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第20話 冬前の市

夜明け前の町は、まだ真っ暗だった。


宿を飛び出すと、吐く息が白くちぎれて後ろへ流れていく。石畳には霜が降りていて、走るたびに靴底が滑りかけた。


「木戸は、おれが案内するっす!」


ノアが、反対の道へ駆け出しながら叫んだ。カイルが吊った腕のまま、その後を追う。


「時間を稼ぐだけでいい。止めるのは、あんたが連れてくる奴の仕事だ」


「はい!」


リナは広場の北へ走った。


眠っている町の中を、自分の足音だけが追いかけてくる。パン屋の窓だけが、もう赤く灯っていた。竈に火を入れる時刻だ。


倉庫の前を通りすぎるとき、灯りがいくつも揺れているのが見えた。荷馬車が三台。麦袋が高く積まれて、縄がかけられている。御者たちが馬に馬具をつけていた。


(三台……全部砦へ行く馬車?手遅れになる!)


代官の屋敷の門は閉まっていた。門番の詰所の戸を拳で叩く。


「ベルクの行商のリナです! アルベルト様に、急ぎでお伝えしたいことがあります!」


 


 


アルベルトは、外套を羽織りながら階段を下りてきた。髪がまだ少し乱れている。


「集荷商の荷車が、もう出ようとしています。予定より一日早く。夜明けに町の木戸から」


アルベルトの目が、一度だけ細くなった。


「先に出してしまえば、袋の中身は確かめられない、と」


「たぶん、そういうことだと思います」


アルベルトは、詰所の男に短く言った。


「馬を」


引かれてきた馬にアルベルトがまたがる。それから、鞍の上から手を差し出した。


「乗ってください。木戸まで走るより早い」


「……え」


「早く」


差し出された手をつかむと、驚くほど強い力で引き上げられた。気がつくと、鞍の後ろに座っていた。


「落ちないように、つかまっていてください」


馬が走り出した。リナは、紋章の外套の背中にしがみついた。馬に乗るのは、生まれて初めてだった。


(乗せてもらった分は、帳面のどの欄に付ければいいんだろう……)


木戸の灯りが見えてきた。


 


 


町の木戸では、カイルが門番と御者たちに囲まれていた。


「その馬、いい毛艶だな。御者の腕がいいんだろ。こんな夜明けに出るんじゃ、馬もかわいそうだ」


「……おだてても、出るもんは出るぞ」


「いやあ、だからさ。こっちの腕、見てくれよ。おととい、この先の道で棍棒を持った連中に襲われたんだ。夜明け前に荷車が出るなら、同じ連中が狙ってるかもしれないだろ?」


「そんな話、聞いてないぞ」


「だから今、話してるんだって。この子が、その三人の顔を見てる。な、ノア」


「……見たっす」


門番は顔見知りらしく、ノアの顔を見て渋い顔をしていた。


「ノアじゃねえか。お前、倉庫を暇に出されたって」


「出されたっす。でも、襲われたのは本当っす」


御者の一人が、苛立った声を上げた。


「どっちにしても、俺たちは出るぞ。親方に言われてるんだ」


そこへ、蹄の音が響いた。


アルベルトの馬が、木戸の前で止まった。カイルが顔を上げて、鞍の後ろのリナを見た。ほんの一瞬だけ、目が止まる。それから、何も言わずに視線を荷車へ戻した。


「辺境伯家のアルベルトです。この荷車は、辺境伯家の名において、ここで止めます」


「しかし、これは補給局に納める――」


「補給局に納める麦だから、止めるのです。袋を一つ、広場へ運びなさい。今日の市で量り直します」


御者たちが、しぶしぶ縄に手をかける。カイルが、門番の肩を軽く叩いた。


「門番さん。残りの荷車の縄に、木戸の封をしといてくれないか。あとで誰かが、いじっただのいじらないだの言い出さないように」


「封? そこまでするのか」


「するんだよ。俺は、腕がこれだからな」


 


 


冬前の最後の市は、祭りほどではないけれど人が多かった。雪の前に買えるだけ買っておこうという人たちで、どの売り台の前にも短い列ができている。干し肉を吊るした店、毛糸の束を積んだ店、蝋燭の店。空は低く曇っていて、山のほうから、もう雪の匂いのする風が下りてきた。


