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第8話 粉屋の仕入れ帳

「豆とパン、一つずつ。……嬢ちゃん、今日はどっか行くのか」


荷台に積んだ旅の荷を見て、兵が首をかしげる。


「三本松まで、パンの仕入れに。五日ほどで戻ります」


「五日もかよ。豆がなくなる」


「なくならないように、今日のうちに買っておいてください。お一人二つまでですけど」


「一つずつって言っちまったじゃねえか」


「言いましたね」


兵はぶつぶつ言いながら、もう一枚銅貨を探しはじめる。


朝の交代で、豆が10袋、パンが10包み。銅貨40枚。荷台の豆は残り8袋、パンは12包み。


残りは宿の物置に預ける。帰ってくるまで、この砦では何も売れない。売れない日も、カイルの分と宿代は出ていく。


(30枚の枠の残りは、152。三本松を往復すれば、70と少し)


それでも行くのは、豆の値のせいだ。


ブリュックの豆は高い。冬じゅう豆だけで売り台を埋めたら、値上がりの分がそのまま儲けを削る。パンを近くで安く仕入れられれば、冬の売り台はなんとか持つ。三本松なら、ブリュックより丸二日近い。


商いの理由なら、ちゃんとある。


窓際の席の師匠に、それだけを話す。


「三本松のパンが安ければ、冬は毎月そこから仕入れたいんです。量は、戻ってから相談させてください」


師匠は杯を持ち上げただけだ。行ってこいとも、気をつけろとも言わない。


「戻ってから、だな」


それだけ言って、杯の縁越しに、窓の外の坂道のほうを見ている。


パンのほかにも用があることは、言っていない。言っていないことを、この人は分かっている気がする。


 


 


下り坂は、やっぱり上りより長く感じる。


歯止めをかませて、手綱を詰める。荷台が軽いと、荷馬車は前へ前へと出たがる。


第46便は、この坂を19袋積んで上ってきた。どれくらい重かったのかは、手綱からは分からない。


「三本松の粉屋に用があるのは、パンだけか?」


御者台の隣で、カイルが訊く。


「パンだけです」


「パンだけ、ね」


「パンと、粉の値と、冬の仕入れの段取りです」


「増えたな」


「最初から全部です。言うのを省いただけですよ」


カイルは笑って、それ以上は追ってこない。


その夜は柳橋に泊まる。翌日の夕方、三本松に入る。


宿場の端の馬宿の前に、車輪に一本線の荷馬車が一台。リナは見ないようにして、宿の厩へ馬を引く。見ないようにすると、かえって首がそっちを向きたがる。


荷を下ろしていると、カイルが桶を取りに行くふりをして寄ってくる。


「あっちの馬丁、さっきからこっちを見てる」


「荷を見てるんじゃないですか。馬丁は客の荷を見るのが仕事ですから」


「荷じゃない」


カイルは桶の取っ手を持ち直す。


「あんたを見てた」


リナは縄をほどく手を止めない。止めたら、止めたことが向こうから見える。


結び目が一つ、指の中で余計に絡まる。


 


 


翌朝の水車小屋は、奥の竈から焼きたてのパンの匂いがしている。


「おう、パンの嬢ちゃん。本当に来たな」


粉の向こうで、オットーが大きな手を振る。


「約束どおりです」


奥の竈にいるのが、オットーの女房だ。肘まで粉で白い腕で、平たい堅焼きパンを台に並べている。一枚割ってみると、乾いた音がして、中がきめ細かく詰まっている。よく焼き締めてあるから、湿気にも強い。


「1包みで、銅貨0.9枚。ブリュックのパン屋より、運び賃の分だけ安くできるよ」


女房が手の粉を払いながら言う。


「今日は、20包みいただきます。冬のあいだ、毎月40包みお願いすることになるかもしれません。毎月の分は、師匠と相談してから決めさせてください」


「いい話だ」


オットーが手を叩く。


「うちは粉も自分で挽く。材料が切れる心配はねえよ」


「そこを、確かめさせてほしいんです」


「なんだい、疑り深いね」


女房が笑う。リナは帳面を開く。


「冬じゅう同じ値で出していただくなら、麦も冬じゅう入ってこないと困ります。雪で道が止まれば、麦の値は上がりますから」


「入ってくるさ。見な」


オットーは台の上の仕入れ帳を引き寄せて、こっちへ向けて開く。表紙から粉が舞う。今日はくしゃみを我慢できる。


「麦が決まって入るんでね。月に十六袋。ほら、ここもここも」


太い指が、行をたどる。


先月の欄。二日、麦2袋。五日、麦2袋。九日、麦2袋。十二日、十六日、十九日、二十三日、二十六日。


――麦2袋、14枚、上物。


どの行にも、同じ字が並んでいる。


今月の欄にも、二日、五日、九日。


行の右端に、目を移す。


売主の欄。


――ハック運送。


その横に、木の判で押した小さな受取の印。墨がかすれている。


車輪の丸。輻が四本。その上に、横一本。


三度目だ。


馬宿の荷馬車の後板で一度。ブリュックの穀物店の帳面で一度。そして今、粉だらけの仕入れ帳の上で。


息を一つ吐いてから、口を開く。


「ずいぶんお安く仕入れてらっしゃるんですね。1袋14枚なら、相場の七割です」


「だろ?」


オットーは嬉しそうだ。


「運送屋の親方が、損耗で処分していい分だって言うからよ。処分品なら安くて当たり前だ。でも物は悪くねえ。乾いてて、いい麦だ。うちの石臼が、文句一つ言わずに回る」


(乾いてて、いい麦)


