつかんだまま白くなっていた。
「でも、皆さんの前で言うことじゃありませんでした。ゲルダさんが、来年もあの倉庫に並ばなきゃいけないことを、考えてませんでした。損をしてるって皆の前で言われたら、損をしてる自分を、皆の前で認めることになる。そんなこと、少し考えれば分かったはずなのに。数字を教えたつもりで、ゲルダさんに恥をかかせました」
リナは頭を下げた。
「ごめんなさい」
広間が、しんと静まった。
長いあいだ、ゲルダは何も言わなかった。高い窓の光の中で、羊毛の埃だけがゆっくり動いていた。
それから、抱えていた灰色の袋の口を開けた。中から、木の棒の束を取り出す。細長い棒に、小刀で刻んだ線がびっしりと並んでいた。どの棒も、手の脂で黒く光っている。何年も同じ柱に掛けられて、何年も同じ手で刻まれてきた棒だ。
「……あたしの麦のことは、あたしが言うよ」
ゲルダは、リナの横を通りすぎて、長卓の前まで歩いた。棒の束を、蝋の光る卓の上に置く。
「うちの刻み棒だ。一本が一年。こっち側は、出した袋の数で、毎年十二本。一袋は種と冬の粥に残して、十一袋を売る。こっち側は、売った枡の数。十枡ごとに長い線、半枡は点」
節くれだった指が、刻みをなぞっていく。
「五年前は、110枡。次の年が108枡と半分。その次が107枡半。106枡半。去年は105枡半。今年は、104枡と半分」
広間の誰も、口を開かなかった。
「同じ畑で、同じ袋で、同じだけ詰めて、毎年一枡ずつ減る。おかしいと思ってたさ。思ってたけど、言ったって売る先は変わらない。うちの村から麦を一度に買ってくれるのは、あの倉庫しかないんだ。言えば、来年は買ってもらえないかもしれない。だから、土が痩せたってことにしてたんだよ。皆も、そうさ。皆、そういうことにしてた」
ゲルダは、仲買人をまっすぐに見た。
「あたしが井戸端で怒ったのは、この子が嘘をついたからじゃないよ。本当のことを、皆の前で言われたからさ。……あたしが黙ってた本当のことを、よそ者の小娘に先に言われたのが、癪だったんだよ」
仲買人の口元から、笑みが消えた。
「……世話役の皆さん」
アルベルトが立ち上がった。
「これは、この広間で決められることではないようです。帳簿を並べる必要があります。組合の『売り渡し帳』と、代官所の『買い入れの帳』を」
「アルベルト様、それは組合の――」
「世話役のあなたが困ることは、ないはずです」
アルベルトの声は、静かだった。
「ベルクの行商への差し止めは、帳簿を見終えるまで、辺境伯家の名で解きます。よろしいですね」
誰も、異を唱えなかった。
広間を出ると、冬の日差しが目にしみた。
張りつめていたものが、急に足から抜けていく。石段を一段下りたところで、膝が笑った。カイルが、吊っていないほうの手で肘を支えてくれた。
「……すみません」
「謝るとこじゃないだろ。勝ったんだから」
「勝ってません。まだ、帳簿を見てないので」
「あんたのそういうとこ、ほんと変わらないな」
組合の戸口では、フィオナが張り紙を剥がしていた。剥がした紙を、くしゃくしゃに丸めて、前掛けのポケットに押しこむ。
「お茶、今日はずっとぬるいままにしとくわね」
それから、片目をつぶってみせた。
代官の屋敷の奥の部屋は、帳簿の匂いがした。
壁一面の棚に、背の擦り切れた帳簿が並んでいる。卓の上には、アルベルトが自分で書いたらしい紙が何枚も重ねてあった。市場の税の、年ごとの数字。その余白に、細い字で小さな問いがいくつも書きこまれている。なぜ、この年だけ。誰が、いつ。
(この人も、数字を並べる人なんだ)
広間で張りつめていた肩が、少しだけ下りた。
卓に二冊の帳簿が並んだのは、日が傾きはじめたころだった。『売り渡し帳』は、フィオナが自分で抱えてきた。