広場の真ん中に卓が一つ据えられていた。組合の元の枡と、量り場の竿秤。量り場の爺ちゃんが、その下に立っている。卓の向こうには組合の世話役たちと、代官のクレメンス。


そして、仲買人がいた。きのうの申し開きのときと同じ上着で、同じ愛想のいい顔をしている。


人垣の端に、見慣れた古い外套が見えた。


師匠だった。宿から広場まで、脚を引きずって歩いてきたらしい。誰にも声をかけず、石垣にもたれて立っている。


リナと目が合っても、何も言わなかった。うなずきもしなかった。


「辺境伯家の名において、市の枡を検めます」


アルベルトの声は、よく通った。


仲買人の店の者が、枡を二つ運んできた。爺ちゃんが元の枡で麦を量り、それを移す。一つ目、縁でぴたりと止まる。二つ目も。


「ご覧のとおり、合っておりますな。古いのは底が割れたんで、先週焚きつけにしましたがね」


広場の何人かが笑った。


(替えたんだ。やっぱり)


リナは卓の横に下ろされた麦袋を指さした。


「爺ちゃん、その袋を吊るしていただけますか」


木戸で止めた荷車から下ろした袋だ。集荷商が、仲買人の店で十枡と量ってもらって詰めた麦。


錘が竿の上を滑って、止まる。爺ちゃんが目を細めた。


「……三十八。袋の分を引いて、三十八だな」


広場が静かになった。


「組合の枡なら、十枡で四十です。きのう、組合の貸し枡で量っていただきました。この袋には十枡と書いてあるのに、二枡分足りません」


「待ちなさい」


仲買人の声が、初めて鋭くなった。


「その袋は、どこから来た。夜明けに、木戸で止めた荷車からだろう。その荷車のそばにいたのは誰だ」


仲買人は、カイルとノアを順に指さした。


「その娘の護衛と、うちが暇を出した小僧だ。きのうの広間で聞いたとおり、この娘はうちの店を目の敵にしている。小僧はうちを恨んでいる。護衛は金で雇われている。そういう三人が、夜明けの暗がりで、誰も見ていない荷車のそばにいた。袋を一つすり替えるくらい、わけもない。軽い麦を詰めた袋を一つ用意して、荷台に紛れこませればいいだけだ」


仲買人は、広場の人たちのほうへ両手を広げてみせた。


「わしは、三十年この町で麦を量ってきた。その三十年と、この三人の夜明けの話と、皆さんはどちらを信じますかな。すり替えていないと、誰が言える」


人垣が、ざわりと揺れた。


世話役の一人がうなずく。もう一人も、腕を組んでリナを見た。クレメンスが、困ったようにアルベルトの顔をうかがう。アルベルトは黙っていた。辺境伯家の名でも、町の人の目は押さえきれない。


リナの喉が、からからに乾いた。


(すり替えてない。でも、すり替えてないと証せるものが……)


帳面には、袋の数も重さも書いてある。けれど、夜明けの木戸で誰が何をしたかは、帳面のどこにも書いていない。数字は、数字の外のことまでは守ってくれない。仲買人は、そこを正確に突いてきた。三十年、帳場に座ってきた人の手だった。