隊長室の机に並べた八枚の届けの字が、一行ずつ浮かぶ。雨による濡れ損じ。


「ハックの親方とは、長いお付き合いなんですか」


「春からだな。……ああ、この日は雨でな」


オットーの指が、先月の九日で止まる。


「親方の荷馬車が、二晩泊まってった。その朝に、まあ、いつもどおり二袋だ」


親方、と言うときだけ、オットーの声が少し低くなる。


「この仕入れの様子、写させていただいてもいいですか。冬の取引の控えにしたいので」


「おう、好きなだけ写しな。こんだけ決まって入るって分かりゃ、そっちも安心だろ」


ペン先をインク壺に浸す。


日付。数。値。品。売主。


一行ずつ、ゆっくり写す。急いだら、字が震えそうだ。


冬の取引の控え、というのは嘘ではない。パンは本当に買う。毎月の40包みも、師匠がいいと言えば頼むつもりでいる。


それでも、今写している行の半分は、パンのためではない。


最後の行を写し終えるころには、台の上の20包みはすっかり冷めている。


「冷めたほうが、日持ちはするけどね」


女房が包みを縄で括って、差し出してくる。粉で白い手だ。リナは両手で受け取る。


 


 


パンの包みを抱えて水車小屋を出たところで、馬宿のほうから大柄な男が歩いてくる。


日に焼けた太い首。擦り切れた革の前掛け。鞭を巻いた分厚い手。


「よう、塩の嬢ちゃんじゃねえか」


ブルーノは、砦の門で会ったときと同じ顔で笑う。


「こんなとこで、何してる」


「冬のパンの仕入れです。ここのパン、ブリュックより安いので」


嘘ではない。腕の中の包みが証拠だ。


「そうかい。そりゃいい目をしてる」


笑ったまま、ブルーノの目がリナの肩越しへ動く。水車小屋の戸口。その向こうの台の上の、閉じた仕入れ帳。


笑い声が、一瞬だけ途切れる。


「坂は冷えるぞ。気をつけて帰んな」


「ありがとうございます」


ブルーノは鞭の手を軽く上げて、水車小屋の中へ入っていく。


戸が閉まる。


リナは包みを抱え直す。指先が冷たい。


写すところは見られていない。けれど、あの人は帳面がどこにあるかを知っている。


カイルが黙って半歩ずれる。水車小屋の戸と、リナのあいだに立つ位置だ。


「宿に戻るぞ」


「……はい」


 


 


その夜、宿の部屋の小さな卓に帳面を広げる。


隊長室で写した、届けと承認の日付。今朝写した、粉屋の仕入れの日付。同じ帳面の、別のページだ。


灯は一本。窓の外では水車の音が続いている。


仕入れの日は、補給の荷馬車が三本松に泊まった翌朝だ。荷馬車はその前の日の朝に、ブリュックを発っている。


仕入れの日付から一日引いて、出発の日を書き足していく。


 第36便 発 一日  届 三日  承認 六日  第37便 発 四日  届 六日  承認 九日  第38便 発 八日  届 十一日 承認 十三日  第39便 発 十一日 届 十三日 承認 十六日  第40便 発 十五日 届 十七日 承認 二十日  第41便 発 十八日 届 二十日 承認 二十三日  第42便 発 二十二日 届 二十五日 承認 二十七日  第43便 発 二十五日 届 二十七日 承認 三十日


ブリュックを発って、三日目の夕方に砦へ着く。届けの日付は、出発の二日後になる。


ペン先で、届けの欄を上から押さえていく。二日後。二日後。


第38便で、ペン先が止まる。三日後。


第42便も、三日後。


雨で、二晩泊まった便だ。オットーの指が止まった先月の九日は、第38便が三本松に足止めされた朝になる。第42便も同じように、一日遅れて砦に着いている。


それなら、承認の日付も一日遅れていないとおかしい。


承認の欄を、上から指でなぞる。


六日。九日。十三日。十六日。二十日。二十三日。二十七日。三十日。


どれも、出発の日のちょうど五日後だ。届けが書かれた日ではなく、荷馬車が河岸を出た日に揃っている。


第38便の行を、二度読む。


届けは十一日に砦で書かれている。その紙がブリュックの補給局に着くには、坂を下りて三日。荷馬車に託したなら、どんなに急いでも十四日だ。


承認は、十三日。


第42便も同じだ。届けは二十五日。着くのは早くて二十八日。承認は、二十七日。


ペン先から、インクが一滴落ちる。


(急ぎの使いでも、出したんなら別だけど)


たった二袋の届けのために、誰が急ぎの使いを出すだろう。


承認書の赤い封蝋を思い出す。その下の、細い字の名前。


輸送担当官 D・ロス。


使いがなかったのなら、この人は届けを読む前に、承認を書いている。


扉が二回叩かれる。


返事をする前に、カイルが入ってくる。外套の肩が、夜の冷気をまとっている。


「ブルーノが馬に乗った」


扉を後ろ手に閉めて、カイルは言う。


「荷馬車じゃない。鞍の馬一頭だ。砦のほうへ、坂を上っていった」

お読みいただき、ありがとうございます。

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