リナは仲買人の店の行だけを、年ごとに帳面に写していった。アルベルトが卓の向かいで、それを黙って見ている。
三年前。買い入れ、19,000枡。売り渡し、18,800枡。売ったほうが少し少ない。倉庫で寝かせれば、ネズミや湿気で麦は減る。
二年前。買い入れ、18,500枡。売り渡し、19,450枡。
去年。買い入れ、18,000枡。売り渡し、19,100枡。
「……二年前から、逆になってます」
「去年の残りを、今年売ったのでは」
「一年だけなら、そうかもしれません。でも二年続けて千枡ずつ多いなら、残りは毎年千枡ずつ増えていくことになります。そんな倉庫は、ない気がします。それに二年前は、桶屋さんの帳面に、枡の内に板を一枚足したと初めて書かれた年です」
アルベルトは、並んだ帳簿と泥の紙を、端から端まで見た。
「それで、いくら?」
「……え」
「明日、これを市の広場で並べます。外れたら、私は組合の世話役たちに頭を下げる。あなたは、何を失いますか」
「師匠の名前と、この町の得意先です」
言ってから、リナは少し首をかしげた。
「アルベルト様は、何を失うんですか。頭を下げるだけですか」
「だけ、とは」
「頭を下げるのは、銅貨がかからないので」
部屋の隅で、代官のクレメンスがむせた。
アルベルトは一瞬だけ黙って、それから、ほんのわずかに口の端を上げた。
「辺境伯家の跡継ぎの頭は、そう安くはないのですよ」
「では、いくらですか」
「……それは、明日の結果を見てから決めましょう」
アルベルトは、少しのあいだリナを見ていた。
「広間で、あの農婦に謝ったのはなぜですか。帳簿の話の前に。あそこで謝れば、あなたが井戸端で間違えたと、皆の前で認めることになった。申し開きの場で、自分の誤りを先に認める者は、ふつういません」
リナは、少し考えてから答えた。
「数字は合っていても、言い方を間違えたので。……間違えたところを黙ったまま、合っているところだけ並べたら、帳簿をごまかすのと同じ気がしました」
アルベルトは何も言わなかった。窓の外で、日が沈みかけていた。
それから代官を振り返った。
「クレメンス。明日は冬前の市でしたね。その場で、辺境伯家の名において枡の検めを行います。組合の元の枡と、量り場の竿秤を広場へ。それから、南の村の桶屋へ、今夜のうちに使いを。帳面を持って、明日の朝までに来るように」
その夜、一階の師匠の部屋で、帳面を開いた。
今日のことを、順に話した。張り紙。申し開き。ゲルダの刻み棒。二冊の帳簿。明日の市。
「明日の市で、帳簿を並べます。辺境伯家の方の前で。仲買人さんの前でも」
「誰の名で言う」
「……ベルクの行商の、リナとして。師匠の名前で」
師匠は、しばらく黙っていた。
「外れたら、何を失う」
「師匠の名前と、この町の得意先です」
「それでも、言うか」
「言います。帳簿は、ごまかさないので」
師匠は帳面を引き寄せて、契約の欄の下に指を置いた。何も書かなかった。指を置いたまま、長いあいだ帳面を見ていた。
それから帳面を閉じて、リナに返した。
「寝ろ」
廊下に出ると、裏口のほうから足音が駆けてきた。ノアだった。息を切らして、厩の藁を髪につけたままだ。後ろから、カイルが片腕で灯を提げてついてくる。
冷えた廊下に、厩の干し草の匂いが流れこんできた。
「藁、ついてるぞ」
「あとっす。……嬢ちゃん」
「どうしたんですか」
「集荷商さんの荷車、倉庫の前で積みこみ始めてるっす。灯り点けて」
ノアは、指を一本折った。
「明日の夜明けに、出るって」
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