石垣にもたれた師匠の外套が、目の端に映った。師匠は動かなかった。


「封なら、してあるぞ」


人垣の後ろから、太い声がした。木戸の門番だった。


「止めたときに、残りの荷車の縄には木戸の封をした。その護衛の兄ちゃんに言われてな。下ろした袋は、俺の目の前で、俺が縄を解いたやつだ」


門番は、懐から木戸の封の札を出して掲げた。


「荷車は、今も木戸に止めてある。封は一つも切れてねえ。疑うなら、残りの袋を全部吊るしてみりゃいい」


カイルは腕を吊ったまま、石垣にもたれて欠伸をかみ殺していた。


仲買人は、口を開いて閉じた。


リナは息を吸った。


「では、その袋を、ここで量り直しましょう。お店の、新しい枡で」


仲買人の目が、わずかに見開かれた。


「さっき皆さんの前で、元の枡と合うと確かめた枡です。その枡で量れば、袋の中の麦が本当は何枡あるか分かります」


アルベルトが、初めて口を開いた。


「異はありませんね」


仲買人は答えなかった。


爺ちゃんが袋の縄を解いて、仲買人の店の新しい枡に麦を流しこんだ。棒を寝かせて、一度で引く。木箱に空ける。


「一」


広場の誰かが、声に出した。


「二」


別の誰かが続く。


「三……四……」


数える声が、少しずつ増えていく。最初は数人だった声が、十人になり、二十人になる。干し肉を吊るしていた男も、毛糸の店の娘も、手を止めて数えていた。リナは、自分の唇も動いていることに気づいた。人垣の前で、ノアが指を折っていた。ゲルダが、刻み棒の束を抱えて、唇だけを動かしていた。


「……七……八……九……」


爺ちゃんの手が止まった。袋の底に残った麦を枡に移す。縁まで届かない。半分ほど。


「九枡と、半分」


広場が、しんと静まった。


十枡と書かれた袋が、仲買人自身の正しい枡で量ると、九枡半しかない。


「この袋を詰めたのは、お店の売りの枡です。売りの枡で十枡と数えた麦が、正しい枡では九枡半。……売りの枡が、小さかったんだと思います」


リナは帳面を開いた。指先が冷えている。それでも、数字だけははっきり分かった。


「集荷商さんの届けでは、砦に納めるのは150袋です。全部がこの枡で詰めてあったら、一袋で2kg、150袋で300kg足りません」


顔を上げた。


「ラーベ砦の兵は、二百人です。一人一日1kgの麦で、一日半の分になります」


門の前で、財布の底の銅貨2枚を握っていた若い兵の手を思い出す。汗で湿った銅貨。どうしても腹が減ったときのために、取っておいたんです、と言った声。


「砦では、今年の秋、兵の粥が薄くなりました。運ぶ途中で麦が抜かれていたからです。皆さんは、砦の兵がどんな顔で粥をすするか、ご存じないと思います。私は、門の前で見ました。財布の底の銅貨を数えて、パンを一つ買うかどうか迷っている兵を、何人も見ました。その穴は、やっとふさがったところです。配給も、やっと元に戻ったところです」


リナは、卓の上の九枡半の麦を見下ろした。


「その砦へ、この袋が、今朝発つところでした。袋の数は合っています。送り状にも、門の帳面にも、同じ数が並びます。誰も、袋の中を量りません。量らないまま、また粥が薄くなります。……誰も悪いことをしたつもりがないまま」


誰も、何も言わなかった。


アルベルトが、二冊の帳簿をクレメンスに開かせた。リナは三年分を読み上げる。三年前は、売った麦が少し少ない。二年前からは、売った麦が毎年千枡ずつ多い。南の村の桶屋の親方が人垣から出てきて、仕事帳を開き、問われるままに答えた。毎年、秋の検めのすぐあと。二年前から、内に板一枚。焼印の板には手を付けるな、と言われていた。


「……そういうことだったのか」


親方が、自分の帳面を見下ろして低くつぶやいた。


仲買人は、長いあいだ卓の上の袋を見ていた。


それから顔を上げて、世話役たちと、アルベルトのほうを向いた。声は、また穏やかになっていた。


「……分かった。今年の分は、うちで埋め合わせよう。農家にも、集荷商にも。砦に送る麦は、組合の枡で量り直して、足りない分はうちの倉庫から出す。組合の検めの決まりも、改めればいい。わしが世話役として、自分で言い出そう」


世話役たちの顔が、少しゆるんだ。


「考えてもみてほしい。ここで騒ぎを大きくして、うちの店が潰れたら、どうなる。この町で麦をまとめて買えるのは、うちの倉庫だけだ。来年の秋、北の村の麦は、どこへ持っていく? 担いで山を下りて、ブリュックまで売りに行くのか。ゲルダさん、あんたの村の麦も、売る先がなくなるんだよ」


ゲルダが、刻み棒を抱えた腕に力をこめたのが見えた。


「市の評判にも、組合の評判にも、辺境伯家の税にも、傷がつく。誰も得をしない。ここで手を打つのが、町のためだ。そうでしょう、アルベルト様」


アルベルトは答えなかった。リナのほうを見ていた。


リナは、帳面を胸に抱えた。


「罰のことは、私が決めることじゃないと思います。お店を潰せとも、言いません。ゲルダさんの村の麦の売り先がなくなるのは、私も困ると思います」


声は、思ったより静かに出た。


「でも、今年の分を埋め合わせて、ここで手を打ったら、帳簿には何が残りますか。買い入れの帳には、五年分の少ない数が残ります。売り渡し帳には、二年分の多すぎる数が残ります。来年の検めで、誰かがまた並べたとき、その数は、何もなかったように見えます。何もなかったことになった帳簿は、また同じことをしても、誰も気づかない帳簿です」


リナは、帳面を胸に抱えた。


「だから、帳簿には、本当の数を書いてください。買った麦の枡数も、売った麦の枡数も。今年の分だけじゃなくて、五年分を。農家の人たちが、本当は何枡売ったのか。払い戻しは、そこからしか数えられません」


仲買人が、リナを見た。


「帳簿は、ごまかさないでください」


人垣の端で、師匠が石垣から背を離したのが見えた。それだけだった。


縄をかけられた背の低い男が、代官所の男に連れられて前に出てきた。番頭のヨルクだった。九枡半の麦が入った木箱を見下ろして、顔をゆがめる。


「……量ってたのは、おれだ」


かすれた声だった。


「買うときは大きい枡。売るときは小さい枡。毎日、言われたとおりに。最初の年は、ほんの一握りだって言われた。誰にも分からねえくらいの、一握りだって。……分からなかったよ、誰にも。ゲルダ婆さんが毎年、九枡半だの、十枡あったのにだの文句を言うたびに、焼印を見せて黙らせた。おれの手は、町で一番正確だって、親方はいつも言ってくれた。正確に、少なく量ってたんだ」


ヨルクは、縄をかけられた手を見下ろした。


「紙さえなけりゃと思った。あの嬢ちゃんの帳面さえなけりゃ、また来年も、同じ手で量れると思った」


仲買人の肩が、すとんと落ちた。


「五年前に、倉庫が焼けてね」


誰に言うともなく、そう言った。


「麦も、帳場も、親父の代からの帳面も、全部焼けた。石で建て直さなきゃ、二度と火の心配のない倉庫にしなきゃ、この町の麦は預かれないと思った。借金は、思っていたよりずっと重かった。……借金を返したら、やめるつもりだった。最初の年は、一分だけのつもりだったんだ。一分なら、土が痩せたのと見分けがつかない。誰も困らない。そう思った」


仲買人は、卓の上の刻み棒を見た。


「一分は、次の年には二分になる。やめる理由が、どこにも見つからなかった」


 


 


始末がついたのは、それから数日のうちだった。


仲買人は組合を除かれ、辺境伯家から罰金を科された。帳簿には五年分の本当の数が書き直され、農家への払い戻しはそれをもとに、倉庫を処分してから行われる。全部は戻らないだろう、とフィオナが言っていた。集荷商の麦は組合の枡で量り直され、足りない分を足して、三日遅れで砦へ発った。


組合の検めには新しい決まりが加わった。直した枡は、直したその月に検め直すこと。秋の検めでは竿秤でも確かめること。『売り渡し帳』と『買い入れの帳』を年に一度並べて代官に出すこと。最後の一つは、アルベルトが自分で書き加えたらしい。


荷は七割ほどが出た。ブリュックで豆の残金を払っても、手元に少しは残る。


出発の前の晩、師匠の部屋で帳面を開いた。


「ノアさんを、雇いたいんです。見習いなので、日当は1枚と食事を。続けて払う約束になるので、5枚を超えます」


「何のために雇う」


「数を覚えてる人が、帳面の外にもいたほうがいいので」


師匠は帳面をめくった。カイルの日当の行と、宿代と飼い葉の行。それから、売上の行。節の太い指が、その三つを順にたどって止まる。


「それで、足りるか」


足りない。それは、リナにも分かっていた。ノアさんの1枚と食事だけでも、ひと月に銅貨九十枚ほどになる。カイルさんの日当と合わせたら、今の行商の粗利では、毎月の帳面が赤くなる。


「……今のままでは、足りません」


リナは、自分の帳面の別のページを開いた。昼のうちに、もう書いてあった。


「でも、ノアさんがいれば、村を二手に分けて回れます。荷を担ぐ人が二人いれば、一日に回れる村が倍になります。一日の売上が今より6枚増えれば、粗利で3枚。日当と食事は出ます。冬のあいだ、オットーさんのパンも運べます」


「増えなかったら」


「冬が明けても増えなかったら、そこで終わりにします。ノアさんにも、そう話します」


師匠は、しばらく黙っていた。


それから契約の欄に、名を書いた。


「冬を越すまでだ」


それだけ言って、三本松のオットーさんの毎月のパンの件も、「まず、一月だ」と言って書いた。


広場に来ていたことは、どちらも口にしなかった。倉庫の隅の三本線の荷が消えていたと話しても、師匠は外套の襟を直しただけだった。


宿の戸口では、アルベルトが一人で待っていた。


「辺境伯家の帳簿に、毎年代金を払っている商人がいます。名前も額も、きちんと書いてある。けれどその名前の店を、領内で見た者が一人もいないのです」


「……名前しかない、商人」


「相談に乗っていただけますか。今度は、私が払う側です。……それで、いくら?」


「見る帳簿の冊数と、かかる日数で決めさせてください。今ここでは、決められないです」


「依頼の中身より先に、値段の決め方を訊くのですね」


アルベルトは、少し考えるような顔をした。


「それと、今朝の馬の分は」


「……あれは、乗せていただいたので。こちらが払う側でしょうか」


「では、相談料から引いておきます」


「それは困ります。馬の相場を知らないので、引かれる額が正しいか確かめられません」


アルベルトは、今度こそ声を出して笑った。


戸口の柱にもたれていたカイルが、腕の布を、必要以上にきつく巻き直していた。


翌朝、宿の前に荷馬車を出すと、見送りが思ったより多かった。


マルタさんは、包みを一つ荷台に押しこんだ。焼きたてのパンの匂いがする。


「来年も、大きくなっておいで」


「……もう、そんなに伸びないと思います」


「伸びるよ。去年もそう言ってたんだから」


フィオナはカイルの前に立って、肩紐を指でつまんだ。


「今度は自分でちゃんと繕いなさいよ。下手でもいいから」


フィオナはそれから、リナの耳元に顔を寄せた。


「リナちゃん。あの護衛さん、大事にしなさいよ」


「はい。腕が治るまでは、重い荷は持たせません」


フィオナは長いため息をついて、リナの頭を軽く撫でた。


ゲルダは来なかった。けれど出発の少し前に、北の村の子どもが走ってきて、小さな布袋を一つ置いていった。中には、干したすぐりの実がひとつかみ入っていた。


荷馬車が動き出す。御者台に師匠。荷台には、カイルと、新しく雇ったノア。ノアは、町の屋根が見えなくなるまで、ずっと後ろを振り返っていた。


坂の上で、リナも一度だけ振り返った。灰色の屋根の町が、雪の前の薄い朝日に光っている。


帳面のいちばん端の「8」の隣に、ペンを置く。


買い付け。


運ぶ途中でも、買う前でも、麦は減っていた。


アルベルト様の紙に書かれていた、名前しかない商人のことを思い出す。


帳面を閉じると、頬に冷たいものが触れた。


見上げると、低く垂れこめた空から、白いものが一つ、二つと落ちてくる。今年はじめての雪だった。


荷台の端で、ノアがゲルダの布袋の口を開けていた。干したすぐりの実を一粒つまんで、しばらく眺めてから、リナの手のひらに一粒、カイルの手のひらにも一粒載せる。最後に、自分の口に一粒放りこんだ。


甘くて、少しすっぱい。噛むと、夏の匂いがした。


「……すっぱいっす」


「顔に出てるぞ」


カイルが笑って、吊った腕を外套の中に引っこめた。


御者台の師匠が、黙って外套の襟を立てる。手綱を握る手が、いつもより少しだけゆっくり動いた。


雪は、坂の下の灰色の屋根にも、北の村の石垣にも、同じように降っているのだろう。ゲルダの家の柱にも、今年の刻み棒が一本、新しく掛けられているはずだった。


荷馬車は、白くなりはじめた坂を、ゆっくり下っていった。


お読みいただき、ありがとうございます。

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